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「ポリコレの正体」福田ますみ

2019年に出版されるやいなや、ベストセラーとなった、
ブレイディみかこ「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」。

HONZ内では複数の記事が出るほど大人気で、
ついには第2回のYahoo!ニュース+本屋大賞ノンフィクション大賞まで獲ってしまった。

新潮文庫として文庫化した後も勢いは収まらず、
毎年夏の「新潮文庫の100冊」に選ばれている。

続編「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2」も大人気で、
その後も、この著者は出せば出すほど売れる(「リスペクト ――R・E・S・P・E・C・T」「私労働小説 ザ・シット・ジョブ」などいずれも大当たりという、超ベストセラー作家となった。
もちろんAmazonの評価は平均で★4.5。評価数から見るととめちゃめちゃ高い。レビューも絶賛の嵐である。

私は「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」については、例によってHONZで複数のレビュワーが絶賛しているのを見て、かなり早い段階で読んだ。

その時、なんとなく違和感を感じた。

「なんだか分からないけどこの著者の書いている内容と私とは合わないな?」と思いながら、その後も読むつもりはなかったのだが、職場の関係者がめちゃくちゃ絶賛していたので、なんとなく気が進まないまま2も読んだ。

モヤモヤとした違和感はさらに強くなった。

今回、福田ますみの「ポリコレの正体」という本を読んで、
そのモヤモヤとした違和感の正体が少し分かった。

「ぼくはイエローで~」は、舞台がイギリスだったが、
あれはかなりポリコレ色の強い本なのだと思う。

本書「ポリコレの正体」のメインの舞台はアメリカであるが、
北朝鮮から亡命してきた人(パク・ヨンミ)に「アメリカは北朝鮮よりも狂っている」と言わしめるほど、
アメリカはポリコレ(ポリティカル・コレクトレス)の最先端を行っている。

そしてそれは、遠く離れたここ日本にも影響を与えている。

X(Twitter)のTLを見ると、その話題に触れない日は無いほど多くの投稿がなされている。

本書で引用されている、あるXユーザのつぶやき、「ジェンダー・LGBTQ・多様性・SDGs・ポリコレ・フェミ…すべて左派のまやかし(政治利用)に聞こえる。そんな世界は嫌だ」があるが、ある人達がそれに同意したいと思った際に、ネット上でしかできないという空気は既に出来上がっている。
つまりこれ(ポリコレ)に関して批判的な気持ちを持っていても、ネット上でなら発言できるが、リアルでは非常に発言しにくいのだ。

ポリコレとは、要は「大多数(マジョリティ)の人間は少数(マイノリティ)の弱者を守ろう」という態度であるが、本書を読んで改めて感じたのは、メディアを含め、余りにも多くの人が腫れもののように扱っているため、最近それが暴走しているのではないか、という事だ。
「紙幅の都合もあり、選択的夫婦別姓についてやフェミニズム、BLMと連動したアンティファの実態などに関してはほとんど触れていない」と書かれているのが残念だ。

X(Twitter)上で政治的なつぶやきをすると、フォロワーが一気に離れるという。

かく言う私も、今回このnoteでポリコレについての記事を書く事についてはかなり慎重になっているが、それでもやはり何がどう来るか分からないのである。
なぜなら、少しでも世間の空気、その界隈の人達への「忖度」から外れれば(あるいは記事が気に入らなければ)、Xなどではポスト削除、アカウント凍結につながるからだ。
おそらくこのnoteも例外ではないだろう。

それほどまでに今現在の空気は「ポリコレを大切にしよう」寄りだと思う。

ポリコレの空気に関しては日本もなかなかのものだと思っていたが、本場アメリカのポリコレ最先端の事例は半端ない。

「レイプ文化(レイプ・カルチャー)」という言葉があります。これは例えば女性が社会的に不快な思いをした場合、つまり、ある言葉や写真、映像などを見て失礼だ、ショックを受けたと感じた時、それはレイプと同じだとする考え方です。

「月曜日のたわわ」問題(マンガ「月曜日のたわわ」の全面広告を日経新聞が掲載して炎上した問題)にしても、日本でも既にこの空気ができているのが分かるが、著者の福田ますみは、「心の脆弱性、傷つきやすさという点でいえば、今の米国の大学生ほどひ弱な人種もいないだろう」と言う。

「(ハーバード大学の韓国系の)教授の専門は性犯罪に関する法律で、強姦罪、わいせつ罪などに詳しいのですが、教授が『レイプ』とか『性的暴行』という言葉を使うと、学生たちがおかしくなるというのです。
『精神的に耐えられないから、性犯罪に関するあらゆる言葉は使わないでくれ』と学生から言われたといいます。」

