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【長編小説】警鐘を打ち鳴らせ


第一章【振り返れ】1



 振り返れ。振り返れ。振り返れ。もっと、もっと振り返れ。今、最も実行すべきは「振り返る」こと。良いか、忘れるな。常に頭に置き、常に実行しろ。



「振り返れ」

 私は、またその言葉で目を覚ます。低く響くその声は割と聞き慣れてしまったようだ。鐘の音や鶏の鳴き声、また、その代わりとなるものが存在しない以上、起床する際に役立っていると言えなくもない。しかし、これで二日連続になる。私がこの言葉で起こされることに少なからず辟易を覚えていることもまた事実だ。

 私がいつものように体を起こすと、いつものように私を見つめる夜の闇のような瞳と目が合う。見続けていると本当に夜に吸い込まれそうなほど、その二つの目は美しく、恐ろしい。そして、闇に染まった夜空に頼り無く浮かぶ三日月のように、瞳の中心には黄金が輝く。私は初めてその瞳を覗き込んだ時、まるで其処に別世界の夜空が映っていると錯覚したほどだ。それ程までに彼の目玉は魅力的だった。

「振り返れ」

 彼はまた、先程と同じ言葉を繰り返す。否、先程どころか、もう幾度となく聞いた同じ言葉である。好い加減に聞き飽きて来るというものだ。

 そう、一日目にして私は聞き飽きていた筈だ。その旨はとっくに伝えてあるのだが彼はそんなことはお構いなしとでも言うかの如く、同じ言葉を同じ声音で以て呪いのように繰り返す。たった五文字の音が織り成す発言は、いつ何時であってもその調子や響きといった正しさを崩すことは無かった。

「振り返れ」

 これで今朝にして既に三度目となる。私はついに耐え切れず、もうやめてくれないか、と懇願に近い心情を抱えて彼に告げた。

「では、お前は真に振り返っているか。振り返ることが出来ているか」

 やっと「振り返れ」以外を発したかと思ったのも束の間、やはりと言うべきか、その短い言葉の中にもそれに関するものはしっかりと組み込まれている。私は頭を抱えた。

 一体、彼は私に何を伝えたいというのだろう。幾度も幾度も繰り返される主語のない「振り返れ」という一言だけでは、その真意を汲み取ることは出来ない。

「もっと、具体的に言ってくれないか。そんなにも同じことを繰り返すほど、私に何かを伝えたいというのなら」

 起きたばかりで良く回らない頭のまま、私は言う。彼は私の言葉を理解しているのかいないのか、やはり依然として同じ言葉を繰り返すのみだった。振り返れ、と。

 私はいよいよ諦めを深くし、大仰に溜め息をついた後、布団から抜け出す。溜め息は決して彼への当てというわけではないのだが、そうでもしないことには自分の中にある感情を整理することが出来なかったのである。

 平たく固い布団を押し入れへと仕舞い上げ、その上に枕を放り投げる。おそらくはそば殻が詰まっているのであろう枕は、がさりと音を立ててから沈黙した。低血圧ゆえか、はたまた彼のせいであるかは知る所ではないが、私は少々の苛立ちを覚えながら襖を勢い良く閉める。

 思った通りの音を立てて襖が閉まる。それを見上げていたのだろう、彼は丁寧にも、焦りや苛立ちが生み出すものはほとんどが無意味で不利益である、と忠告した。その発言が更に私の苛立たしさを深くしたことは言うまでもないだろう。

 朝餉あさげ。白米と味噌汁、それに大根の漬物を頂く。質素ではあるが大切な食事である。私は良く味わうようにしてそれらをゆっくりと口へ運んだ。板間の隅では、私を窺うようにして彼が座り込んでいる。正直、あまり気分の良いものではない。何処か見張られているような具合でもある。

 しゃりしゃりと大根の漬物を咀嚼しながら今一度彼を見ると、感情の読み取れない表情でじっと此方こちらを見据えている。黒曜石のような瞳は間違いなく此方を――私を見ているに違いないのだが、何故か私の体を突き抜けて、遠く、私の意識の及ばない彼方かなたの地でも見ているようにも思う。

 私は終わりに麩の浮かんだ味噌汁を飲み、箸を置く。洗う作業は面倒に感じたので、とりあえず私は器を水に浸して出掛ける準備をすることにした。とは言っても、私の持っている衣類は多くない。

「……うん、綺麗だろう。おそらく」

 昨日と同様の着流しに袖を通す。姿見がないので確認は出来ないのだが、おかしくはない筈だ。目立った汚れも無いだろう。

「汚れているかどうかを気にしているならば問題は無い。汚れることなどないのだ、一切が。本来ならば食事も不必要である。お前が食物を摂取することは単なる己の満足に繋げる為の行為であり、生命維持には無関係だ。時間の無駄とも言える」

 いつの間に来たのだろうか、私が驚きのままに振り向けば、つい先程まで板間の片隅で石像のようにして動かなかった彼がそこにいた。見開かれた瞳が私の姿を捉えている。

「食べなかったら死ぬだろう」

「それは常識の範囲での概念であり、此処では通用しないもの。最初の日にそう言った筈だが、くも人間の記憶能力、或いは理解能力とはこうも乏しいものなのか」

「そう言われてもだ、空腹にはなる。腹が減れば食べたいと思うのは不思議ではないだろう」

「是。しかし、その空腹はお前の錯覚に過ぎない。人間の脳味噌は騙されやすい。そう簡単に己の感覚を信じるべきではない」

 私は今日で二度目になる溜め息を吐き出した。埒が明かないとはこういうことを言うのであろう。私には此処で押し問答をするつもりは無いのである。

 彼の横を素通りし、玄関先へと向かう。その後ろを、さも当然と言わんばかりに彼が追って来る。足音はしない。気配で分かるのである。

 ご丁寧にも、草履を履く間、彼は私の隣で侍従のように佇み、私の用意が済むのをただ待っている。こうして黙ってさえいれば、然程さほどの問題は無いようには思える。

「良いか、忘れるな。振り返れ」

 立ち上がった私に彼はまたも同じ言葉を繰り返す。此処へ来て三日目、既に何度、彼は私に「振り返れ」と告げただろう。最初の内は暇潰しも兼ねて数えていたのだが、初日にして四十回を超えた所で私は数えることをやめた。

 私は引き戸を開け、施錠する。それも彼の言う所の「不必要な行為」に当たるらしいのだが、仮の住まいとは言え自らの住まう処を開け放したまま外出する気にはなれない。

 地面と草履がじゃりじゃりという摩擦音を奏でる間、彼は無言で私に付き従う。彼は移動するに当たって音を持たない。どういう仕組みになっているのかは分からないが、見た目だけで判断するならば彼には足が無い。

 彼はいつも地面擦れ擦れの所を浮いて移動している。私の足元でそのような常識を覆す行為が涼しい顔で行われていることについては未だに慣れないのだが、言及した所で納得の行く回答が得られるわけではないということが分かってしまった現在、最早、気にしないでいることくらいしか私には出来ないのである。


第一章【振り返れ】2 



 やがて、この町一番の大きさであり、この町一番の評判を誇る、菓子商店が見え始めた。屋根の上の看板には堂々たる「菓子商店」の文字。他に名前の付けようはなかったのかと、私は見るたびに思う。

 暖簾のれんをくぐって中へと入ると、入口付近に佇む売り子の一人が、こんにちは、と私に声を掛ける。こんにちは、と私は返す。今日で三日目ですね、お気に召す所が見付かると良いですね。そう、売り子が他意のない朗らかな笑顔と声で私に言う。そうですね。そう、私は答える。

 この商店の中は少し――いや、かなり変わっている。確かに、此処はこの町で一番大きな商店であり、外観もとても立派なものだ。だが、明らかに外から見た場合と内側の作りが異なっているのだ。まるで空間の法則を無視したかのような広さが、入口から店の奥まで信じられない距離感を以て、ぐんと広がっている。それは縦横に及ぶ。岸壁から遠く海岸線を臨んだような、果てしなく、吸い込まれそうになる程の距離が目の前に一気に広がる。そして、あるのは全て菓子売り場であった。

 この町の人はそんなに菓子が好きなのだろうかと、初めて此処を訪れた時、私はその有り得ない空間の広さと品揃えに圧倒されたのか驚愕したのか、それらからの逃避なのか――そんなことを考えた。

 菓子など女子供の食べるものと思っていたが、客には意外に男性も多く、売れ行きも良いようだ。私の思ったことはあながち間違いでは無いらしい。もっとも、売れ行きが良くなければ此処まで大きな店にはならないだろう。従業員の給金だけでも相当な額に上るのではないだろうか。そんな余計な心配をしてしまう程に商店の中は広く、売り場の数も多く、売り子の数も多かった。

 ただ、全てを見たわけでは無いが、どの売り場にも売り子は決まって一人しかいない。それでもこれだけの売り場の数だ、売り子の数もそれに等しいのならば相当の数になるのであろうと思っている。

 私はいつものように目的も無く、ぶらぶらとうろつく。いや、厳密に言えば目的も無くというのは正しくは無いのかもしれない。私が自身の中でそういう曖昧な認識にならざるを得ない理由は勿論、ある。事象には等しく理由が存在する。これは私の足元に付き従う彼の言である。

 この菓子商店の女主人は長い黒髪を緩く垂らした美しい人で、ひどく綺麗に微笑む。切れ長の瞳を細めて笑む、その姿は本当に綺麗だった。だが私は、其処に何かしら底知れぬ恐ろしさを覚えたのだ。美しさとは時に恐怖を与えるものなのだろうか。

