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⑧努力しても、願っても、叶えられないことがある。

幼少期に、ほとんど外遊びをしないまま入学した私は、当然、跳び箱が跳べず、逆上がりができなかった。

最初はクラスの半分近くができなかったのに、一人また一人とクリアしていき、とうとう最後の一人になる。

私は毎日たった一人、放課後に校庭で練習した。コツも何もわからず、ただやみくもに繰り返した。両手のマメがつぶれて鉛筆を持つのも辛かったし、子どもながらに、このまま一生できないのかも、と、絶望的な気持ちに押し潰されされそうになりながら、涙を浮かべて練習を重ねた。

やがて、その瞬間は突然、訪れる。

ふわっと体が浮いて、跳び箱が跳べ、逆上がりができる。

私は、努力することの意味を理解した。

諦めないで頑張れば、こんなにも心がふわふわするような、ウキウキして飛び上がりたくなるような、ご褒美がもらえるのだ。

高学年になって、次の難題は自転車だった。

子ども用自転車に補助輪を付けて、小さい頃から乗り慣れている友達とは違い、うちには、姉が使い古して錆びだらけの大人用が一台あるだけだった。

私はまた、たった一人で練習した。サイズの合わない自転車で、何度も何度も転んで、肘や膝を擦りむいては自分で手当てし、時には胸や腰を強打しながら歯をくいしばった。

逆上がりよりは強敵だったけれど、これもどうにか、スルッと走り出す瞬間にたどり着いた。私は嬉しい気持ちより、もう痛い思いをしなくて済むことに安堵し、少しの間、放心した。

以来、私にとって努力することは、とても身近で当たり前で、言い換えれば、努力しない人のことは理解できず、どちらかと言えば軽蔑していた。

そしてやがて、足元をすくわれる。

どんなに努力しても、たとえ他の何もかもを犠牲にして一心に願っても、叶えられないことがある。むしろ叶うことのほうが稀で、逆上がりや自転車くらいのものなのだ。

例えば人の心を動かすこと。
例えば才能の圧倒的な違い。
例えば組織の中の圧力。
例えば女性であるというだけで踏みにじられる尊厳。

挫折を知って、受け入れることや、諦めることは、大人になるための第一歩なのかも知れない。けれども私は、そのプロセスにしくじり、うつ病になった。

それから長い時が流れ、母になった私は、子どもを幼稚園に送迎する自転車が必要になった。夫は何も言わずに、普通の自転車の何倍もする電動自転車をポンと買ってくれた。

まわりのママ友は羨んでいたけれど、このことについて、私は何の努力もしていない。自分で稼いで買ったわけでもない。

どれほど努力しても、叶わないことがある。

けれども時には、何の努力もしなくても手に入るものがあり、叶うことがある。

子どもたちが三歳になると、補助輪付きの自転車を買い、付きっきりで練習した。乗れるようになると、身長の伸びるに合わせて買い替えた。性別が違って好きな色柄も違うから、お下がりではなく、いつも新品を買った。

子どもたちは、与えられることに慣れきって、当たり前だと疑うこともない。むしろ他者との比較で不満を溜め、自分たちが恵まれた境遇だとは思いもしない。

「努力して、努力して、達成する」という成功体験は尊い。けれどもそれを子どもたちに強いることは、やはり価値観の押し付けであり、ひいては虐待のそしりを免れない。

私にとってあれほど身近で、当たり前だったその感覚が、今は何だか輪郭がぼやけ、実感のない幻想に思えた。

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