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自称読書家は金閣寺に美を見出せるか。

出せませんでした。11年越しの金閣寺。

私が大好きな作家、平野啓一郎さんがついに書き上げた大作「三島由紀夫論」をより深く楽しむためにあらためて三島由紀夫の代表作「金閣寺」を読み直すと、8年前の私は「ぶっちゃけ何を言ってるかわからん。これが美しい日本語とか言っちゃってるやつは読書家()を気取りたいだけだろ」と読み終わると同時にBOOKOFFに投げてしまったのですが、この歳になって再びBOOKOFFで手に取ってみるとなかなかこれが面白く、やっぱり情景描写のカロリーは高すぎて胃もたれしてしまうのだけれど、テーマというか主張が蜃気楼のようにうっすら見えてきて、あぁ私もやっと読書家()に一歩近づけたのかなぁも実感した次第でございます。

成長の感動に突き動かされる形で突発的に聖地巡礼をしてきました。京都は2回目。直近では卒業旅行で訪れましたが、金閣寺ってアクセスちょっと悪いし、そのエリアもなんかパッとしないんだよね…とシカトしたので中学校の修学旅行以来の再会となりました。

さて、私は金閣寺に「美」を見出すことはできるのでしょうか。という期待感はぶっちゃけ一切ありませんでした。三島の金閣寺では主人公溝口が抱える"心象の金閣寺"と"現実の金閣寺''というのが激しく拮抗…というか侵食しあってというか、膨張し続けてというか、まあ色々あって金閣寺を燃やすんですけど、そもそも私の中にある金閣寺はペラペラな金色の和紙を貼り付けたような3階建ての古民家というイメージであり、金色という言葉そのものは美しさを想起させる響きを持つけど、金色のモノとして初めて目にした時の印象は、
"塗装されたプラモデル"でした。

ということで11年の越しの金閣寺。知識も知見も蓄えた双眸が捉えた先には…うーん、ちゃっちいな!
三島の金閣寺を読んでしまったせいで、私が持っていた金閣寺にバフがかかっていたようでイメージよりもなんかちゃっちく見えました。
ガッカリしないようにあえて期待感のボーダーを下げて臨んだのにそれを下回ってきた時のやるせ無さ。
ただ!これこそまさに現実の金閣寺を前にした溝口の気持ちに近かったのかもしれませんね。頭の中では無意識にかつ無秩序にそして無限に美が膨張しちゃったりしますから。

という感じに楽しく京都観光をしてきました。外国人がとにかく多かったです。冗談抜きで日本人と外国人の比率は5:5くらいでした。
今度はもう一つの聖地、金剛院に行ってみたいですな。

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