 彼女は私に言った。気に入りの処を見付けたら声を掛けておくれ、と。それまではゆっくりじっくり、めつすがめつ歩くと良いさ、と。それが初日のことだ。

 私はその言葉の通り、広すぎる店の中に面食らいながらも彼方此方あちらこちらの売り場を渡り鳥のようにして歩いた。目下の所、私の目的というのは気に入りの売り場を見付けることだ。理由も分からないままに。

 そうしている内に気が付いたのが、一つの売り場には一人の売り子。そして、一つの売り場には一匹の猫ということだ。

 普通、食べ物を扱う店に動物は入れないものではないだろうかと、私は思った。だが、売り子も客も誰一人、それを気にしている様子は無かった。まるで私の感覚がおかしいのだと錯覚させられてしまう程に、彼らは自然に売り場に佇んでいた。


第一章【振り返れ】3



 幾つもの売り場を巡った後、さすがに疲れた私は手近な柱に寄り掛かり、休憩がてら小考した。此処は一体、何なのかと。菓子商店、そんなことは言われずとも理解している。私が思考すべきことは、もっと根本的なことだ。それこそ、私は此処にいて良いものだろうかと、そういったひどく基本的な所まで私は立ち返らざるを得ない。

 しかし、一人で考え続けてみた所で正しい解は浮かばず、却って混乱を深くしただけのようだった。

 あの女主人に尋ねてはみたのだ。此処は何処だ、と。だが、放たれたのは「此処は町一番の菓子商店さ」という言葉だけだった。そして、それ以上は私の問いに答えてくれることは決して無かった。私には、この広い店の中をうろつくことしか与えられなかったのである。

 ――そういえば、と私は柱に寄り掛かりながら思う。私の足元に付き従う、不思議な彼と初めて会った時のことを。

 あの時、菓子商店内を私がうろついていたら、唐突に腹の底まで響きそうなくらいの低く静かな鐘の音が鳴り渡った。すると、それを合図としたかのように、それぞれの売り場は一様に閉店準備を始め、客は皆、誰もが同じ方向に向かって歩き出した。

 どうやら、この鐘が閉店を知らせるものだと私は思い当たり、私も彼らの後に付いて出口を目指そうと一歩を踏み出した時だった。私は盛大に転び、強かに額を床に打ち付けた。どうやら何かにつまずいたと認識すると同時、すまない、と声が聞こえた。

「悪気は無かった。どうか許してほしい」

 未だ床に座り込んだまま私が声のする方へと顔を向けると、其処には少なくとも私の見たことの無い、未知の生き物が存在していた。

「気になったものだから、つい近くで見ていたくなった。その欲求に従って行動した結果、お前を転ばせるに至ったようだ。だが先程も述べた通り、悪気は無いのだ」

 私が沈黙したままだったことが気に掛かったのだろうか、

「大丈夫か? 頭を打ったのだろうか。人間は頭を強く打つと様々な弊害を得てしまうと聞いている。もしも今の衝撃で言葉の発音の仕方、或いは言葉そのものを失ってしまったということならば、どれ程の謝罪をしても償うことは出来ないだろう。それを承知で問いたい、私に何か出来ることはあるだろうか」

 目の前で私に向けて話す生き物の外見は、座布団のようであった。これは決して、私が頭を打ち付けたことから生じた視認情報の誤りでは無いだろう。おそらく。

 色は灰色。形は座布団のような正方形。それが座布団では無いと決定付けることには、耳と尻尾が表面から生えていることに他ならない。そして何より、座布団は言葉を話さないだろう。

「私の言っていることが理解出来ないのだろうか。それとも本当に言葉を失ってしまったのだろうか。どうか私の言っていることが理解出来ているのなら、今すぐ右手を挙げてほしい」

 私は混乱していたのだろう。だからだろうか、私はその座布団のような不可思議な生き物の言葉に従ってしまった。すなわち、私は右手を挙げたのだ。

 すると、その生き物は――生き物と判断して良いものか分からないが――何処か安堵したような雰囲気を携えて、灰色の尻尾を一度だけゆらりと振ったのだ。

「良かった。どうやら意思疎通は図れているようだ。安心した。ところで、この店は今日は店仕舞いとなる。とりあえず此処を出ないか?」

「……ああ。いや、その前に」

「私は何者か? そう問いたいのだろう。だが、そんな質問は全く意味の無いことだ。何故なら、ある存在がまた別の存在を正しく理解することなど不可能だからだ。せいぜい、名や容姿や好みなどを把握して理解した気になるということが人間の限界だ。それでも私について尋ねたいというならば止めはしない。しかし、全ては此処を出てからにすべきだ」

 その言葉の、特に最後には抗い難い説得力が見えた。いや、言葉というよりも――目の前のこの生き物の放つ圧倒的な、それでいて正体の分からない力に私は反論する気力を削がれてしまう。


第一章【振り返れ】4



 私は渦巻く困惑や疑問を無理矢理に押し込め、立ち上がった。灰色の生き物は、まるで、それで良いのだと言うように小さく頷いた。私にはそう見えた。

 そして、これ以上に私の心の臓を驚かせようというのか、足元の生き物は急に開眼した。ぎょろり、と二つの目玉が目頭から目尻の輪郭を強調するように動き、下方を通り一回転し、そしてそれはすぐに私を正面から見据える。真っ暗な闇に浮かぶ細い三日月が私を見ていることが分かる。

「さあ、行こうか」

 私を導く水先案内人のように、先に立ってその生き物は進み始める。良く良く見ると、その生き物には足が無く、床から僅かに浮いた所を移動している。どれ程に私を混乱させれば気が済むのだろうか。だが、そのような私の思考を消し去るかの如く、此処に閉じ込められたくなければ急いだ方が良いと私は提案する、という声が前方から聞こえたので慌てて私は足を進めた。

「この鐘の音が鳴り終わるまでに、此処を出なければならない」

 先を行く生き物はそう告げ、今も鳴り続けている低い鐘の音の隙間を縫うようにして私を商店の出口まで案内してくれた。私がお礼を言ったのも束の間、すぐさま、では次は君の住まいに案内しよう、と引き続き、その生き物は案内人を買って出てくれた。

 そうして辿り着いた住居――私の仮の住まい――に、どうやら彼は居座ることにしたのか、私は灰色で正方形で座布団のような生き物と同居することになった。そして、今日で三日目を迎えることになる。

 私は改めて足元にいる彼を見ると、何とも不思議としか形容出来ないことを再認識する。私は未だかつてこのような生き物を目にしたことも無ければ、耳にしたことも無い。

 彼の目が開いた時、猫に似ていると思ったが、世間一般で言うところの猫という生き物は言葉を話さない筈だ。長く生きた猫はあやかしとなって人の言葉を操るとも聞くが――。

「何か用か?」

「いや、何も」

「そうか。無駄な行為は避けるべきだ。お前がすべきことはただ一つ、振り返ること。それ以外は塵芥ちりあくたに等しい」

「もっと具体的に言ってくれないか」

「これ以上の具体性を示すことは出来ない」

「そういえば、お前の名前を聞いていないな」

「急に話題を転換することはあまり感心しないな」

「話が発展しないなら、話を変えるしかないだろう」

「納得。しかし名前など記号に過ぎない」

「いや、初日に何者か尋ねて良いと言ったのはお前だろう」

「許可はしたが、回答するとは告げていない」

「仰る通りで」

 彼とは終始、このような感じである。会話に違いは無いのであろうが、得るものが極端に少ない。

 それにしても独特の話し方をするなと私は彼と口をきくたびごとに思う。嫌いでは無いが、良くも悪しくも妙に人に自分を存在付けるような話し方をする。


第一章【振り返れ】5



 私は彼との会話に見切りを付け、寄り掛かっていた柱から身を離す。そして、ここ数日そうして来たように店内をうろうろとしながら数多の菓子売り場を目に映す。菓子商店の女主人から気に入りの処を見付けるよう言われてはいたが、これといって特別に惹かれる売り場は今の所は無かった。

 各売り場には必ずと言って良い程に試食する場が設けられており、実際に売られている菓子の二種類か三種類くらいが小さな白い皿に綺麗に並べられている。だが、私は元来、然程さほど甘いものは好まない為、今まで試食品に手を付けたことは無かった。しかしながら店内を物色している客は、かなり積極的にその試食品を食べている。私はその姿を見て、少し引いてしまった程だ。

 そもそも試食というものは、その商品がどんな味をしているか確かめる為のものであって、少量を口にすれば済む筈だ。たとえば、団子なら一つ、薄皮饅頭なら四等分の内の一つ、そういった具合にだ。

 ところがどうだろう、客の多くは私の見る限り、並べられている試食の品を全て食べ尽くさんとするかの如く、次々とそれらを口に運ぶのである。最初に見た時など、思わず呆気に取られてしまった程だ。その時は、たまたまそういう場面に出くわしてしまっただけかとは思った。

 しかし、以降に私が見たどの売り場の試食の品も同じような目に遭っていたので、この町の人間は少し常識に欠けるのかもしれないという判断を私は下しつつあった。

 今日も今日とて、その光景は変わらない。常識に欠けていないとしたら、一体どういうことなのだろう。そんなにも飢えているのだろうか。

 そういえば、灰色の座布団のような猫のような――名前が分からない――彼は、私が食事をする行為を不必要と称した。時間の無駄だと。空腹を覚えるのは錯覚に過ぎないと。ならば、彼らはどうなのだろう? この町の人間は皆、空腹を覚えるものの、それは彼の言うようにただの錯覚に過ぎないというのだろうか。その錯覚に踊らされて、それを満たす為にあのようにがつがつと食べているのだろうか。

