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ドクロを着た男と、恋愛話のコンテクスト

こんにちは、バッハ・コナカです。今日は恋愛の話をしようと思います。先日東京から最も尊敬している友人の一人が、休みを取ってブライトンへはるばる遊びにきてくれました。一緒に古着店巡りをしたりビーチで昼から酒を飲んだりと楽しくツアーガイドをつとめたのですがやっぱり思ったのは……「このレベルで笑ったの久しぶり!」ということ。彼女はまずもってスーパーインテリジェントで、頭おかしいくらい面白いんですよ。たとえばだいたい恋や仕事の愚痴って他人にとっては退屈だと思うんですけど、彼女にかかればとんでもないエンタメに変化する。だから私は彼女との会話が大好きなんですが、とにかく話に興奮しすぎてこんなに笑ったのはいつぶりだろうと。こちらでたくさんイギリスや各国からの友達ができたけれど、やっぱり語彙が限られているし、リスニングで聞き逃している部分もあるから、どうしても会話が浅くなりがち。細かいニュアンスとか微妙な言い回しができない。言葉は必ず思考にも影響を及ぼすから、使えるワードの数が少ないと思考も浅くなる。すると話が上下左右に膨らまないんです。対して語彙が豊かな人の会話には、ダイナミックな波が打ち寄せるような迫力がある。こちらに来て日々それを実感しています。会話のテーマはさまざまですが、やっぱりなんだかんだ世界共通で恋愛の話は相手により踏み込んで仲良くなるには有効。たかが恋バナと言って、侮ってはなりません。

さて、ブライトンに遊びに来た友人とひたすら話していたのは、服装の趣味が合わない彼をどこまで許容できるかどうかという話。「理工学部のチェックシャツみたいなオタクの方がいい、変にファッション大好きな人のほうがいや」という自分を棚に上げ偏見に満ち満ちた意見を陳述したところ、「私だってバキ童とか全然いいけど、でも逆に全身ドクロの人と付き合える?私ドクロだけはどうしても無理」と彼女。そもそも全身全霊でドクロ着てる人なんて現実に存在しないでしょというのは置いておいて、思い出したんです。かつて大学生の頃にどうしようもなく大好きで沼だった人が、「ラインストーンのドクロワンポイントを身につけがちな人だった……」ということを。

彼は某御三家高校出身でとても頭がよろしく、面白く、けれどもラインストーンのドクロがワンポイントのロンTやニット帽を着ているギャル男卒みたいな人(当時、2006 年はマックイーンとかルシアン ペラフィネの影響で流行の残り香があったのは事実)。しかしながら人のアテンションを集める才とオーラがあり、一緒に哲学のレポートに取り組んだ時、あまりの抽象思考に長けた知性にときめき。人生で一人の男性にこんなに恋焦がれたことは後にも先にもないっていうくらい、「彼のために何かをしたい」という想いに囚われ、彼がサボった授業のノートをわざわざ懇切丁寧に取っては渡しに行ってあげるといった愚かな19歳夏でした。片思いでした。グループで遊んでいるときに豆腐の水切りを褒めつつこっそりみんながいないところで頭を撫でてくれるというベーシックな「風早スキル」も持ち合わせており、彼は天性の人垂らしでしたね。というしょうもない話を一通り早口でまくし立てたあとに、先ほどの友人が「それは納得のドクロじゃん」と真顔で押韻。その後もひたすらドクロ性をベースに話し続けました。

そこでふと我に返りとても寂しくなったのは、このレベルの文化的な文脈を共有した恋愛の話、こちらのネイティブスピーカーたちとできてないわ、ということ。納得のドクロとかドクロ性とか言ったところで日本語話者以外にとっては意味不明であるのと同じように、そして日本語の教科書には決して出てこないだろうから日本語を学んでいる人にとってさえ意味不明であるように、英語話者の人たちが共有する文化的背景から生まれる言葉やコンテクストを私は理解できていない。それに気づいたらどうしようもなくみじめになってしまったんです。「納得のドクロ」を理解するためにはまず、ドクロがダサい、という2006年頃に青春を過ごした人たちの間での文化的な暗黙の了解がベースに必要で、さらに、それでも「納得」できるのは彼がある程度インテリであるということが特定の学校名から伝わることも必要で、さらに彼のムーブが、「君に届け」の風早君のようなヒーロー然としたものであるという前提も必要で、つまりそういった細かい背景の積み重ねの上に成り立つ「納得のドクロ」なわけです。悲しい。このレベルで理解しあえる会話を、あと1年そこらでネイティブの子たちと英語でできるようになるだろうか……。

彼女が帰り際に言っていたのは、「イギリスって基本みんな怒ってるし、すぐ物は壊れるし、問題が起きてもたいてい何もしてくれないから、ちょっと優しくされただけで軽率に恋に落ちそうになるね。短い旅でも理解した」ということ。いやそうなんだよね!孤独だし、一人では何もできないし、人に頼らないと生きていけなくて、助けてくれたり手を差し伸べてくれたりする人を一瞬で好きになる現象。「都会で自立して生活してたら恋に落ちるってなかなか難しいよね」と。結局誰かに恋をするというのは、そこに性欲が介在しない限り、「思いやり」から来る優しさを与えたり与えられたりする瞬間にしか発生しないのではないか、と思います。もちろん、自立した人同士が惹かれあって、それでも自分のスペースを共有して一緒に生活していこうとなったらば、最高に理想的なのですが。

後日談

例の友人から、國分功一郎先生ならドクロ着てても推せる、まず絶対着ないと思うけど。とLINEが来ました笑。

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