性犯罪に関する法律で『レイプ』という言葉が使えなかったら、授業が成り立たないだろう。

これだけでも十分にすごいのだが、さらに、

驚くのは、こうした傷つきやすい学生のために、大学側がわざわざ彼ら「専用のシェルター」を用意していることだ。
「米国東海岸のブラウン大学は、アイビーリーグのエリート校として知られていますが、この大学の『セイフスペース(安全な場所)』には、クッキーや子供用の粘土、塗り絵の本が置いてあり、授業に出たくない学生のためのカウンセラーも待機しています」(シュラー氏)

要は、授業の中で『レイプ』とかの言葉を使われて気分が悪くなったら、大学が用意している『セイフスペース』に逃げ込む事ができる。そこにはお菓子や子供用のおもちゃが用意されているという…。

なんだこれは?ギャグか??

そんなひ弱なことで、この大変な世界の中でこの先、生きていけるんだろうか、他人の子供ながらに心配だ。

こういうエピソードを聞くと、「弱者」とされる存在があまりにもちやほやされ、あるいは腫れもの扱いされているのではないかと思えてくる。

「米国では多様性(ダイバーシティ)が重要なキーワードになっていますが、内実は、肌の色や民族の違い、性的少数派など表面的な多様性を尊重するにすぎず、思想的多様性については、一切許されません。結局のところ、左翼のプロパガンダしか許されない状況を、多様性とはとうてい言えないなと思います」(麗澤大学准教授ジェイソン・モーガン氏)

モーガン氏は、「ポリコレの中でも思想的多様性については許されない」と言う。

あえて危険を承知で書くのだが、今現在言われている「多様性」とか「ポリコレ」というのは、ある一部の人たちの都合の良い部分だけのものなのではないかと思えてくる。
例えば私は以前、「聖なるズー」という本のレビュー記事を書いたが、その本では、動物性愛者、わいせつ電話、死体性愛、排泄物性愛、浣腸性愛、尿性愛など(個人的にはこれに児童性愛と痴漢も入れて欲しい)は、精神医学の世界ではパラフィリア(異常性愛、性的倒錯)として、性にまつわる精神疾患としてとらえられている。
本書では、

二次元のキャラクター、たとえばアニメや漫画しか性愛の対象と感じない人がいる。これは性的志向だから、自分たちも性的マイノリティに加えてほしいという意見が出ている。しかし、LGBTの研究者は頑なに拒絶したそうだ。

という。

LGBTを声高に叫ぶ人には、なぜ男性同士、女性同士愛し合う事は良くて、動物や児童と愛し合うのはダメなんだろうかと問いかけたい。
その他にも様々な性愛の形がある。もし少数派を認める多様性の社会、と言うのなら、これら全ての人達を認めないといけないだろう。

かく言う私も、
ロリコン
触手
ふたなり
緊縛
浣腸
拘束
SM
尿道責め
といった、なかなかに多様な性癖を持っている(これでもごく一部しか書いてない)。
上で書いたように、精神医学の観点からすると恐らく私もパラフィリアと認識されるレベルであろう。
だがX(Twitter)にログインしTLを見ていると、このレベルの嗜好を持つ人はゴロゴロいるし、それ以上に私の理解の範疇を超えている人もゴロゴロいる。例えばリョナと呼ばれる暴力や拷問などを受けるヒロインに性愛を感じる人、四肢切断や貫通などの性癖は、私にはなかなか敷居が高いが、それでも『そういう性癖の人もいるんだなあ』とか、むしろ逆に『私だけが異常ではないんだ』と安心さえするのだ。

もちろんの事、リアルの世界では完全に隠している。
親戚や家族はもちろん、周りにいる友達、職場の同僚他職場関係の人、私のこの性癖を知っている人はほぼいない(ほぼ、と書いたのはごくわずかに例外がいるからだ)。
基本的に私の性癖を知るのはnoteとX、Kindleの読者しかおらず、それも「柏木 海」という、私のアバターにしか過ぎないのだ。

リアルの世界で堂々と「私は浣腸プレイが好きだ」などと言うと大変な事になる。
モーガン氏が「(ポリコレの世界では)思想的多様性については、一切許されません」と言うのはここにある。

だが私は思うのだ。

なぜ多様性を謳いながら、公の場で「私は浣腸プレイが好きだ」一つが言えないんだろうか?