 分からない。此処は分からないことだらけだ。自分に関しても同義のことが言える。私は何故、気に入りの処を此処で見付けなければならないのだろう。

「お一つ、如何ですか」

 不意に聞こえた声が私の思考を中断させる。声のした方へと振り向くと、一人の売り子がほんの少し首を傾け、にこりと笑っていた。年の頃は十六か十七か、下ろすと肩辺りまでに届くのだろう黒い髪を後ろでまとめている。手の平を宙へと向けた右手は試食の皿を示し、その皿には最中もなか落雁らくがんが並べられていた。

「いや……せっかくだけど」

「そうですか」

 途端、しゅんとしてしまった様子の彼女が私は少しばかり気の毒になり、売り場を後にしようとしていた両足を留めて私は言った。

「やっぱり貰うよ」と。

 そう言って私が最中もなかに手を伸ばすと、ぱっと花咲いたように彼女は微笑んだ。だが、私がそれを口に入れようとしたその時、足元から低く小さく、囁くように言葉を発した者がいた。

「食べるのか」と。


第一章【振り返れ】6



 思わず下を見ると、彼が私を見上げている。この場合の、見上げている、というのは私個人の判断に過ぎない。何となく、彼が此方をじっと見ているように思えたのだ。彼は耳と尻尾はいつものように平面上から生やしてはいたが、その両目は閉じられていた。まるで、そこには初めから瞳など存在しないかのように。

 不自然に行動の止まった私を訝しむように、目の前に立つ彼女が先程よりも首の角度を大きくする。どうやら彼の声は彼女には聞こえなかったようだ。私は彼の言葉の意味を考えるよりも彼女に不審がられることを懸念し、手に持っていた最中もなかを口にした。噛むと、しっとりとした餡が広がる。

「お味は如何ですか?」

「ああ、おいしい」

「よろしかったらお求めになりませんか?」

 ふわりと舞う春の綿毛のように彼女が微笑む。それがたとえ万人に向けられた売り子としてのものであろうとも、私は確かに少なからず惹かれたことを否定出来ない。

「ああ、そうしたいが手持ちがなくてね」

 私は何故か少しの銭も持っていなかった。財布すらないのだ。気恥ずかしさを誤魔化すように頭に手を遣る私を、彼女は笑顔を崩すことなく見つめている。そして、春の風のように穏やかに口を開き、告げる。

「でしたら、何かお話を聞かせて頂けませんか?」

「話?」

「ええ。私、面白いお話を聞くことが好きなんです。特に気に入ったものは書き留めていて、そうしていつか草紙を出版することが夢なんです」

「へえ、それは素敵な夢だ」

 ありがとうございます、と彼女が微笑む。

「そういうわけなので、もし何かお話を聞かせてくれるのでしたら先程の最中もなかをお礼に差し上げます」

 私は、特別にそれが欲しかったわけでは無い。美味だとは思うが、私はさして甘いものを好まない。自分から甘味を買ったことは片手の指で足りる程だ。だが、どうしてだろう、「何かお話を聞かせてくれるのでしたら」という彼女の言葉が、まるで走馬灯のようにくるくると頭の中で廻り続けている。

 私は彼女の言葉に頷き、売り場の奥に設けられている小部屋で少しの間、彼女に話をすることにした。売り場には「休憩中」の札が立てられる。

 そして彼女に続いて売り場の奥へと足を進める私の後を、影のように彼が付いて来る。彼はいつも、こうしてずっと私に付き従うようにして決して傍を離れることは無いのだ。

「退屈なら他を見ていても良いぞ」

 私なりの彼に対する気遣いだったのだが、彼はそんな言葉など聞こえていないかのように相変わらず瞳を閉じたまま黙って私に付いて来る。

「狭い処ですけど」

 僅かに恐縮した様子で彼女は私に座布団を勧める。私は草履を揃え、座敷に上がり、礼を言って座る。すると彼女は小さな机の上に置かれたままになっていた、筆、硯、和紙の束を手に私の正面に座った。既に硯には墨が用意されていた。

「それでは、よろしくお願いします」

 改まって彼女にそう言われたものの、何を話せば良いかと私は逡巡した。面白い話と彼女は言っていたが、そう一括りにするにも話というものは多くあり、面白さにも様々な種類があるだろう。


第一章【振り返れ】7



 私は、具体的にどんな話が良いのか彼女に尋ねた。彼女は先程と同じように、面白いお話が良いです、と言う。そして、不思議なお話も好きです、と付け加えた。

 少しの思案の後、人伝てに聞いた話でも良いのかと私が確かめると、彼女は肯定した。私は、いつかに聞いた、記憶の底に沈んでいるそれを思い出しながら口を開いた。 

「――もう数年は前に知人から聞いた話なんだが。良く晴れた秋の日、その男は家の前の畑を耕していたそうだ。麦の種蒔きをしようとしていたらしい。男はそこに住み始めて十年は経つそうで、その畑ともそれだけの付き合いをしてきたわけだが、このような奇妙なものを掘り出してしまったのはついぞないと、大層、驚いたと聞く。男はただ、いつものようにいつものくわで畑を耕していただけだ。その時、何か奇妙な手応えを鍬の先に覚えた男は、座り込んで土を手でどけてみたらしい。石か木の根か、そういうものを想像していたらしいが、男が目にしたものは猫だったという」

「猫?」

 書き留める筆を動かす手を休め、彼女が不意に顔を上げる。ああ、と頷き私が再び話し出すと、彼女もまた再び書き始める。

「まさか畑に猫が埋まっているとは思わなかった男は動揺し、腰を抜かしてしまったらしい。そして更に驚くべきことに、今まで土の中にいた猫は急に目を開け、あろうことか自力で這い出て来て、ぶるりと体に付いた土を払うように体を揺らし、口から大量の土を吐き出したという。その後、すぐに猫は山の方角へと駆け出して行ったらしい。何事かと男は言い知れぬ恐怖を覚えたが考えてみた所で分かるはずも無く、そのまま畑を耕し、麦の種を蒔いたという」

 私は一度、言葉を切り、続きを話した。

「――そして、その翌年の収穫期、麦秋至むぎのときいたるの頃。見事に実った麦を男が収穫している時だった。男の耳に、か細い鳴き声が聞こえた。風の音か、気のせいかと思ったが、それはずっと途切れること無く聞こえ続けている。微かにしか聞こえないが、それは確かに何かの鳴き声だった。

 男は収穫の手を一旦休め、声の出処を探し当てるべく、じっと耳を澄ました。すると、声は非常に近い所から生まれていると気が付き、男は自らの足元や辺りを見渡したが、人も獣の姿も無く、いよいよ不審に思い始める。

 だが、依然として何も見付からず、男は刈り入れの作業に戻ろうと鎌を握り直した、その時。男は自分の目を疑った。今、まさに刈り取ろうとした麦の穂。それを良く良く見れば、そこに実っているのは麦などでは無く、猫の頭だった。とは言っても実際に猫の頭の大きさをしているわけでは無く、麦の一粒、一粒の大きさに等しくなっている。連なるそれは全て、全てが同じく猫の頭であったという。男は声にならない悲鳴を上げ、鎌を落とし、家へと駆け戻った。

 家では丁度、男の妻が朝の残りの米と雑穀で握り飯をこしらえている所だった。男によって勢い良く開かれた扉の音は妻を驚かせたが、それ以上に男は驚くことになる。たった今の恐ろしい出来事を話すべく男が駆け寄った妻の手にしていた握り飯は、米粒のように小さな猫の頭の集まりで出来ていたからである。

 今度こそ男は大きな叫び声を上げ、思わず妻の持っているその握り飯を叩き落とす。これまた妻も驚く。男は今まさに見た光景と、少し前に見た光景を驚愕も露わに妻に話す。だが、握り飯も畑の麦も、妻には何の変哲も無いように見える。男の目にだけ、それらは猫の頭に映っていたのだ。

 そこで一度、男の意識、記憶は途切れる。次に気が付いた時、男は畑の前に立っていたという。眼前には実りに実った麦。右手には鎌。振り返った先には自らの家。男はしばらく呆けていたが、やがて麦の刈り入れを始める。何かを忘れているような気がしてならないものの、何を忘れているのか、実際に忘れてしまったことがあるのか分からないまま、手を動かし続ける。

 やがて全ての麦を刈った男は、その一部を持って家に入る。家では男の妻が米と雑穀で握り飯を作っていた。それを一つ受け取り食べながら、やはり何かを何処かへ落として来たような感覚を拭い去れず、男は考え込みながら一つ目の握り飯を食べ終える。そして同じように二つ目の握り飯も食べ終える。三つ目を手にした時、男は聞こえない筈の細い風のような鳴き声を聞いた気がして、ふと顔を上げる。

 そこへ妻が白湯を差し出す。それを受け取った時、どうしてか男には妻の顔が良く見えなかった。男は、白湯を一口飲んだ後、改めて妻の顔を見る。男は自分の息が止まったかと思う程の衝撃と驚愕と恐怖に包まれる。何故なら、妻の顔は見知ったそれでは無く、金色こんじきの毛の生えた山猫になっていたからだ。妻なのか化け物なのか分からないその生き物は、たった一言、思い出さなければ良かったものを、と男に告げて、大きな目を更に大きく見開き、口を開き、尖った牙のような歯を見せ付けるようにした。

