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ルドルフ・シュタイナー著「自由の哲学」(高橋巌訳)を読み解く

ルドルフ・シュタイナー著「自由の哲学」(高橋巌訳)を読み解く



下記の文章はルドルフ・シュタイナー著「自由の哲学」を読み解くために私が主催したものの為の序文、説明のようなものです。

当初は20数人いた人達も20数年近く経ると今では7人ほどになりました。

これは考察する内容が難解なためにやむを得ぬ事です。

自分の生活を破綻させるくらいなら止めた方が本人の為です。

特にルドルフ・シュタイナー著「自由の哲学」は哲学界から無視され、シュタイナーの思想は自然科学、宗教界からも異端視されています。

「自由の哲学」は今後の哲学を学ぶ上での基本中の基本となるべき著作でありながら今後最低でも2、3百年は認知されることはないと思われます。

この哲学的考察と平行して朗読や絵画表現も開催してきました。

思考による考察だけに偏らぬ為にです。

ルドルフ・シュタイナーの世界観は壮大なものです。

今では多少は知られてはいますが43年前は本当に少数でした。

ルドルフシュタイナーの著作を最初に紹介したのは大正時代、大川周明です。

この様なものを公表する事に若干の躊躇がありましたが、今日の時代状況を考えると必要な事であるという結論に至りました。

ほんの序文程度ですが、敢えて此処に公表致します。

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ルドルフ・シュタイナー著「自由の哲学」(高橋巌訳)

テキストは「自由の哲学」ですが、現実では様々な概念、思考形態等があります。

例えば「無私の精神」「無償の行為」「真我」「悟り」「空」等々、「自由の哲学」に連動、関連するような概念や物言いがあります。

私達は何気なく用いている日常言語の中にもここで考察しているような思考内容や言葉等があります。

小林秀雄の著作には「自由の哲学」と思考内容が重なる考察が多くあります。

他にも似た考察内容や物言いなどもあると思います。

私達が日常に用いている概念、言葉等、或いは「自由の哲学」の考察とどのように関係、関連しているのかを考える事も思考を練磨する上で重要な事であると思います。

私は日常的によく用いる言葉で「魂の質」という言い方をします。しかし、この物言いに対してかなりの人々から強い反感を受ける事があります。

「魂の質?そんなこと誰が分かるの?誰が決めたの?その基準は何なの?等々」と。

他者から見れば余程傲慢で偉そうに見えるし、聴こえるのでしょう。私にとっては自明の事でも聴き慣れぬ人物にとっては至極当然な反応です。

私は日常の人間関係でもかなり断定した物言いをします。この「魂の質」という言葉もそうです。

この言葉は各自の自我と不可分に連動しています。換言すれば「魂の純度」の問題です。

個人の魂の純度に応じて個人の意識状態は違います。その違いはそれこそ人の数ほどあります。とはいえ、似た魂の質や意識状態があるのも事実です。

私にとっては他者と対話する時の必須条件です。眼前の人物の魂を洞察できなければ対話は成立しません。

無論、話をしている相手に対して多少は共通の理解や共感はするとは思いますが、内容が深くなればなるほど限界は自ずと生じてきます。

各個人の言葉、概念に対する解釈が違うからです。

個々人にとっては偏見や歪みが自分を守る為のバランスでもあるからです。

私は各自違う解釈や偏見を前提として、この対話方法を「魂の遠近法」と命名しました。

この概念、方法は私以外に用いている人物は私が知る限りまだいません。

話を戻します。「魂の質」とは魂の純度の違いであると書きました。

魂の純度とは個人の意識状態を当人がどこまで思考を通して自覚、認識しているか、にかかっています。

要するに、個人が自らの魂を何処まで思考を通して認識、意識化しているか、という事です。

個人の魂は自明の事ですが当人のみの問題です。ただ、各個人の魂の純度に応じて偏見、歪み、混濁が生じます。

この微妙な差異を正確に見抜き、区別して対応しないと相手に対しての暴力と化します。

さて、個人の魂が思考によって隅々まで意識化され明晰になれば、魂は透明になり「無私」に至ります。

無私とは一切の偏見が無いという事ですが、単なる観念や心情的理解の段階だけでは他者に働きかける事はとても困難です。

感覚レベルまで血肉化しない限り他者に対してどのように処すべきか、の方法を見出すのは難しいでしょう。

しかし、私がこのように言葉で説明しても簡単に理解され得るものではないという事も知っています。

特に、直に相手を前にして話をせずに言語表現で創造的に対話する事の困難さは私が言わずとも皆様が日々痛感されている事と思います。

私達がここで「自由の哲学」をテキストにして考察し、言語表現している事はとても重要な事でもあり、あらゆる書物を読む集中力が増します。

分野を問わず、ただひたすら地道に自分が出来得ることを日々練磨する事に尽きます。

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前回の文章から難解な概念を少し考察してみたいと思います。

私が「無私」という 概念を用いましたが、この概念もまた体得しない限り理解し難いものであります。

殆どの人々が「魂の純度、質」という物言いに反感を示すと書きました。

これは言い方を変えれば各自が具えている天性の「性格」です。

「自由の哲学」では「性格学的素質」という概念が用いられています。

個人の魂の純度が透明になれば「無私」に至ると書きました。

これは個人の魂の快、不快(好き、嫌い)を全て思考を通して認識、意識化する事です。

無論、簡単な事ではありません。この魂を透明な状態にするには前提として「相対的意識」を保持しなければなりません。

相対的意識とは一切の偏見や歪みを徹底的に消し去って獲得できるものです。

換言すれば、あらゆるものを公正に観るという事です。

それを前提として、知覚できるあらゆる事物や心的現象をも偏見を排して考察する行為でもあります。

相対的意識が観念から心情、さらには感覚レベルまでに至ると感覚界、物質界の足場は消失します。

足場無き足場が自分自身の足場と化します。

この状態で自分自身を保持する為には公正な思考を徹底的に練磨しておく必要があります。

自我と概念のみの思考(純粋思考)を体得していなければ、自己の精神を正常に保つことがとても困難になります。

しかし、この意識状態こそが真の自己認識のスタート地点でもあります。芸術表現では抽象表現の前提でもあります。

ソクラテスが言った「無知の知」であり日本では「無常」と同義の意味です。

この地点、相対的意識状態から生命的で叡智に満ちた思考へと変容させて日常生活の中で生きるという事が自明の事であるという自覚が己の内部から生じます。

いわゆる、「創造精神」へと個人の精神は変容し、普遍的個人へと至ります。

とはいえ、このような人物は今日では皆無に等しいのですが。このような意識状態を獲得する使命を持って我々個々人はこの世界に誕生しました。

私が書くとどうしても一気に結果へと論を進める傾向があります。

これが私の生まれ持った「性格学的素質」でもあります。

私自身、常に大いなる保留を心がけるようには努めてはいますが、ついつい先へ先へと行き過ぎるのはもっと自戒せねばならぬことです。

他者と対話する時には「魂の遠近法」を用いるために相手の許容量を踏まえつつ話すのでかなり慣れてはいますが、、、。

ルドルフ・シュタイナー 
https://ja.wikipedia.org/wiki/ルドルフ・シュタイナー

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