この文章を読んで、「私もリアルで人に言えない(だからXで書きまくっている)趣味嗜好(2次元のキャラしか愛せないも含む)を持っている」という人がいたら、ぜひ本書のP220、P221だけでも読んで欲しい。
エロゲのキャラだけを愛する人だって、「被抑圧者」「被害者」と思える筈だ。
なのにそういった人たちが声を上げないのは、ひとえに「余計なことをして目立ちたくないから」という気持ちにつきる。
本書でも言及されているが、日本にいるLGBTの過半数以上の人は、「求職・就労時、地域で暮らすうえでセクシュアリティに由来して困ったことは特にない」「自治体にパートナーシップ宣誓制度があっても宣誓しようとは思わない」と思っており、「そっとしておいて欲しい。目立ちたくない」という意見が非常に多い。
「結局、騒いでいるのは活動家だけなのではないですか」
と本書にあるが、そう思われても無理はないのではないか。

本書によると、LGBTの中でも本当の支援が必要なのはT(トランスジェンダー)の中の一部の方だけである。
更衣室やトイレ、制服と言った問題、履歴書や各種書類の性別記載などはいずれもTの方の問題で、LGBには何ら関係ない。
Tの方の問題をLGBT全体の問題としてきた事に、今日の混乱がある。

新宿二丁目のゲイバーのママたちは、「差別されたことなんてない。幸せに生きてきた」「こういう事は秘め事でいいのよ」と言っている。
先に挙げた私の性癖嗜好も、秘め事でいい。たまにSNSで同好の士とその話題でちょっと盛り上がるだけで十分なのだ。

本書はアメリカと日本を舞台にしているが、後半には人種差別(特に黒人差別)に関するアメリカのポリコレの話が書かれている。
ウィスコンシン州立大学の大学院における「多様性訓練」では、『all white people are racist』(全ての白人は人種差別主義者である)を叩き込まれるという。
これを読んで、その昔、手塚治虫の「ガチャボイ一代記」というマンガの中に、手塚先生がアメリカに行った時、「黒人はカッコ良く、白人は醜く描いて下さい」と言われた事を描いていたのを思い出したが、あの時(1970年代)から既にその動きはあったんだなと改めて思う。

アメリカではポリコレにより「メリークリスマス」と言う事ができない。
非キリスト教の信者にキリスト教の祝祭を強制する事になるからだ。
先日、アメリカ出身の同僚にも聞いたからたぶん間違い無い。
少なくともテレビや店では誰も言っておらず、「ハッピーホリデー」と言う。
なんか味気ないな。

もちろんアメリカ人の中にはポリコレに反対する人もいる。
その同僚は「私は『メリークリスマス』と言うのが好きなのに、Annoying(迷惑だ)」と言っていた。
ちなみにトランプ信者である。
トランプは欧米でタブーとされる「ポリコレへの真正面からの否定」をするからあんなに人気があるんだろうな。

これは私が先日、Xに投稿したポストであるが、
やはりこの本を読んだ影響である。

もっと言ってしまえば、

クリスマスも正月も祝えないエホバの証人の信者達は喜ぶだろうな。

とも書きたかった(さすがにセンシティブが過ぎると思い書かなかったが)。
別の記事でも書いたが私の叔父がエホバ信者で、
昔からその異様さを目の前で見てきたからだ(その理由もあり私はエホバの証人を信用しない)。

「メリークリスマス」を「ハッピーホリデー」に言い換えるのも、
何と言うか、数年前に流行語大賞になった、いわゆる「忖度」のような気がする。

「その人達(マイノリティ)が嫌だと思う事をしない」
という動き。

それはそれで良い事なのだと思うのだが、それが余りにも過剰になりすぎているのではないか。

ここ最近のポリコレのニュースを読む度に、
この運動がもはや暴走しており、守られる筈の立場の人たちの要求がどんどんエスカレートしている状態になってはいないか、と思わされる。

特に「女性差別反対」(フェミニスト)や、「LGBT差別反対」を錦の御旗にした言葉狩りの章は強烈である。

はっきり言う。

女性の著者が、(男性擁護を含め)この本を書いてくれた事を私は評価したい。

「よくぞ、書いてくれた」

という気持ちである。

もともと、この著者の事は、「でっちあげ ―福岡「殺人教師」事件の真相―」というノンフィクションを読んでかなり興味を持っていたが(というかその著者の他の著書が無いかと探していて今回の本に出会った)、
やはり改めて、この人の着眼点は鋭い、と感じた。

また他の著書も読んでみたい。

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