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子が可愛い、と思っても結局自分が一番可愛い

 前回投稿した通り、エン様(子どものあだ名)が突発性発疹を発症し、その過程で熱性けいれんを起こした。突発性発疹は「グズグズ」で有名らしい。まじで史上最強のグズグズで、ほぼ終日11kg抱っこだった。下ろそうとしたらギヤアアアと反抗。笑顔も少ないし、遊んでくれない。病児対応のしんどさは、今までのしんどさとひと味違う。

 普段から育児をしていると、親の都合と子の主張が対立する場面は多い。私は抱っこしたくないが抱っこをせがまれる、私は外に生きたくないが遊びに行きたいと言われる、私はご飯食べてほしいのにイヤイヤされる、私は家に帰って家事したいのに帰らないと言う、私は早くお風呂入りたいのにイヤイヤされる……。結局無理矢理親の都合を通し、ギャーーーン! となることも多数。

 子どものことは、目に入れても痛くない、食べちゃいたいと思うほど可愛いと思っている。何なんだこの可愛い生物は! 世界で一番可愛い!! と思っていても、抱っこがしんどくて下ろすのが現実の親。

 あぁ、どこまで行っても私は自分が一番可愛いのだな、と思った。
 心の底から子どもが一番可愛いと思っていたら、自分を滅して子どものために尽くせるだろうが、そんな聖人はおらず、どんな親も自分を優先する場面がある。自分が一番可愛いから。

 そこで思い立って、「エン様が一番可愛い、全てにおいて優先される存在である」という設定で数日過ごしてみた
 生活上の譲れない項目(私がトイレ行くとか、宅配便の対応とか)は親優先にしたが、それ以外は全てエン様ファーストで、歩きたいときに歩き、ハイハイしたいときにハイハイし、外に行きたい時に行き、座り込んで遊び、電車を見たいときに電車を見て、シールを貼りたいところに貼り、食べたいものを食べ(バナナ丸2本食べた)、テレビを見たいときに見て、抱っこしてほしいときに抱っこした。
 誤解なきように補足すると、子どもの欲求を親が全て先回りしてやってやることで子の欲求を叶えてあげようということではない。子どもを観察し、生活リズムやルールのなかで可能な範囲で子どもがしたいようにさせてあげてみた。なんせ相手は病み上がりの1歳児なのだ。大人だってドカ食いしたりお酒飲みまくったり散財しまくったり自分の欲求のままに過ごす日もあるのだから、子どもにもそんな日があっていい。

 結果どうなったかというと、まず私の体重が減り、筋肉がついた。
 抱っこマンなので休日の場合、延べ抱っこ時間は1日4時間くらい。11kgのウェイトトレーニングを4時間と思うとなかなかハード。プッシュアップやプランクのできる時間が伸びた。ただし、変なトレーニングなので身体が歪み、左右の脚の長さが違うのが自分でもわかるレベル。肩や腰がパンパンに張っている。
 
 でも、不思議と清々しくて達成感があった。今日はエン様が好きなように過ごせたぞ、という満足感。笑顔をたくさん見れた。涙を流すことはなかった。「ママ、ママ」と不安そうに私を探し求める声を聞かなかった(私が家事をしていてエン様から見えなくなるとすぐ探しに来る)。
 
 家事は後回しなので家中とっ散らかったが、自分で「そうしよう」と決めることで後ろめたさがなくなった。家が片付いてない気持ち悪さはあったが、エン様が寝てから怒涛の勢いで片付けることでリセットした。
 平日は保育園に行っているので一緒に過ごすのは朝夕計5時間しかない。この時間くらい、自分の都合全部後回しでエン様ファーストで過ごしてあげても全然いいな、と思った。


 「子どもが可愛いと思っても、人間誰しも自分が一番可愛いのです」
 という言葉は、私の言葉ではなく、たまたまご縁がつながった東寺のお坊さんから教わった。仏教では自分への執着(欲)をなくすことを目指す。でも実際の人間は欲まみれ。子どもを脇に置いておいて、家事したい、仕事したい、遊びたい、買い物したい、美味しいもの食べたい、無限の欲が出てくる。利他より自利。たとえ子どもであっても、他人より自分最優先なのが人間。

 子どものための施設やイベントに行ったとしても、実は子どものためではなく「そこで楽しそうにしている子どもを見たい自分」とか「思い出を作りたい自分」の欲だったりする。実は、子どもは家の近くの公園でママとブランコに乗りたいと思っているかもしれない。
 これからさらに「子どものため」を装った自分都合のシーンは多々出てくるだろう。習い事とか受験とか。自分からやりたいと言い出すならまだしも、親が決めるものは全て親の欲だと思う。「子どものため」と習い事に通わせたとしても、親は子どもに運動ができるようになってほしい、音楽の才能がありそうだから伸ばしてあげたい、良い学歴を付けさせてあげたいといった欲を抱えているのであって、奥底には「良い子に育てて自分が安心したい」という欲があるだろう。本当に子ども本人のためになるかどうかはずっと後に子どもが成長してから決める話だ。

 学びは真似び、ということでまずは形から入るべく、エン様が最優先という設定で利他の真似っこをしてみた。やはり現実の生活を考えると、親の欲(自利)をなくすことはできない。私たちは菩薩ではないから当然である。私も欲まみれだし、人間誰しも利他的な部分と自利的な部分を併せ持っていて、利他的な人間になりきれない姿も全部丸っと肯定するのが仏教(真言宗)なので、それでいいのだと思う。
 ただ、たとえ1日だけでも、自分に一番近い他者である子どもに対して、利他的に生きてみるというのは学びの多い体験だった。たまに、子育てが親都合偏重になっていないか見直すのは良いかもしれない。



 この記事を読んでくれた方に何か気づきがあれば嬉しいです。最後までお読みいただきありがとうございました。

《終わり》 

 

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