 ここでまた、男の意識、記憶は途切れる。気が付いた時には、男は麦畑の中に一人で立っていた。時が止まっているかのように立ち尽くす男の周囲で、不意に生じた一陣の風を受け、麦の穂がさわさわと音を立てて揺れた。

 男は、はっとしたように目を自らの家へと向ける。そして男は麦の間を通り抜け、家へと戻る。そこには、米と雑穀で握り飯をこしらえる妻の姿があった。

 男の方を見た妻の顔はいつもの妻の顔で、男の見たことのないものでは決して無かった。男は混乱した頭で考える。何かを忘れてはいないか、と。どうして自分は見慣れた筈の妻の顔を見て、ほっとしたのかと。この安堵は一体、何処から来るものだろうかと。

 そこで、ふと男は妻に渡すものがあったことを思い出す。ひどく唐突に、それは思い出された。男は懐に手を入れ、珊瑚の飾られたかんざしを妻に手渡す。町で買ったんだ、お前に似合うと思って、と。妻は喜び、嬉しい、と口にした。そして、髪に挿し、似合う? と男を振り返る。ああ、と男は返事をする。

 妻は少しの涙を浮かべて、覚えていてくれたんだね、私達の結婚した日を、と心底から嬉しそうに言った。

 ――結局、己が忘れていたものは妻への贈り物であったのかと、男は考えを其処へ落ち着けるに至った。男の記憶にはほんの少しも、あの一連の奇妙は残されていなかったのだ。即ち、畑の麦が、握り飯が、小さな猫の頭で出来ていたこと、妻の顔が山猫のようなものになっていたこと。

 ただ、事実を覚えてはいないものの、些細な棘のようにして男の指の先に刺さっていた引っ掛かりはいつしかすっかり消え去り、いつもの変わらない日常を男は取り戻した。

 しかし時折、猫の鳴き声や細い風の音を耳にするたび、男は何かをふと思い浮かべるという。それが何かは男にも分からない。男の指に刺さった棘は本当は今も其処にあるのかもしれない」

 私が話し終わって少しした後、彼女は筆を動かす手を止め、顔を上げた。彼女の手元にある和紙には、細く美しい文字で私の話が書き留められている。


第一章【振り返れ】8



「ありがとうございます。不思議なお話ですね、面白かったです。知人の方とは今もお会いになるんですか?」

「いや、最近は……」

 そこで私は言い淀む。自らがたった今、話した内容にあったように、自分が何かを忘れているような気がしたのだ。そして、それが思い出せない。私はまるで自分が話の中の男になったようにも思え、不可思議な感覚に陥った。

「どうかしましたか?」

 黙り込んでしまった私に彼女が声を掛ける。いや、何でもないんだと答え、私は立ち上がる。どれくらいの時間が過ぎたか分からないが、彼女があまり長らく売り場を空けるのも良くないだろう。

 私は休憩中の札が立てられたままであろう売り場を思い描き、そろそろお《いとま》するよと告げると、彼女も立ち上がる。先に行って|最中もなかを用意しておきますね、今日は本当にありがとうございました、と彼女がお辞儀をする。心なしか「本当に」という言葉が強調されたように私は感じた。

 小部屋を出て行く彼女の後ろ姿を見ながら、私は先程に覚えた小さな引っ掛かりは一体何だったのかと思い耽る。知人の方とは今もお会いになるんですか? という彼女の言葉を今一度、反芻はんすうする。そして、ふと彼女が使っていた筆、硯、和紙に目を遣る。だが、特に何かを思い出すきっかけには成り得ず、気のせいかもしれないと思い直し、私は草履を履いた。

「振り返れ」

 不意に背後から聞こえた声に、その言葉のまま、私は振り返る。そこには、彼がいた。座布団のような、猫のような、灰色の彼が。

 そういえば話をしている間、彼は一言も口を開かなかった。話すことに気を取られていたので、彼がどんな様子でいたのかも分からない。

「ずっといたのか。退屈しなかったか?」

 彼は瞳を閉じたまま、じっと此方を見ているような気がする。何とも居心地の悪さを覚え、私は彼から視線を剥がし、小部屋を出ようとした。彼は私の後に続きながら、低く小さく呟いた。

「愚かな」と。

 それは独り言と称するには大きく、私に向けての言葉だとしたら小さく。ただ、まるで棘のように刺さる声だった。


第二章【完全トーティエント数】1



 私に分かることは少ない。町がある、菓子商店がある、奇妙な生き物がいる。そういう所に私がいる。簡潔にすればこれくらいにまとまってしまう程、私に分かることは少ない。だが、たとえ簡潔にしなかった所で、さして変わりはしないだろう。

 昨日、菓子商店の中のとある売り場にて貰った最中もなかを一つ食べ、私は今日も其処へ赴く。灰色の座布団のような猫のような生き物が地上から僅かに浮いた所を移動しながら、私に付いて来る。未だに慣れない。

「なあ、お前はどうして浮いているんだ?」

 道すがら、私は彼に尋ねる。

 彼は普段のほとんどを瞳を閉じて過ごしていた。今もその両目はきっちりと閉じられていて、閉じているのではなく元々其処には目など無いかのようにも思えるほど、その境目は灰色の毛に覆われているのか分かりづらかった。

 だが、私の言葉に反応するように彼は此方を見る。いや、見たような気がした。

「私が浮くことに特に理由など無い」

「いや、そういうことでは無くてだな」

「では、お前は何を尋ねたいのか。何を知りたいのか」

「普通、猫は浮いて移動はしないだろう」

「私は猫では無い」

「ああ、それは私が勝手に思っているだけなんだが。とにかく、猫にしろ違うにしろ、お前には羽や翼があるわけでも無し。それなのにどうして浮くことが出来るんだ?」

「事象には理由が存在する。だが、私のこれを説明することは難しい」

「難しくて構わないから話してくれよ」

「拒否する」

「どうしてだ」

「私には話したくないことを黙秘する権利も無いのか。人間とは身勝手なものだ。そうしてすぐに詮索をし、自らの理解の範疇を超えたものに関しては疎外する。何とも愚かだ」

「いや、言いたくないならいい。ただ、気になったから聞いてみたかっただけだ」

 彼は大きな溜め息でもつきそうな様子だった。

 私は何も無理に聞き出したいと思ったわけでは無い。慌ててそう付け足すと、好奇心は有った方が良い、しかし時にそれは身を滅ぼす、と彼は静かに言った。

 そして少しの沈黙の後、何処か意味有り気な声音で彼は口を開く。

「私に関してそれを発揮することはあまり実り多い結果にはならないだろう。だが、私以外に関しても同じとは限らない」

「なあ、いつも思うんだが。もう少し噛み砕いて言ってくれないか。ああ、誤解してほしくは無い。私は、その独特な話し口調が嫌いだというわけでは無いんだ。ただ、何か深い理由があって言っていることについてだけでも、分かりやすくして貰えたら助かるんだが」

 彼は再び黙りこくる。その内に、菓子商店が見えて来た。

「努力する」

 ぼそりと彼が言う。

 では早速、先程の言葉の指す所を分かりやすく説明してくれないかと私は頼んでみたのだが、彼からはいつもの言葉が返されたに過ぎなかった。即ち、「振り返れ」と。一体、何処をどう努力してくれたのか私には理解が及ばない。


第二章【完全トーティエント数】2



 菓子商店に入ってすぐ、私は昨日の売り場を目指した。特に何か理由が有るわけでは無いのだが、あの売り場にいた彼女は私が此処で多く言葉を交わした者だ。何しろ、此処で話らしい話をした相手は菓子商店の女主人と足元の灰色の彼だけだった私にとって、久しぶりに会話というものをしたように思えて、少なからず嬉しかったのかもしれない。その多くは私が彼女に望まれるままに語った話で占められていたようにも思えるが、とにかく私は昨日の売り場を目指した。

 また、そうする理由は実は他にあるのかもしれないと私は思った。だが、それを明確に説明は出来ない。言うなれば、引っ掛かりというか違和感というか……そういう不透明で不鮮明な、何かしらの錯覚とでも言い表せる感覚だ。けれども、無視することが出来ないほどには大きく、無為に出来るものでは無かった。

 午前中だというのに、既に菓子商店の店内には多くの客の姿が有った。彼らは様々な売り場を物色し、ある者は菓子袋を手に取ってみたり、ある者は試食をしたり、またある者は売り子と会話をしていたりしていた。それらを、各売り場に必ずと言って良い程、一匹はいる猫が観察するかのように眺めている。猫は行儀良くきちんと座布団の上に収まっていて、客を見ている以外ではせっせと毛繕いに勤しんでいる様子が多く見受けられる。彼らは其処らを歩いたりすることは無いのだろうか。

 しかし、やはり食べ物を扱う店に動物を入れるのはどうかと思うのだが、誰一人気にしているようには見えない。女主人の経営方針なのだろうか。不思議な所だ。

 広い店内故に少々迷ってしまったが、私はようやく昨日の売り場へと辿り着くことが出来た。そこには昨日の通り、彼女の姿がある。彼女も私に気が付いたのか、春の陽だまりのように微笑む。

「あ、こんにちは。昨日はどうもありがとうございました」

 そう言って小さくお辞儀をする様子は可愛らしく、その拍子にゆらりと揺れた黒髪が私の目には舞を踊っているように映った。

「良かったら、ご試食どうぞ」

 彼女の示す先には、薄皮饅頭と金平糖がある。私は雪のように白い金平糖を一つ、手に取った。そのまま口へと運ぶ。じわりと甘い。だが、その甘さを本格的に味わうよりも早く、足元から小さな溜め息が聞こえた。言うまでも無く彼からである。

 私は金平糖を舌で転がしながら、彼へと視線を落とす。依然として彼の両の目は閉じられており、表情を窺うことは出来ない。だが、何かを私に伝えようとしていることは明らかだ。そう、確かに昨日の彼の態度も引っ掛かる。食べるのか、と。まるで警告のように告げた彼。しかし、私に分かることは此処までに過ぎない。彼は一体、何を思っているのだろう。何を、知っているのだろうか?

