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詩を読むこと

文章を読むのが苦手だった。

小学校で一週間に何冊の本を読むか報告しなきゃいけなかったりするのは本当 に嫌だ。並べられた文章を追ってもどこを読んでいるか途中でわからなくなってしまうし、凄く疲れる。

でも、本を読むのが嫌いだったわけではない。今でもそうだが、気に入った本は繰り返し読んだ。他の本を読みなさいと言われても、今はこの物語と決めたら何ヵ月も一冊の本を読んでいた。

『ねこが塀の上を歩いていて。人の家の中を覗きまわる。大切な人を探して旅している』

そんな感じのあの本のタイトルはいったいなんだったか。全く思い出せないのだが、あの本が小学校の図書室の本棚のどのあたりにあるか、今でも思い出せる。古びた本の手触りや、紙の暑さ、破れているページ。手の中で鮮明に甦っていく。タイトルのわからないその本を、私は目を閉じて、記憶の中でたびたび取りに行くのだった。

母が与えてくれた本で1番は『智恵子抄』だった。

小学校4年生のころ母が与えてくれた。母から「私が子どもの頃はもっと本を読んでた」と言われるのが凄く嫌だった。私は好きな本を好きなだけ読んでいたのだから。ただ、同じ本だっただけだ。

母への反発心はあったが、『智恵子抄』はすっと私を虜にした。あれから、20年近く経った今日までずっとだ。私の部屋には三冊の『智恵子抄』がある。再版で販売された古い本と文庫本2冊はいつも部屋にあるし、高村光太郎だけでなく、詩集は色々揃えてある。

文章を読むのが苦手な私にとって、詩の世界は自由に感じられた。短い言葉の中に、読者は自由に想像を膨らませることができる。そして、音もリズムも縛られていない。詩を音読することは、私の遊びの一つになっていった。

周知のことだが、高村光太郎『智恵子抄』は光太郎が妻の智恵子について書いた詩を集めた詩集。光太郎が智恵子へ送ったラブレターを書斎の棚から見つけて読んでいるような心持ちになる。別の相手と結婚する智恵子を引き止め、愛を語る詩からはじまるその詩集は光太郎の愛の言葉が連なって、燃え上がっていく若い二人を垣間見る。幸せな二人。いつまでも幸せでいてほしいのに、そうならない。

「私 もうじきだめになる」

『智恵子抄』の中で有名な『レモン哀歌』は、智恵子の死語すぐに書かれた詩ではない。光太郎は書けなかった。書くことは未来に言霊を宿すことになる。その本の中では永遠に変わらない事実になるのだ。大切な人の死を書くのはどれだけ時間がかかるのだろうか。壊れた魂を治すにはどれだけかかるのだろうか。

「あなたの機関はそれなり止まった」

書き手が死を書くのに決心がいるように。読み手にとっても死は一回だ、その瞬間は覚悟をする。読み返す度に、本のなかでその人は何度も繰り返し死ぬ。でも、誰にとっても、その人の死は一回だけ。最初に読んだその時だけ、その瞬間はその一回しか起こらない。

「あの清潔なモラルの天地で
も一度新鮮無比なあなたに会ひませう」

じゃあ、なぜ何度も読み返すか。それは作者と思い出を語りたいからなんだ。きっと。

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