安全な場所から高みの見物をするのが好き
スポーツが嫌いだ。
というより体育や運動会文化の影響で「スポーツを屈託なく好きと言える人が嫌い」になったのが正確かもしれない。
文化祭の準備はサボるくせに体育祭の練習を俺がサボることは絶対に許さない層とか。必死で走ってるのに結果が悪いとキレる層とか。学校文化が問題な気がしてきた。
スポーツって運動じゃなくてルールだから、ルールや審判に従ってたら何やってもいいってエスカレートする設計じゃん。ルールからはみ出せないのは停滞してるみたいで退屈。ルールに面従腹背はその意気や良しだが、結局ルール内の勝敗に固執したら何も生まれない。私は殺すより孕ますより、産みたい。
Eスポーツって言うけど、ゲームもスポーツと同じくルールが核だからか、子どもの頃ほど遊ばなくなってしまった。
それでもスポーツほど嫌悪感がない理由は「やることを強制されなかったこと」と、「作者が描いた物語やキャラクターを楽しめたこと」だな。故に私はキャラゲーと呼ばれるものが好き。ゲーマーには今後もなり得ないと思う。
『ポケモン』は初代からルビー・サファイアまではやっていた。『ポケモンGO』で新しいポケモンたちに改めて出会ってまたやりたくなる気持ちも芽生えたけど、子どもの頃のようにどっぷりと遊べない気がする。
可処分時間が足りてないから、中途半端に遊ぶのは申し訳なく思える。
『FGO』はかろうじて続けている。あれも偉人をポケモン扱いするゲームと言い換えられなくもないし。
自分はゲームに何を求めているんだろう。爽快感とかキャラ萌えもあるけど、やりこみ要素とかめんどくさくなっちゃうし。
オンライン対戦ができる時代だから、コミュニケーションツールにもなってると思う。友達とゲームしながら通話したら楽しそうだけど、ほとんど友達いないからなあ。
ゲーム実況やスポーツ観戦もそうなんだけど、見てるだけで楽しいというのが私は不思議。見てたらやりたくならないのかな。やりたくならないものを見てて楽しいのかなという疑問が循環する。
選手と客の関係は役者と客の関係の観点からも興味がある。
演劇をしたいけど他人の演劇を見ることに興味はないとか、短歌書きたいけど他人の書いた短歌を読みたくないとか。
プレイヤーと観客が二極化しつつあるのかな。
体育で心の底からスポーツに嫌気がさした私だけど、山を登るとか踊るとか歩くとかは好き。
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