「お味は、如何ですか」

「ああ、おいしい。ありがとう」

 不意に掛けられた声に顔を上げると、売り子の彼女と目が合う。そこで彼女は、にこりと笑った。

「良かったら、お買い求めになりませんか?」

「いや、生憎、手持ちが無くてね」

 昨日と同じような会話。それ自体には別段、何の問題も無いだろう。それでは私が問題視していることは何なのだろうか。

「でしたら、何か面白いお話を聞かせていただけませんか。もし聞かせていただけるなら、それを御代の代わりにして金平糖を差し上げます」

 どうでしょうか、と緩やかに誘うように彼女が続ける。

 昨日の私は此処で頷いたのだ。それが今日は、正体の見えない力によって遮られる。何故だろう。私は自分一人が唐突に霧の中に放り出されたような感覚に陥る。私は頷くのか、頷かないのか。

 行動には理由が存在する。昨日の私は、面白い話をいつか草紙にまとめて出版することが夢だという彼女の言葉と笑顔に惹かれて頷いた。それでは、今日の私は?


第二章【完全トーティエント数】3



「私は……」

 言い淀み、泳いだ私の目に、一匹の猫が映り込む。猫は菓子売り場の右奥で、深い紫色の座布団の上に座っていた。

「あ、猫がお好きですか?」

 私の視線の先を見遣り、彼女が言う。

「此処では、何処の売り場にもいるんですよ。町の人もみんな、猫が大好きなんです」

 その猫は真っ白だった。雪景を切り出したかのように思わせるほどの白さで佇み、不思議なほどにじっと此方を見ている。瞳は黒曜石のように深く、黒い。その二つの闇が瞬きもせずに私を、或いは私と売り子とを見続けている。いつしか私はその猫から視線を逸らせなくなった。黒い硝子のようで艶の有る、夜空の一部のような瞳から。

 色だけで言えば、足元の彼の瞳と目の前の猫のそれとは非常に良く似通っていた。何処までも黒く、吸い込まれそうな闇夜。其処に浮かぶ、黄金の三日月。

 だが、決定的に違うことは、こうして此方を見つめるそれは鋭く、言い知れぬ恐怖すら覚えさせる程のものだということだ。そして、確かに向けられている瞳だというのに、その実、私達など本当には見ていないようにも思える。透過し、無を見つめている。そんな気がした。

 たかが猫の目だろうと言う人もいるかもしれない。もしくは、たかが猫に見られたくらいで大袈裟だと。しかし、これは決して大袈裟では無いと私は断言する。

 私に向き直った売り子の彼女、その背の向こうで、今も私達を射抜くように刺し続ける視線、瞳。現に私は、この場に縫い留められたように動けなくなってしまった。

「どうかしましたか?」

 気遣うように、彼女が言う。私は、その声で現実に立ち返る。けれども意識の戻った今でさえ、何かしらの違和感は拭えないままだった。

「お話、していただけませんか?」

 そういえば私は、未だ彼女の問いに答えていなかった。再び、私は迷い始める。話がしたくないわけでは無い。そのような表面的なことでは無いのだ、この引っ掛かりは。

 だが、結局、今日の私も昨日の私のように頷いてしまった。たちまち彼女は野に咲く小さな花のように微笑む。そして、昨日同様、休憩中の札を売り場に立て、私を売り場の奥の小部屋へと導く。

 彼女の後を歩きながらちらりと右へ視線を動かすと、雪景色のように真っ白な猫が先程のように私を見つめていた。その猫はまるで私の動きを追うように、ゆっくりと二粒の瞳を動かしているように見えた。

「おい。私は此処で待っている」

 不意に足元の彼が声を発し、ふよりと舞うように飛んで白い猫の正面に位置した。いつも地面すれすれの所を浮いていた彼がそんなにも飛べることを知らなかった私は少し驚き、やっぱり飛べるんだな、と驚嘆そのままに口にした。だが、返事は無かった。それを別段気にすることも無く、私は小部屋へと足を進めた。

 部屋の中で既に彼女は、筆、硯、和紙の束を用意して待っていた。硯の中は墨で満たされ、筆を持つ彼女は準備万端という所だった。彼女に勧められるままに私は座布団に座り、何を話そうかと、しばし宙を見据えた。


第二章【完全トーティエント数】4



「面白い話とは言っても、昨日のような話で良いのだろうか。君の求めている面白さとは違ったら申し訳無いし、多少なりとも望んでいるものについて具体的に言って貰えると助かるのだが」

 少し考えてそう切り出した私に、彼女はにこりと笑って答える。

「昨日のお話、とても面白かったです。私は今まで様々なお話を此処で聞いて来ましたが、あなた様が話してくれたようなお話は初めて聞きました。良かったら今日も、そういうお話だと嬉しいです」

 少し身を乗り出し、熱のこもった様子で彼女は語った。

 私は、それでは、と前置きして今日も一つの話を彼女に伝えることにした。

「――私の祖父の体験した話なんだが。祖父の趣味の一つに釣りがある。良く晴れ渡った日の昼前、祖父はいつものように近くの河川敷へ釣りに出掛けた。本格的な夏を迎え、川の水温が上がる、沙魚はぜ釣りには適した時期。祖父は毎年、この頃を楽しみにしていた。何度も来ている場所であるし、もう慣れたもので、祖父は釣れそうな所をゆっくりと探す。やがて腰を下ろし、沙蚕ごかいを針先に通して当たりを待つ。周りには、やはり沙魚はぜ釣りが目的と思われる釣り人が何人かいた。

 やがて竿を引く手応えを覚え、祖父はタイミングを見計らって竿を上げる。先には小さな魚が下がっていた。目当ての沙魚はぜである。沢山釣れたら天ぷらにして食べようかと、祖父は再び釣り糸を垂らす。その後も続々と沙魚はぜは釣れた。そして、やがて太陽が天の中心を過ぎる頃、魚籠びくの中は小さな沙魚はぜでいっぱいになっていた。

 此処までは何ら変わったことも無く、例年の通りの出来事だった。祖父は何も警戒などしていなかったし、不安も捉えていなかった。

 だが、そろそろ帰ろうかと魚籠びくを持ち、立ち上がろうとした時、異変は起こった。河川敷に置いていた魚籠びくが少しも持ち上がらないのである。まるで根が生えたように、それは少しも動きはしない。祖父は驚き、持ち手を何度か引っ張り上げるようにして何とか持ち上げようとする。しかし、それは叶わない。

 祖父は一度、腰を下ろして魚籠びくの底面付近を外側から確かめてみた。傍目にはおかしい所など見当たらないのだが、やはりそれは地面から剥がれることが無い。今度は、魚籠びくの内側から底を確かめてみようと、祖父は中を覗き込んでみた。けれども先程と変わり無く、多くの沙魚はぜが所狭しと動いている様子が目に映るだけだった。

 どうして魚籠びくが持ち上がらないのだろう。祖父は不思議に思い、また、好奇心も手伝って、そのまま底へと片手を伸ばしてみた。祖父の手に何匹もの沙魚はぜが、魚特有のぬめりを以て絡み付く。その時だった。底が無いと気付くと同時、祖父は魚籠びくの中にぎゅるりと吸い込まれてしまった」

 え、と小さく彼女が声を発したのが聞こえた。見ると、彼女の筆を動かす手は止まり、驚愕と期待の入り混じった表情で私を真っ直ぐに見ている。私が僅かに微笑むと、彼女も承知したように頷き、筆にそっと墨を付けた。

「祖父が吸い込まれた先は、おそらくは海か川の中であった。それも透き通るような美しい水の中では無く、砂利や泥が朦々もうもうと巻き上げられている、濁った水中。

 視界は悪く、何よりも強くなって行く息苦しさが祖父を焦らせた。とにかく此処から出なくてはと祖父は頭上を仰ぐ。だが、舞い上がる泥は視界を覆い、慣れぬ浮遊感は動作を鈍らせる。手で水を掻いてみても、変わらず濁った水が眼前に広がり続けるだけ。とにかく地に上がらなくては、それだけが祖父の頭を占める。

 そこへ、ひどく唐突に一条の細い光が差し込む。混濁した水中から祖父を救い出そうとでもしているかのように、その光は煌々と存在を主張する。減って行く酸素に焦りを抱え、祖父はその光を目指してもがくように泳ぎ進んで行く。

 だが、辿り着いた祖父は愕然とした。光と自身との距離はほとんど無い所まで来て、祖父はそれが、ある集合体だと分かったのだ。それは何か? それは、先程まで釣っていた沙魚はぜであった。濁り切った水の色をした小さな沙魚はぜが、螺旋を描くようにぐるぐると一条の線のようになって泳ぎ続けていたのだ。そこ有るのは太陽光では無く、きらきらと光る魚の姿だった。

