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「観るということ」

「観るということ」



画家の眼は「観る」という行為に徹する。

視覚表現という言い方が今日の風潮である。
この視覚という概念は広義の意味で用いなければ深みには
至らない。

深みとはあらゆる事物・現象の精髄に至るということである。

単に観るだけでも表現は出来ない。
観たものを又消し去り、さらに観る。
そしてその精髄のみで表現する。

この行為は瞑想と同じ行為である。

肉体の感覚器官だけではなく心魂的器官をも素材とする。

技術と芸術の違いでもある。

通常の思考は空間に溶解され、その動きのみを観る。
しかし、その動きには全てが含まれている。
これは当然の事だが、観る玄人のみにしか観えない。

思念も心魂的現象も、更には精神自体をも観る。

この地点に至れば分野の境界等存しない。

これは通常の言語では語れない。

一般で言う「孤独」とか「悲哀」という概念も消え去る。
融合しつつ常に止まぬ活動しかないからである。

時代に即した精神は理解されても、先駆的な精神は理解されぬのは当然である。その基準が存しないからである。

無私に至り、創造的無私へと。さらに全体・部分との密な連動。

全ては素材にすぎぬ、それも生きた素材である。
この「生きた」というのも通常の生ではない。謂わば、大いなる生である。一般では神秘的なものとされるし、見える。
「私は私であって私ではない、しかし私は私として存在する」と、このような言語矛盾を常に前提とする。

観たものを感覚的素材を用いて精神の精髄を視覚的なものにするのが画家である。

この地点の意識は我々の誰もが獲得可能であるが、また最も困難な事でもある。

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此処で書かれている内容の一歩手前でA・ランボオ、ニーチェ等が斃れた地点でもある。

私が私であって私ではない。一見言語矛盾のようであるが、これは強烈な内的体験を経て獲得されうる。

我々個体的存在の「私」が拠り所とする物質、感覚的世界・知覚の足場が消滅するからである。

よほどの強固な自己意識、自我を所有していない限りはこの地点で我を失うか、狂気に至る。

近代から現代に於いても、この問題は依然として我々の日常の課題でもある。

この意識状態は通常の言語では語り得ないからである。

相対的意識、虚無観の状態で半端な自称神秘家と称する者は悟ったと思い込む。

本来は、此処からが真価が問われるのであるが。

神秘学的用語を用いれば「生命体験・宇宙生命体験」と同じでもあるが、これにも諸段階がある。
観念的、心情的、感覚的・心魂的、等々。

この意識の日常化が今日の課題である。
ただ、これは別の言い方をすれば生きたままの「死」を体験する、ということでもある。
このような物言いに様々な批難、批判は必至である。
彼らは単に「自分は体験していない」というだけである。

これは殆んどの存在にも当てはまる。
如何に我々が物質界の知覚状態に囚われているか、ということ。
これ以上でも以下でもない。
視点を変えれば夢の意識化、無意識の意識化ともいえる。

自己認識に限界は無い。これもまた個々人が勝手に境界を設けなければ、であるが。

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