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夏へのあこがれ


海、入道雲、蝉、向日葵、スイカ、風鈴、線香花火。これだけの言葉で夏を指していることに気づいた人は多いだろう。「夏」なんて単語を使わなくても違う言葉で表現できてしまう。私は夏が羨ましくて仕方ない。


小さいころから何者かになりたかった。幼稚園の七夕の短冊では「ピカチュウになりたい」と書いたし、アニメの主人公の彼女が言う「普通の高校生になりかった」という台詞も言いたかった。奇しくも、いや、当然のようにピカチュウにはなれなかったし、普通の高校生活を送った。

大学生になるとSNSの一つにTwitterが賑わいを見せた。面白い動画や話を載せて”バズる”人が生まれ、今ではインフルエンサーなんて呼ばれる人も出てきた。テレビには出ないけど名前は知っている、身近な有名人みたいな存在に憧れなかったと言ったら嘘になるけど、かつてほど魅力的に思わなくなった。何者かになりたいと思っていた私は、何者にもなりたくなくなっていた。

「自分が何がしたいか、どうなりたいのか、真剣に考えたほうがいいよ」

仕事の話をしているうちに、人生の話になっていた。人間である以上、欲がないことはない。ただ私が考える欲って、あの映画を見たいとかこの本が読みたいとか友達と旅行に行きたいとか、そんなものばかりで。半径5キロメートル以内で完結しそうな欲が散らばっている。

考えれば考えるほど、自分の身近の誰かが幸せになってくれたら、という他人に依存した幸せばかりで、自分にとって何が幸せなのか、どうなりたいのか分からなかった。ゆっくりと歩みを進める針は12を超え、1に近づいていた。


就職活動のときにした自己分析は、自分とひたすら向き合うことだった。自分の良いところも弱いところも見つめるのは、学生にとって少し酷な気もするけれど、自分のことを考えて、表現するのは、純粋に面白かった。けれど今回必要なのは自己分析じゃない。周りから見た自分を考える、他己分析に近い感じがする。

文章を書くようになってからもうすぐ1年になる。けれど、自分の文章はどの程度のもので、どんな表現が得意かなんて分からない。思いが伝わるように、ただひたすらに真摯に文章と向き合ってきただけだ。「上手くなったね」と褒められて喜ぶ半面、その人が文章から感じる”私らしさ”を早く見つけないと、そんな気持ちにもなった。私の良いところって何だ?そもそも私ってどんな存在なの?

DRESSの「忘れ得ぬあの人の言葉」という連載のなかに、「良さを言葉にできるということは、置き換え可能であること」という記事がある。タイトルは、筆者のいとうさんと言葉にできない時間を過ごしていた彼が放った言葉だ。どちらが何かを言うわけでもなく映画を見て、その感想を話すのが2人の暗黙のルール。そんな彼が一度だけ映画の感想が出てこなかったことがあった。そのときの台詞がタイトルになっている。

この記事を読んでから、たまに彼の台詞が私の頭の中に出てくる。面白かった話や良かったポイントを伝えている自分に対して、「あれ、もしかしてそんなに感動してないのかな」、そう問いかける自分がいた。誰かに伝えたい、でも言葉にしたらどこかに埋もれてしまうような気がする。どちらが正しいわけではない。ただ私は、これからもこの揺らぎのなかで過ごしていくんだと思う。

何者にもなりたくない私は、夏に憧れている。

独自の肩書きが欲しいのかもしれないし、自分を言い表すものが欲しいのかもしれない。そう思う一方で、表す言葉が出てくれば出てくるほど、自分に何も残らない気がするし、自分ではない誰かに代わられてしまうような気にもなる。全く同じ人間はいないのにね。

暑い暑いと嫌がっているものの、布団から出たくなくなる時期を迎えたら夏を欲しがっている。もうしばらくの間、夏への憧れは捨てれなさそうだ。

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