 祖父は一瞬、思考する力を奪われたように呆けてそれを見つめた。だが、すぐに自分の置かれている状況を思い出す。即ち、息がもうもたないということ。

 方向感覚すら失うほどの濁水の中、沙魚はぜの集合は水面から水底へと螺旋になって泳いでいるようだと見当を付けて、それを頼りに、祖父は上を目指した。目の前の泥水を背後へと追い遣るように掻いて、進む。その左隣で、限られた空間だけを許されたように、縦に細い柱のようになって回りながら沙魚はぜが泳いでいる。

 やがて祖父が思ったよりも早く、水面は祖父の頭上に広がりつつあった。自身の付けた見当が外れなかったことを喜びながら、祖父は全力で水を掻いた。口からぶくぶくと吐き出されて行く泡の勢いは徐々に弱まっており、もう限界が近いことを示している。

 だが、祖父はまたも異変に気が付く。水を掻く自らの指先の感覚が、とてつもなく薄く、頼り無いように思えたのだ。短時間とは言え、精一杯、水の抵抗に逆らい続けた結果だろうかと、もう余裕の生じる隙間など無い頭の片隅で祖父は考える。その間も、全身は水上を目指し続ける。

 しかしながら、此処に来て祖父は大量の酸素を意思に反して吐き出してしまう。何故なら、祖父の左右の両手、十本の指先はいつの間にか元の姿を失っており、それが祖父に与えた衝撃は計り知れなかったからだ。

 祖父の十本の指は全て、沙蚕ごかいという生き物に変わっていた。それは、さっきまで沙魚はぜを釣る為の餌にしていたもの。細長く、平たく、何処か人肉を思わせる。それは儚い珊瑚色とすすをまばらにまぶしたような消炭色けしずみいろが混じり合う、見慣れた筈の生物。その見慣れた筈の生き物が自分の指先から放たれている。緩慢にうようよと動いては水の中へと落ちて行く。次々と。

 そして、不意に沙魚はぜの集合体が、ゆやんと揺らぐ。濁った水の中でも明らかだった。沙魚はぜたちは祖父の放つ沙蚕ごかいを目掛けて確実に方向を変え、喰らう、という表現が最も相応しい様子で沙蚕ごかいを埋め尽くすように動き、食べている。祖父はそれを視界の隅で捉え、真実、恐怖を覚えながら水面に顔を出し掛けた。

 水面に顔を出す。結論から言えば、それは叶わなかった。恐ろしい程の勢いで祖父へと――厳密に言えば、祖父の放出する沙蚕ごかいにだったのかもしれないが――沙魚はぜの大群が迫り、一匹一匹は小さな魚である彼らが祖父の全てを喰らい尽くしてしまったからである。

 元は祖父の指先であったその場所から始まり、細い腕を這い上がり、肩へと到達、そこから方向転換し、心の臓を通り、内臓、足、足の先。それを祖父は、既に呼吸が出来ない頭一つで見るとは無しに見ていた。

 最後に、再び方向を変えた沙魚はぜの群れは、祖父の頭をいただきから淡々と食べて終わった。あとには、ほとんど何も残らない。微かな血のような肉の欠片のようなものが、行き場を見失ったかのように頼り無く寂しく漂うのみ。それを、まるでその小さな瞳に映し込み、確かめるように、沙魚はぜの集まりはほんの一瞬だけ動きを止める。そして、また元の螺旋形にゆるゆると巻き戻るように戻って行ったという。

 祖父は、自分は死んだのだと思った。もしくは、暑さにやられて倒れたのだと思った。そう考えた時の祖父の目には、不気味なほど鮮やかな紅緋べにひの色が落とし込まれていた。それが夕焼けの色だと気が付き、体を起こすまで、然程の時間は掛からなかった。

 だが、自分は今どうして此処にいるのか、今まで何をしていたのかを思い出すまでには、その三倍程の時が必要だったという。

 やがて少しずつ覚醒した頭で、家に帰らなければ、と祖父は口に出して言う。それは自分自身に言い聞かせるような響きでもあった。立ち上がった傍ら、時間の流れから取り残されたような魚籠びくが祖父の目に入る。それを、ごく自然な動作で持ち上げる。それは、ごく自然に持ち上がる。

 辺りに人の姿は無く、いるのは祖父一人きりであった。禍々しい程の夕焼け空が鏡の如く川面に映し出されている。自分の歩く方向とは反対へと流れて行く川の水を、どうしてか誰かの血のように祖父は思う。

 のちに祖父は、神の悪戯か、或いは鬼門でも開いたのかもしれないと語る。ただ、家に帰ろうと魚籠びくを持ち上げる時、その少し前に起きた筈の一連の出来事を忘れていたという。

 そして、もしも覚えていたのなら、あのように躊躇なく魚籠びくに手を掛けることが出来る筈が無いと。もしくは、あまりに恐ろしい出来事だったが為に意識の底に閉じ込めるようにして、あれは夢だと思い込んだのかもしれないと。

 どちらにしろ、本当の所は祖父にも私にも誰にも分からないまま。また、川の流れとは逆に帰路を辿る祖父の持つ魚籠びくには、ちゃんと沙魚はぜが入っており、その沙魚はぜを持ち帰り、天ぷらにして食べた時、祖父は針の先で指先を刺されたような痛みを覚え、しかし指からは血が出ていることは無く。

 そして少しの間の後、そこでようやく忘れていた思い出を取り戻すかのような感覚の中、こうして今、私が話した内容を蘇らせたに至る」

 私が言葉を切ると、彼女は筆を動かす手を止め、顔を上げた。そして、ほんの少しだけ首の角度を傾けてにこりと微笑む。


第二章【完全トーティエント数】5



「すごく、不思議なお話ですね。空恐ろしくもありましたけれど」

「ああ、こういう話じゃない方が良かったかな」

 彼女の言う所の「面白い話」から外れてしまったかと、私は内心焦りながらそう尋ねた。だが彼女は私以上に慌てたのか、いいえ、と若干強い口調で告げた後、間、髪を入れず言葉を続ける。

「こういう面白さ、好きです。日常の中、唐突にそれが失われる様子……或いは、それと隣り合わせでいる様子。私はこうして聞いている身で、実体験したわけではありませんから想像するしか無いですが、そこに置かれてしまった人間は本当に目の前の出来事を追うだけで精一杯なのでしょうね。きっと恐ろしい思いをして、助けてほしくて。けれど、誰もいなくて、孤独で。私だったら耐えられないかもしれません。物語として伝え聞いているからこそ、面白い、興味深いと言い表せるのだと思います」

 私には彼女の放つ熱が見えるようだった。小さく丸い音のような響きを持つ彼女の声は決して良く通るわけでは無かったが、一つ一つの音が確かな意思を持って彼女の唇から生まれで、私の耳に流れ込んで来る。

「本当に、ありがとうございました」

 その感謝の言葉も、確かに目の前の彼女が、彼女の声で言ったもの。しかしながら、ほんの一瞬程前に感じていた心地好さが、そこでぷつりと断ち切られた。意思を持った渦のように私に流れ込んで来ていた声の流れが、不自然に切られたのだ。その言葉で以て。

「それでは、そろそろお店の方に」

 彼女は、筆、硯、和紙の束を小さな机の上に戻し、立ち上がる。それに倣うように私も立ち上がる。

 私は草履を履きながら、形容のし難い違和感のようなものについて考えてみたが、それは正体の影すら見せることも掴ませることも無かった。

 それでも何かに引っ張られるようにして、私は部屋を出る瞬間に振り返ってみた。勿論、其処には誰もいない。彼女は既に店に戻ってしまっていたし、私は此処にいる。誰がいる筈も無いのだ。空っぽになった小さな空間を見渡しながら、私はそれを改めて認識する。

 だが、その誰もいる筈の無い、実際に誰もいない小さな部屋に、先程までの私達の残像がゆらりと蝋燭の炎のように揺れた気がして、私はしばらく其処に佇んでしまった。まるで何かを置き忘れてしまったような感覚が私を取り巻いていた。

 店を出る時、彼女は約束通り、真っ白な金平糖を手渡してくれた。礼を言って受け取ると、いいえ、こちらこそありがとうございます、と彼女は微笑んだ。

 そして歩き出した私の後ろからは相変わらず灰色の彼が付いて来る。そういえば、あの店にいた猫と何か話でもしていたのだろうか。やはり、猫には猫の友人というものがいるようだ。いや、彼が猫というのは私の勝手な憶測に過ぎないのだが。

「さっき、何か話していたのか?」

 あの店にいた猫と。そう私が尋ねると、少しの間を空けて、彼が小さく肯定の返事をした。

「真っ白な猫だったな。友達か?」

 返す言葉は無い。

「綺麗な猫だったが、どうもじっと見られているような気がしてあまり良い感じはしなかったな」

 彼は黙っている。

「悪い、友達なんだよな。ああ、そういえば、お前と目の色が似ていた」

 彼はまだ黙っている。

 機嫌を損ねてしまったかと、私は話題を変えるべく思案する。けれど浮かび回るのは彼女と白い猫と白い金平糖ばかりで、私の口から新しい話題が出て来ることは無かった。

「友達では無い」

 長い沈黙の末、独り言のように彼がぼそりと言った。

「そうか。勘違いだったみたいだな」

 それきり再び黙りこくってしまった彼を尻目に、私は特に用も無く店内をうろついた。特に用も無く?

