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ある詩人のイディオレクト―細川雄太郎異聞―

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童謡詩人細川雄太郎を主人公にした歴史小説です。
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記事一覧

ある詩人のイディオレクト8

【そして風になる】  平成九(一九九七)年。細川雄太郎は地域文化功労者表彰を受けた。これまでの取り組みが評価された形だ。  長野で倒れてより細川は、病がちになり、長年住んだ日野の実家を離れ、病院で過ごす時間が長くなった。  娘や、息子の嫁がたまに細川を実家に連れてくると、必ず「ここで息を引き取りたいものだがなぁ」とひとりごちた。  この翌年、二月二一日に細川は急性循環器不全でこの世を去った。享年八四。  稀代の童謡作家として名を成すものの、復員後は地元にとどまり、後進

ある詩人のイディオレクト

【忘れ物】  突然頭に強い衝撃が走った。旅行先の長野でのことだ。  気が付くと、ベッドに横になっていた。隣にいた看護婦が心配そうに声をかけてきた。 「大丈夫ですか。ご自身のお名前と今がいつか分かりますか?」 「……細川……雄太郎。平成八年五月……」 「倒れられたのは昨日のことです。一過性の脳虚血症だったんです。脳の血管が一時的に詰まったんですよ」 「美津は……」 といいかけて、妻を昨年失くしていたことを思い出す。しかも、おそらくここは長野の病院だ。頭を殴られたよう

ある詩人のイディオレクト6

【上州の歌声】  時は流れ、仕事も定年となった。ありがたいことに童謡は歌い継がれていて、あちこちから講演などを依頼される。  昭和六一年一一月三日、東部鉄道の藪塚駅に着いた。地元の有志から中央公民館一〇周年記念の講演を依頼されたのだ。  このまちを去ったのは四六年も前のことだった。建物は変わり、勤めていた近江屋(岡崎商店)も二〇年ほど前に店を閉じていたが、町の空気は、あの時のままだった。一五歳でここに来て、戦争でやむなく去ったときは二六歳。  改札を出ると、遠くに赤城

ある詩人のイディオレクト5

【葉もれ陽の時節】  子どもたちも随分と大きくなった。途中で引っ越した実家のあるこの日野の地にも随分と馴染んだようだった。  自身の方針は決めたものの、日々の仕事の中でなかなか最初の行動を起こしかねていた。もちろん、戦後の物資不足の中、いち早く『童謡詩人』の志を継ぐ横堀先生の『童謡祭』や長野県の『童謡人生』などあちこちの同人誌に詩友として参加してはいた。しかし、自身で後進を育てることには手を付けあぐねていた。  日野に戻ってすぐ、『炬火―TORCH―』の編集人を有志に頼

ある詩人のイディオレクト4

【引揚】  昭和二〇年八月一五日。玉音放送は釜山で聞くことになった。ここ、朝鮮海峡では多くの訓練をしたものの、戦闘らしい戦闘はほとんど行われなかった。関沢が行った南方などは凄まじいありさまだと伝え聞くが、新聞を見ても勝った記事ばかりで実際の様子は分からなかった。  昨日、佐藤伍長が部屋を訪ねてきた。珍しいことで、内容は釜山行きの連絡だったが、最後に、「細川、この島に来た時の手帳を持っているか」と問うた。  手帳は、詩作の礎(いしづえ)だから丁寧に保管してある。 「あの

ある詩人のイディオレクト3―細川雄太郎異聞―

【南川里の夜】 「元気か」  数か月ぶりに会う関沢は痩せていた。丸顔に丸眼鏡がトレードマークだったのが、こけた頬の上に銀縁のフレームが乗っている。半面、レンズの奥の眼光は、一層鋭さを増した。配置先はそれほど過酷なのか。関沢は、南方配置の後、一度韓国に戻ってきていたので、時間をやりくりして会ったのだ。 南川里(ナンチョムリ)の町は、京城と釜山のちょうど間だった。田舎ではないが、それほど大きなビルはない。少し京都の東山に似ていると思った。 「膝が痛んだり、腹を下したり散々だ

ある詩人のイディオレクト2―細川雄太郎異聞―

【陣中日誌】  麦島は釜山港の沖合にある巨済島の東方にあった。南北二キロ、東西五〇〇メートルの小さな島で、はるか南東には対馬があり、天気のいい日にはその姿をおぼろに望めた。空から見ると島の形が海に浮かぶ麦の形見えることから、この名前が付いたという。  麦島には、約一〇〇名の日本兵が詰めていた。一二月八日、日本が英米に宣戦布告し太平洋戦争が勃発。しかし、離島では静かな日々が続いていた。重砲兵として派兵された細川の生活は、訓練と掃除、当直などで過ぎた。上官は、目の前の朝鮮海峡

ある詩人のイディオレクト1―細川雄太郎異聞―

【再会】 「関! もしかして、関沢君と違うか」  見覚えのある顔を、カーキ色の群れの中で見つけて駆け寄った。相手も目を白黒している。そしてやっと、「雄ちゃん、一緒の輸送船(ふね)やったんか」と丸眼鏡の奥で目を細め、互いの肩を叩きあった。  一五分前、一等輸送艦は玄界灘を朝鮮半島側にわずかに過ぎたあたりにいた。上官たちは、周囲の状況を鑑み、船底に押し込めていた新兵たちを甲板に開放した。昭和一六年八月。時刻は昼を過ぎたころだった。 「それにしても、こんなところで出会うとは