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もう一度、はじめようと思う。

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機能不全家庭での生育過程と情緒的ネグレクト、子どもへの虐待の連鎖について連載したものです。
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もう一度、はじめようと思う。

はじめまして。 昭和に生まれた私は、ずっとずっと長い間、自分が恵まれた生い立ちなのだと思…

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①私は、望まれなかった三女として、誕生した。

私が生まれた家は、名のある老舗でもなければ、伝統芸能の家元でもなく、もちろん引き継がせる…

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②もちろん、神様は、助けてくれない。

新しい家に引っ越すとともに、私は、家から一番近いカトリック糸の幼稚園に通うことになった。…

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③何も知らず、無邪気に、誰かの宝物を盗んだ。

家の近くの側溝に薄汚れたリカちゃんを見つけたのは、たぶん、私が小学生になる少し前だったと…

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④寒さと痛みは、とてもよく似ている。

やがて小学校に入学する頃には、ダイニングルームだったところを急拵えで私の部屋に誂えてくれ…

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⑤小学生の私は、完全に忘れられた。

母の病状は、良くなったり、悪くなったりを繰り返していたけれど、ある時期を境に目に見えて回…

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⑥どんなものも、「私だけの」ものではなかった。

小学校の宿題で、「おうちの人に、あなたの名前の意味を聞いてきましょう」と、言われた。 なので無邪気に聞くと父は、上の姉が「ち」で始まる名前、下の姉が「え」で始まる名前、だから「ちえ」と、屈託なく教えてくれた。 友達の、様々に意味や願いが込められた名付けに比べると、あまりにも簡単な気がした。それでも私は、自分の名前が嫌いじゃなかった。それは、紛れもなく「私だけの」名前だから。 思えばどんなものも、私のためだけに親が用意してくれた「私だけの」ものではなかった。 それぞれの

⑦心を閉ざした代償として、花を育てることに没頭した。

私が小学校に入学するころには、母は少しずつ日常生活を取り戻しはじめていた。けれどもそれは…

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⑧努力しても、願っても、叶えられないことがある。

幼少期に、ほとんど外遊びをしないまま入学した私は、当然、跳び箱が跳べず、逆上がりができな…

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⑨私は一人むせながら、むきになって食べた。

時代は1970年代。私がまだ小学生だったある日、父が会社の従業員やその家族を招いて、ガーデン…

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⑩はじめて自分が、他とは違うことを自覚した。

私が物心ついたころにはもう、母は狂気の世界にいた。 他の人には見えないものが見え、聞こえ…

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⑪人には、幸せにならない権利すらある。

小学校入学の健康診断で、私は、虫歯があまりにも多いと指摘された。 学校の生活指導で正しい…

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⑫彼女にとって私はたぶん、唯一の友達だった。

高学年になって成績が上がると、今度は教師から過剰に期待されはじめた。私はすぐに、教師のお…

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⑬話しかけても、返事をしてくれる女子はいなかった。

ずっと遠いところにいた母の心が、ゆっくりと帰ってきていた。姉たちはとっくに独立していた。そして、父の事業はうまくいかなくなって、気付けば、昼間からアルコールを飲んでいる姿も珍しくなくなってきていた。 私は、中学生になった。 中学校は弁当持参で、ようやく日常生活を取り戻しはじめた母が作ってくれた。相変わらず顔は合わさなかったけれど弁当は、毎朝、玄関の靴箱の上に置かれていた。 母の作った弁当は、夕べの残りの菜っ葉やこんにゃくがおかずで、そのだしが、ご飯に茶色く染み込んでいた