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人は少し怖いけれど、“ひと”は好き

ひとと関わることが大好きだ。
自分がそういう人間だとは知っていたけれど、自分からひとと出会いたいがために動くことはあまりなかった。

時間に追われ、やらなければならないことや自分のしたいことにがんじがらめになっていたからということもある。
だが、それ以上に、“他人に興味がなかった”のだと思う。
自分の中にあるこの矛盾がずっと気になっていた。

心理学に基づいたとある診断では、私は社交性がとても低いとされた。
関連する質問はおそらく「集団でいることが好きか」とかだったと思う。
この質問への答えはNO。
集団でいると、ひとりひとりが“他人”に見える。
他人にどう思われるかわからないのに、他人の集団となるとさらに恐ろしく、“未知である”からだ。

他人にどう思われるか分からない、という点については、自分が他者にネガティブにジャッジされることを恐れているといえる。
過去の経験からこう思うのは仕方がないと言い切ることができる。
ただ、過度に恐れなくてもいいともう少し思えるようになりたいと思う。

次に、他人の集団が恐ろしいという点。
集団の中に、自分が少し気心知れたと思える人がいたとしても、他人の集団に入るとなぜかその人も他人のように感じてしまうことがないだろうか。
二人での温度感と、他の人が混ざったときの集団での温度感が違う時の怖さ。
多くの場合、とても低温で冷ややかで。
自分がのけものにされているように感じることが多かった。
ただこの経験の多くが中学生まで。大学生で感じたこともあったが、今思えば、集団に合わせようとせずに自分らしくいようとした抵抗の時期だったなとも思う。

最後に、一番重要で過去のトラウマのせいで気づかなかった、“未知であるが故にその人に興味がない”という点について考えたい。
私は、基本的に他人に興味がない。
集団の中にいても、私が興味があったのはその集団でなされる活動だった。
活動以上のことでは関わることはなく、それ以外に興味が惹かれたとしても、それよりも私は自分の活動が大事だった。

他人が人になるとき。それは、同じ温度感で空気を作って快適だと感じられたとき。
相互にこれからも関係性を続けていきたいと思い、それを表明できたとき。
そんな時から、私は人として相手と関われるようになると感じる。

直感でそう感じるには、1対1で話せる環境が必要だ。
今思えば、“人として関わりたい”と思える他人も少なからずいた。
でもそこまで踏み込みたいと思えるまでの関係性を作れなかったことばかりだった。
関わらず、他人でいることを選んだのだ。

なぜか。
一方的に気になっていても、相手が私に興味を持ってくれていないと関係性は築けないとなぜか思っていた。
そして、声をかけたところでうまく話せなかったらどうしよう、自分の劣等感ばかり浮き彫りになったらどうしようと思ってしまうからだ。

さらに何より、他人と話すことで“時間の無駄”になることを拒んだ。
当時は自分の興味と、私がその人が好きという感情が一緒くたになっていた。
自分がどういう人と関わりたいのかが明確ではなかったのだ。

今はわかる。
大切にしている人やもの、考え方がある人。
大切を周りの目を気にせず突き通せる人。
大切を行動に移している人。
大切に向き合おうとしている人。
その上で、他者の大切をリスペクトできる人。
そういう人が好きだ。

他人の中にもそういう大切が見える力があれば、世界はあったかくなるのになと思う。
でも、それを想像してこそ、温もりが生まれる気がする。
社交性は低いけれど、他者の大切に触れたときに、その温かみに気づいて、そっと寄り添える人でありたいと思う。
その温かさを両手で包み込んで、私の温もりも伝播させたいなと思う。

そのために、たくさんの人と出会って、たくさんの大切に気づいて、私の心の温もりを高めていきたい。
そしてその温もりを広げていきたいと思う。
他人や集団の冷たさの怖さの払拭するように。心の氷を溶かすように。

怖さにダイブするのは難しいが、好きを惹きつけることは良いことだ。
社交性が低いからこそ、自分で動いていきたい。
温もりの炎は私の心で燃えている。


今回もお読み頂きありがとうございました。
また今回も、素敵なイラストをヘッダーにお借りしています。ありがとうございます。