追悼

雨宮まみさんという方のことは、SNSでその急逝を悼むいくつかの声を聞くまで全く知りませんでした。「こじらせ女子」なんて言葉が流行っていたことも知らなかった。

けれど、興味をもって(他になんの前知識もなく)その方のWeb連載を覗いたら、引き込まれて一気に全部読んでしまいました。わたしと同じ年だったんですね。そして語弊を恐れずにいうと、死ぬ気満々だったんですね。その言い方はあんまりなので無難な言葉に変えるなら、何かを予感しながら、生き急いでいたんですね。

また違うのですが、学生時代、あるひとに強烈にすすめられて高野悦子の「二十歳の原点」を読み「わたしとはマッタク違う種類の女だわ〜!こんなに共感できない本、初めて読んだわ」と驚いたことを、ずっと忘れていたんだけれども、思い出しました。(発売当時ベストセラーだった本らしいのですが、時代のせいかな)

彼らと我とで何が違うかというと、わたしの人生主題は "幸せに生き抜くこと" なのです。思春期から今に至るまで一貫してそれを自覚しながら生きています。だから、わたしはアブサンを煽って酩酊の中で言葉を紡ぐタイプの詩人にはなれないのです。そもそもお酒弱いし。

しかし、雨宮まみさんもまた、わたしと違う種類の女だなと感じながらも、その言葉は、心に響くものがありました。同じ年だからかな。亡くなってしまったからかな。今まで知らなかったくせにこんなこと言うのも変かもしれませんが、もっと生きてほしかった。

引用)「不幸でなければ面白いものを作れない」というジンクスのようなものが、この世界にはある。確かにそういうタイプの人もいる。幸せになったとたんにつまらなくなってしまう人。不幸であることを原動力にできる人、ネタにできる人。不幸なものほど共感を得られやすいし、つらい、さみしい、切ない、そういうネガティブな感情のほうが、人の心に寄り添っていきやすい。「不幸な頃のほうが面白かった」。それは、この世でいちばん下品な言葉だと私は思っている。その下品な言葉と戦って勝つために、生きたいと思うことさえある。

雨宮さんには、戦い続けて、勝って、幸せに生きてほしかった。「女子こじらせ系」の書籍は、今のわたしはその主題に興味ないので読まないと思うけれど、これから10年後、20年後、30年後の彼女が紡ぐ言葉を、同世代として追って行きたかった。彼女なら、西原理恵子さんみたいな突き抜けたポジションにいけたんじゃないかなあとか、思いました。

R.I.P.


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