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「無私と虚無」

「無私と虚無」

 小林秀雄が「芸術家は最初に虚無を必要とする」といった風なことを書いているが、この真意を理解・体得し得た存在は皆無に等しい。

 無私と虚無、この似て非なるものの概念を語るとは、この概念自体の実体を体験獲得しなければならぬからだ。

 無私とは「私」の喪失ではない。むしろ真の私・自我のことを指す。これはどう足掻いても唯物論的観点では打破できぬ代物である。

 世界は表象にすぎない、といった類に準じる視点観点の限界とは「死ねば終わり」という結果に至る。
 今日の浅薄な自称哲学者と称するものらの基盤・基点ともなっているこの仮定された実体無き考察の根拠は物質世界の表象に基づいている。

 知覚する主体が消えれば世界の知覚も糞もない、というわけである。
では、その認識する道具である『知覚』という『五感覚的知覚』も単なる表象にすぎぬ。表象が表象をどうやって認識可能であるのか。
 事物の認識主体が知覚する眼も手も単なる表象にすぎぬのであれば、それら表象という主観的なものが如何にして事物の判別判断が可能となるのか。表象とは何であるのか。単に肉眼の視覚像にすぎまい。さらには盲目の存在には世界は存在しない、というに等しい。こんな論理矛盾の、単純な思考考察の矛盾すら気がつかぬ。

 常にあらゆる事物の認識には思考が介在している。
 われわれ人間存在に本能の如く具わっている「思考存在」この実体を頑なに拒否し続ける限り虚妄の世界、夢との区別はつくまい。     

 情報知しか知らぬ人物達は「虚無」とか「無」等々、或いは本能云々という言葉を簡単に用いる。

 これでは「無私」の何たるかは永遠に謎であり続けるであろう。この観点からの「私」の考察は全体との関係の中で実体を持ちえずに紛糾、難破するのは自明である。

 自分自身の身体機能、感情すら制御しえぬものらの何と傲慢なことか。無論、この考察も彼らからすれば傲慢極まりない、と思うであろうが。

 要するに、空転する唯物論的思考の呪縛から抜け出るのは自らが言霊を実体験して自覚するしかない。
 単に私はそのような体験、知覚は知りません、と言っているにすぎぬ。

 知覚できぬものは認識できぬ。当然である。ただその知覚を身体の五感覚世界に勝手に限定しているというにすぎぬ。
 ゆえに、身体が消滅すれば一切も消滅する、と。

 無私についても「私」が無くてどうして判別判断する、と。で、「私は此の世で一番孤独だ」と、孤独の競い合いのオンパレードである。

 ハムレットもどきの小型版が犇きふんぞり返っている。

                                                     2008年11月

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