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「ジョルジュ・バタイユ」についての問答

*古い記事で恐縮です。。

「ミクシィ参加のころ」2008年9月12日

このミクシィに参加した頃は小難しいサイトによく書き込みをしていた。
今はこの「ジョルジュ・バタイユ」コミュは脱会したが、久々にのぞいて読んだ。
言葉・概念だけの対話が如何に困難であるかを痛感する。
最近はよほど必要でない限りは此処で書いているようなやり取りはしたくない。

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バタイユサイト
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=107761&comm_id=29774&page=all

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下記バタイユの引用文は或る『作家論』に掲載したものです。
ニーチェの影的存在でも在り、より哲学的考察したバタイユに関しては今日に至っても殆んどが無理解と誤解偏見に満ち満ちた視点観点ばかり。悲惨な状態ですね。

簡単な自己紹介で、今回は失礼致します。

「次のことは、烈しいことばで言っておかねばならぬ。あきらかに心に刻んでおかねばならぬ。  
すなわち、真理は、人間たちがひとりひとり別に、おのれの姿に見入っているような場所にはないのだ。
真理は会話とともに、共有される笑いとともに、友情とともに、エロチスムとともに始まり、ひとりの人間から他の人間へと移行しつつ、はじめて生起するものなのだ。おのれの孤立にしがみつく人間のイメージは、私の嫌悪をそそる。自分が世界を反映しているのだと称する孤独者を、私は笑ってやる。彼に世界を映し出すことなどできやしない。なぜなら、彼自身がその反映の中心点である以上は、中心点を持たぬものと対応することを彼はやめるからである。私の考えでは、世界は孤立し閉じこもったどんな存在にも似てはいない。私たちが笑う時、私たちが愛しあう時、ひとりの人間から他の人間へと移行するものにこそ、世界は似ているだろう。そういう世界を想定すると、無辺際のものが私に向かって開かれ、私はその中に身を滅ぼす。」(バタイユ)   

だが、自らの手でおのれをくびり滅したものの、明晰で不屈の意志が現れている以上、物言いの差異や個人名など些末事にすぎぬ。 

*わぶはんぺさん、梅崎です。[15] 梅崎幸吉(コメントの問答の一部)

影的存在というのは比喩です。
先にバタイユがニーチェ的視点から登場すれば逆になったかもしれません。
それと、バタイユはニイチェよりも哲学的思考が若干強かった分、違った苦悩をしました。哄笑する事は出来ませんでしたが。これは彼の誠実さとでもいえましょう。

>ニーチェ=真実はない、無数の解釈が存在する
バタイユ=浮遊する思考
で、バタイユはニーチェの思想をより内的なベクトルで継承したという認識なのですが。認識というより感覚でしょうか。

無数の解釈を判断する基準となるものが不明瞭です。
ここに空転する悟性的思考の限界があります。

バタイユの思考は浮遊してはいません。拠って立つ確固とした足場が無い状態での思考なのです。
在るとすれば、彼自身の『内的体験』です。
これは読み手が同じ体験をしないと理解不能です。

『哲学は死んだのだ』も『神は死んだ』と同じレベルの比喩的表現です。
デリダも基盤無き基盤を考察の基点に据えています。
これでは同心円の繰り返しを脱することは出来ません。

科学も哲学も思考を道具として用いなければ認識不可能です。

問題はその思考自体の質です。これも説明は難しい。
自らが思考による徹底をより深めていかなければ。
この思考の根拠となる根拠をもしかと見極めることが必要でしょう。

哲学的思考はまだまだ健在ですよ。単に不徹底なだけです。死ぬということは単に物質界にのみ適用可能な言葉です。

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