 そこで私は、先日に聞いた言葉を思い出す。この菓子商店の女主人が言っていた言葉だ。気に入りの所を見付けたら声を掛けておくれ、と。それなら、昨日と今日、足を運んだあの店が良いのではないだろうか。応対してくれた彼女の笑顔が花開くようにふわりと脳裏に蘇る。

  しかし、女主人は何処にいるのだろうか。あまりにも広すぎる店の中、一度しか行ったことのない場所を正しく思い返すことはあまりに困難だった。彼女の売り場ですらも今日でまだ二度目で、やはり迷いながら辿り着いたのだ。

 私は気の向くまま、勘の働くままに足を動かしたが、今、自分が歩いている通路が通ったことのあるものなのかどうかも私には分からなかった。何しろ、目に映る店という店の一切が菓子を扱っているので、どれも似たように見えるのだ。そして、一つの売り場には一人の売り子、一匹の猫というスタイルも同じ。それぞれの顔など覚えていないし、売り子の着物は同じでは無いものの、いちいち柄など記憶してはいない。

  通路の両側にずらりと果てがないようにして続けられている菓子売り場を見続けていると、だんだんと眩暈を感じて来る。私は、近くの売り子に女主人は何処にいるのか尋ねてみようとした。


第二章【完全トーティエント数】6



 だが、声を掛けようとした正にその時を狙ったかのように、地の底まで響くような鐘の音が強く低く鳴った。それを合図としたように、売り子は皆、店仕舞いの準備を始める。客は皆、一様に同じ方向を目指して行く。

「覚えているか。この鐘が鳴り終えるまでに店の外に出なければならない。出口は此方だ」

 ずっと沈黙していた彼が告げる。そして、すいと私の先に出て右に曲がった。私はその後を追うように歩きながらも随分と時間の流れが早いように思えて、内心、首を傾げていた。確か、此処へは午前の内に来た筈だ。それがもう店仕舞いとは。

「なあ、もう夕方なのか?」

 先を行く彼に尋ねると、彼は振り返ること無く端的に返事をする。そうだ、と。その後ろ姿は心なしか急いでいるように見えた。彼曰く、この鐘が鳴り止むまでに店を出なければ閉じ込められてしまうという。最初に出会った時、そう言っていた。

「もし、鐘が鳴り終わっても残っている客がいたらどうなるんだ? 本当に閉じ込められてしまうのか?」

 これにも彼は短く肯定の返答をしただけで、出口と思しき方へと、ただただ進んで行く。その間にも途切れること無く鐘の音が拡散するかのように響き続ける。その強く低い音は、まるで野獣の唸り声のようにも思えた。

 やがて辿り着いた出口――とは言っても入口も兼ねている――から外へと出た時、私達の頭上には美しい夕焼けが広がっていた。思わず息を飲み、見とれてしまう程、それは美しかった。だが同時に、何処か不吉なようにも思えてならない。

 考え過ぎだろうかと空から視線を剥がし掛けた時、私はその動作を途中で停止し、再び焼けた空を見上げる。美しく鮮やかな紅緋べにひ。それが警告のように私の脳内へ、じわりじわりと広がり込む。一体、何の警告だというのだろう。

 私は、考えるというよりは思い出すという意識でいた。そして、それは正しかったと少ししてから気が付く。先程、私がした話の中に出て来た色だと。彼女に話した、物語。しかしながら思考は其処で塞き止められる。ふと、彼女の笑顔が夕焼けの空にうっすらと投影されているような錯覚のまま、私は上空を見つめ続ける。

「最小の完全トーティエント数を知っているか」

 瞬間、どきりと心臓が跳ねた。弾かれるようにして声のした方を見ると、数歩先にいる彼が私を見据えていた。彼の瞳はいつものように閉じられていたのだが、射抜くような視線が向けられている、そんな気がした。

「完全……なんだ?」

 不意に言われた言葉を聞き取り切れず、私は彼に尋ねる。

 彼は私に背を向け、私達の家の方へと進み始める。追い掛け、隣に並んだ私に向けて彼がもう一度、言った。

「最小の完全トーティエント数を知っているか」と。

「いや、知らないな」

「……そうか。では、二番目に小さな素数を知っているか」

「素数?」

 復唱した私に対し、彼は明らかに溜め息をついた。

「いや、知らないわけじゃない。確か、一と、その数自身でしか割り切れない……自然数だろう」

 詰まりながらも私が答えると、彼は頷いた。

「そうだ。その素数の内、二番目に小さなものが分かるか」

「さっきから急に何の話なんだ? 数学が好きな猫なんて初めて見たよ」

「何度も言うが私は猫ではない。それよりも二番目に小さな素数が分かるのか、分からないのか」

「ええと……三だな。一は素数に含まれない筈だ」

 あまり自信は無かったが、彼が頷くのを見て正解だと分かった。


第二章【完全トーティエント数】7



「それがどうかしたのか?」

「その数字の持つ意味は知っているか」

「意味? 意味なんて有るのか?」

「有る。何事も全てには意味が有るのだ、良くも悪くも」

 どうも歯切れが悪い。彼は一体、何が言いたいのだろうか。疑問に思い、隣を歩く――正しくは地面近くを浮いて移動している――彼に視線を注いでみた所で、彼が此方を見上げることは無かったし、その真意もまた分からなかった。

 彼が幾度となく繰り返す、振り返れという言葉にしてもそうだが、彼は肝心な所を言わない傾向にあるようだ。それが意図的であることは、私にもだんだん分かりつつある。自分で答えに辿り着けということなのだろうか。何処か試されているようであまり気分は良くないが、相手がそういう意思を持っている以上、私にはどうとも出来ない。

 人間は得てしてそういうものだ。誰も必ず、思考に基づいて行動を決め、行動している。他者からでは想像も付かない程、何本もの糸が絡み合って、それは生まれている。其処に本人以外が容易く口を出すべきでは無いのだ。出せるものでは無いとも思う。

 この場合、彼は人間では無く猫のような不可思議な生き物であるわけだが、人の言葉を話し、こうして私と会話をしているのだから、当たり前にきっと彼にも思考が存在する筈だ。彼が私に対し、そうしたいと思ったのならそうすれば良い。

 だが、気にならないわけでは無いので、私は再び彼の言について思考を開始する。最小の完全トーティエント数、二番目に小さな素数、三という数字の持つ意味。

 完全トーティエント数について私は知らないのだが、流れから察するに、最小の完全トーティエント数というものも三を指すのかもしれない。その三が持つ意味を彼は私に尋ねた。そして、それを私が知らないと分かるや否や、口を閉ざしてしまった。今も彼は私の隣、感情の読み取り難い雰囲気を抱えて沈黙を守り、並んでいる。

「三つ巴とか言うよな。三度目の正直とか」

「ああ」

「あとは、三人寄れば文殊の知恵とか」

「ああ」

「慣用表現に三が使われているものは多いのかもしれないな、こうして考えてみると」

「そうだな」

 話を聞いていないわけでは無いのだろうが、彼から返って来るものは単調な同意の言葉ばかりだった。それが私の疑問をますます大きくさせて行く。彼は今、何を考えているのだろう。私に何を気付かせたいのだろうか。

 頭上に広がる紅緋べにひの空は、ゆっくりと夜を迎えようとしている。遠くの空の彼方から色を変えようとしているのが見えた。

 消されて行く赤が、どうしてだろう、私を焦らせる。答えの見付からない彼の問いにも焦燥が募る。やがて家の前に着いても、私に解が得られることは無かった。私の心の内を察したのか、彼は音もなく振り向き、ごく静かに告げた。

「明日の数字を考えると良い」

 それだけを言って彼は家の中に入る。

 辺りはしんとしていて誰の姿も見えない。私はもう一度、空を見上げた。僅かの間にそれは半分以上が墨と藍色の混じり合うものに変化していた。ところどころの隙間から覗く紅が、やはり私の頭の中に入り込んで来る。何故か、不意にそれは目のように感じられた。そして、まるで誰かに見られているような気がした。

 私は何とも言い難い心情に押し包まれ、家に入った。


第三章【遭遇、降雨】1



 此処に来て確か今日は五日目になる。しかし、そもそも私は此処に「来た」のかどうかも実の所、定かでは無い。そればかりか、私の持つ私に関することの内、定かであることの方が少ないように思えた。

 私は菓子があまり好きでは無い。私は大根の漬物が割と好きだ。そういう単純な情報しか、私は私について持ち得ていないように思える。そこに疑問を覚えないと言えば嘘になる。だが、特別に疑問には思わない。それがどうしてなのかは分からない。

 今日の朝餉あさげには大根の漬物が用意されていた。相変わらず、朝を迎えるとこうして食事の用意が整えられている。そして相変わらず、それを食べている間、彼は板間の隅でじっと私を見ている。

 時々、食べなくても此処では生きて行けるというのに何故なにゆえお前は食事をするのだろうかとか、人間は不可解な生き物であるとか、食べるのが遅いなとか、独り言かどうか判別しづらい事柄を、やはり独り言かどうか判別しづらい声で話している。

 食事が済んで私が立ち上がると、彼は音も無く付いて来る。着物に袖を通して草履を履く間も、隣で私の影のように待機している。引き戸を開けて施錠し、歩き出すと、もう当然であるかのように彼は黙って私の隣に位置する。

 多少は慣れてしまった所はあるが、未だ名も知らぬ猫のような生き物がこうして私に付き従うようにしていることは、どうにも理解し難いことである。そう、名前だ。私は彼にお前と呼び掛け、彼もまた私にお前と呼び掛ける。やはり互いの名前は知っていた方が何かと都合が良いのではないだろうか。私は以前に一度、はぐらかされてしまったことを思い出しつつ彼に再び名前を尋ねた。

