上級国民とかいうな

最近は受験シーンにおいて、東京大学の経済学部の人気(偏差値)が法学部をうわまわるらしい。

わたしが学生だった時は「文一、文三、猫、文二」といわれていて、駒場キャンパスに学生面して常参している野良猫たちよりも、文二の学生のほうが暇してるといわれていたのに、時代は変わるものだ。(実際、文二のわたしはろくに学問に向かい合っていなかった…なにやってたんだろう)

その文二が人気なのは、経済・経営人としてのプラクティカルな面でということだと思うが、そのまた昔は東大経済学部と言えば官僚養成学校だったから、わたしの時代は(今も?)、まだ卒業後にナントカ省に進む人たちも多かった。ゼミの同期も、何人かは国家公務員になっている。

したがって独身時代には、時々思い出したように彼らとの合コンをつないだりとかもあった(逆にそれくらいのつながりしかなかった)わけだが、絵にかいたようなノンポリ・外資系だったわたしの視点から見ると、社会に出て5年もたつと、官僚連中というのは「住んでいる世界が違うなあ!」と思うことが多く、10年も経つと、服装も言動も「もう、同じ年と思えない(なんでそんなに老けてんだ?)」ってかんじであった。失礼。

そして、最近のわたしは、なにかにつけ国の行く末を憂えることが増えてきている。特に最近噴出している統計不正や制度不正。

わたしの知る中の人たちは、みんな、その愚かさが分からないような人たちじゃなかったはずなのに、そこまで組織疲弊しているのかと絶望する。

彼らはわたしなんかよりよっぽど真面目で、高い志を持ち、「社会」と向き合ってきたはずなのに。

Google社員というのは、基本的に効率神話の信者で、おもむくままにstate-of-the-artを追い求め、ヘルシーなサラダを食べて生絞りフルーツジュースをチューチュー飲みながらイキイキ仕事をしているが、その目線はおおよそ「社会」の先を見ている。良くも悪くも、世の平均値などはヒトゴトである。

あほのマスコミは高級国民とか上級国民とか簡単に揶揄するけれど、そんなもんじゃない、彼らは個の理論が通用しないところで薄給激務でふんばっている。「結果の如何に関わらずとにかく逃げ出さずにいること」がその条件ならば、ヒーローと呼んでもいい。

それはハナからわたしにはできないことなのであるが、最悪だと思うのは、わたし自身が、いまさらになって、そんな我が国の凋落をヒトゴトと思えなくなってきているってことなのである。

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