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It’s Mine

私たちは
「私のもの」と「そうでないもの」の
区別をつけたがります


私のスマホ
私の服
私のピアス、など
目の前に溢れている物質的なもの

私のうち
私のお金
私の車、など
所有感を満たすもの

私の夫
私の子ども
私の家族
私の友だち
私の仕事、など
所属感を満たす関係性

などなど
ありとあらゆるものが
私に付属するもの そうでないものか
無意識のうちに捉えています


望むものがまわりにあれば 心穏やかです
ですが
そのうち
それがあたりまえではないことや
ありがたさを忘れ
もっともっとと欲しくなります


一方で
「私のもの」を失いそうになると
恐れや悲しみ、怒りなどが生まれます
そして
例え意識はしていなくても
常に 失う不安を抱えていたりします


マスクや消毒液
トイレットペーパーやティッシュペーパーなどが
店頭から無くなる現象
蓄えておきたい気持ちはもちろんわかりますが
そこには
「私」や「私の家族」が良ければいい
私と私以外のものに
明確に線を引いてしまう心理が
わかりやすく現れる例です

では、これはどうでしょう?

私の健康
私の体
私の命

風邪をひいて辛い思いをした後などには
健康のありがたさを感じます

ですが
残念ながら
私たちはそのありがたさを
すぐ忘れてしまいがちです

そして
もっと細くなりたいのに、とか
もっと目が大きかったらいいのに、とか
シミだのシワだの白髪だの…
自分の体の嫌なところばかり目について
ぼやくことの多いこと

この体のありがたさは忘れて
自分の体には厳しさばかり与えがちです


そもそも
「私の体」って何でしょう?

私の体であるにも関わらず
私にできることはどれだけあるでしょうか?


寝てても起きてても息をしているし
知らない間に眠りについて
きちんと目を覚ますことができるし

口から飲み込んだものは
体の中で消化吸収してくれて
尿や便が出てくれるし

爪や髪の毛は勝手に伸びるし
切っても痛くなくて
(アカギレとかちょっとした傷でもヒーってなるぐらい痛かったりするのに‼︎)

傷ができても
リンパ液が出てきて
そのうちカサブタができて
元通りに戻ったり


何よりも
この心臓が
ずっとずっと動き続けている不思議

私の体の中で
見たこともない私の心臓が
鼓動を打ち続けてくれている



私が私だと思っているこの体で
私が自由にできるのは
ほんのほんの少しのこと


食べ物に気を遣ったり
運動をしてみたり
体に良さそうなことはできるけれど

それがどのように
体に作用したり
力をつけたり
整えたりするのかは

お任せするしかない


それなのに
私たちは
『私のもの』という所有感に
しがみつき、振り回されます
私の好きなようにできると勘違いします



私の命にしがみつくとどうなるでしょう


私の命を失う時 = 死 を恐れます

私のものなのに
私の思う通りにできないことを
思い知らされ、苦しむのです




私は
数年前に亡くなった父の死から

自分の体なのに
ある瞬間
自分の意志の全く及ばないところで
完全に 容赦なく終わらされる

ということを突きつけられました



誰(何)によって?


自分の体なのに…

自分の体?

自分って⁇


そんな迷路に迷い込みました


ヴェーダでは

『自分は肉体ではなく魂である』

と説いています


人は死ぬと
心臓が止まり
瞳孔が開き
体温が下がります
そして意識がなくなります


この「魂」とは
言い換えると
「体を動かしているエネルギー」のこと

エネルギーである魂が抜けると
動かなくなる = 死

なのです


この魂こそが自分である


ということを忘れ

この肉体が自分である

と思い込んでいるのが私たちです


これが全ての所有感のはじまりです



この肉体が自分であるという
所有感を持つことで
失う恐怖
すなわち
死への恐怖や不安、苦しみが生まれます

所有感を持った瞬間
それを失う恐れを持つことになるのです



ヴェーダでは こんな風に説明されます

「魂」が私という「本体」であり
「肉体」は洋服だと



私たちは
服が古くなれば
新しい服に着替えます


それと全く同じように

死とは
ただ服(体)を着替えることなのです




ではでは
子どもに対する所有感を手放す
ってどういうことなのか

少しずつ整理していきたいと思います




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