「名前など記号に過ぎない」

 だが、彼から返って来た答えは以前に聞いたものと全く同じそれであった。

「そうかもしれないが、こうして共にいる以上、お互いの名前は知っていた方が良いだろう?」

「何故だ」

「何故って……呼ぶ時に困るじゃないか」

「そうは思えない」

「私はそう思うんだ」

「意見の不一致ということだな」

「もしかして名前が無いのか?」

「……そんなことは無い」

 少しの間を空けて彼は言った。

 そして、「それ程までに私の名が知りたいか?」と続けた。其処に怒りは感じ取れなかったが、あまり積極的な意思は見受けられなかった。

「お前がどうしても言いたくないというなら別に良いさ」

 私は僅かに思案した上で、そう告げた。

 沈黙がお互いを包む。そうこうしている内に、もう見慣れた菓子商店が見えて来た。今日も変わらず客入りは良いようで、まだ日が高くは昇り切らない内から店に入って行く人々の姿が目に映る。本当にこの町の人間は菓子が好きなんだなと改めて思わざるを得ない。

「必要と思った時に名は告げよう。それよりも昨日、私が言ったことを覚えているか?」

 不意に、彼が声を落とした様子で言う。

「どうしたんだ、急に声を小さくして」

「良いから答えろ。それと、お前も少し声を落とせ。歩調も緩めろ」

 不審に思いながらも私は彼の言う通りにした。共に過ごした時間は短いながらも、私はほんの少しずつに過ぎないかもしれないが彼について理解しつつあった。

 彼は、その発言のほとんどに確固たる意思がある。もっと言えば、何か裏がある。その全貌を言葉にすることは無いが、彼は私の知らないことを知り、直接的にではないがそれを伝えようとしているように思えるのだ。

「昨日のことか?」

 そう私が尋ねると、彼は肯定した。

「そうだ。最小の完全トーティエント数、二番目に小さな素数」

「ああ、三か」

「それの持つ意味。私は、明日の数字を考えろと言った筈だ。つまり、今日の数字だ」

「考えてはみたけど分からなかったな、正直。此処に来て何日ということかと思ったが、今日は五日目であって三日目では無いし」

「此処に来て、お前は何をした」

「菓子商店に行って女主人に会って、仮の住まいを得て、お前に会った」

「その後だ」

「その後? ああ、ちょっと気に入った菓子売り場が出来たな」

「もっと細かく見ろ。全てのことには理由がある。必然と言っても良い。此処では特にそうだ。どの事象にも必ず理由が存在する。それを念頭に置いて振り返れ、良いな」

 其処まで話した時、菓子商店はもう目の前だった。そのせいなのかどうかは分からないが、それきり彼は口を閉ざしてしまった。


第三章【遭遇、降雨】2



 私は彼の言葉を頭の中に巡らせながら、入口をくぐる。例の菓子売り場に行こうかと思いつつも、足はそれを拒むかのように重い。先程に歩調を緩めた時よりも更にそれは速度を失い、まるで水の中を歩いているような錯覚すらして来る。

 彼は、意味の無いことはほとんど言わない。即ち、彼の言にはほとんど意味がある。そしてそれはとても重要なことだ。確かな証拠があるわけでは無かったが、私はそう思っている。その彼が言った。今日の数字を考えろと。此処で何をしたかと。全てのことには理由があると。そして、振り返れと。

 私は歩みを止めないまま考え続ける。何か焦りのようなものを覚える。それでも、彼の言葉の指す所が分からない。それが焦燥を更に強く、大きくする。

 店内に広がる菓子の甘い香りのせいだろうか、思考するにあたっての肝心な所がぼやけてしまい、私はうまく考えをまとめることが出来なかった。

 連綿と続く菓子売り場、笑顔の売り子、佇む猫、客の姿、ざわめき。それらが一緒くたに混ざり合い、ごく緩やかに私の周りを回転する。私はその中心で動けない。いや、体はあの菓子売り場へ向けてゆっくりと動いている。だが、脳味噌の真ん中が甘く痺れたようになってうまく機能していない。

「いらっしゃいませ」

 瞬間、ぱちりと何かが弾けて飛んで行く。ぼやけていたような気がする視界は澄み渡り、私の両目は正しく目の前を捉える。其処には彼女が笑顔で立っていた。私はいつの間にか、例の菓子売り場に辿り着いていた。まとまっていなかった思考は緩慢にその姿を隠す。代わりに彼女の姿が刻まれ始める。

「良かったら、ご試食して行って下さいね」

 彼女はそう言い、手のひらで試食の場を示す。そこには練り羊羹と煎餅があった。私は勧められるまま、煎餅に手を伸ばす――伸ばし掛ける。しかし、その右手は煎餅のかけらに届く寸前でぴたりと止まった。

「どうかしましたか?」

 春の風のような彼女の声が頭上でする。私はその声に答えることも出来ぬまま、あと少しで触れていた指の先にある煎餅を見つめ続けていた。

 まるで時が止まったような気すらする。私は今、此処で何をしている? そんな基本的すぎる疑問が胸に湧く。

 私の目は、煎餅のかけらに伸ばしている指先を映している。何も、何も特別に変わったことなど無い。だが、私の指先はそれ以上、決して進もうとはしなかった。背中に、じわりと嫌な汗が滲む。

「大丈夫ですか?」

 降って来た声に顔を上げると、彼女が心配を湛えた顔で私を見ている。私は、その言葉に返事をしようとしたもののそれはどうしてか叶わず、喉の奥に何か言い知れないつかえを感じただけだった。

「お加減が悪いのですか?」

「……いや、そんなことは無いんだ」

 それだけをやっとの思いで私は口にする。何故、私はこんなにも不安を覚えているのだろう。私は彼女から視線を離し、もう一度、煎餅を見る。

「当店で人気の醤油煎餅なんですよ」

 彼女の声が、まるで何処か遠くの地から届けられているように聞こえる。残響が耳の奥底で反響する。それは私の思考をぐるりと掻き回すようで。気が付けば私は、止まっていた指先を煎餅のかけらへと更に伸ばしていた。

「やめるんだ!」

 私は、ぴたりと動きを止める。ゆっくりと首を動かすと、私の足元で彼が強く私を睨んでいた。喩えではなく、本当に。滅多に開かれない彼の闇夜のような瞳が大きく丸くその存在を主張し、私を見据えていた。

 彼は今まで私と共にいて、大きな声を出すことは無かった。まして、このように私を鋭く見つめて来ることも。これまでに無い彼の態度は私の心情を大きく揺さぶる。今、何が起きているというのだろう。


第三章【遭遇、降雨】3



「やめるんだ」

 先程よりも幾らか落ち着いた声で、彼は同じ言葉を繰り返す。だが、目の鋭利さはそのままだった。私は自分でも何を言おうとしているのか分からないまま、彼に向けて言葉を発しようと口を開き掛けた、その時だった。

 不意に、およそ人間のものとは思えない声が空気を振動させ、切り裂くように響き渡る。細く、それでいて強く、聞く者の身を竦ませる叫びのような声。

「何をしている」

 次いで聞こえて来た声は、ゆっくりと重力の塊を此方に放つような重厚さを持っていた。それと同時、私の目の前に立っている売り子である彼女が、腰から折れて頭を下げる。その先には、雪の冷たさを錯覚させるような白さに包まれた猫が一匹、何処までも暗い海のような黒い目を此方に向けて佇んでいた。

  昨日、彼と話していた猫だ。思い当たったものの、其処で私の思考は停止する。大きくも小さくもない一匹の猫は、形容し難いほどの圧倒的存在感を以て私を射抜く。その両目の中心で針のように細く浮かぶ金の瞳孔が、私の輪郭の全てを展翅てんしする。

「お前か」

 白猫はやがて私から針を外し、悠々と通路を進み出る。そして、ひどく憎々しげにそう言った。私の足元にいる、彼に向けて。

 長い沈黙が流れる。気が付けば、視界に収まる人間の全てが頭を下げている。そして、それぞれの店先では一匹ずつの猫が此方を窺うようにして見ている。異様な光景だった。

「昨日の話を、もう忘れたか」

 沈黙を打ち破ったのは白猫だった。忌々しげに言い放った後、右前足で二度、顔を擦った。その仕草は普通の猫と何ら変わり無い。

「……忘れたわけでは無い」

「それならば、何故なにゆえ妨げる。どのような理由があろうとも禁じ手は禁じ手、決して認めるわけにはいかないと知ってのことだと判ずるが」

「だが、何事にも例外は有る」

「無い。今までお前の行動には目を瞑って来たが、これ以上繰り返すようならばそれ相応の対応を取らざるを得ない」

 会話の応酬。その内容は良く分からない。だが、決して穏やかでは無いことは判然としている。加えて、彼が危地に立たされているということも。

 私は言うべき言葉を探しつつ、両者を見つめ続ける。私に出来ることは何なのか。しかし、そんな私の心の内を笑うように白猫は一つ大きく欠伸をし、白すぎる右前足をすっと伸ばした。それが彼に触れるか触れないかというところで、私は自分が意識するよりも早く彼と白猫の間に割って入っていた。再び、白猫の一対の黒い目がじろりと私を睨む。私は、狩られる獣とはこういう気持ちだろうかと、他人事のように考えていた。恐怖のあまり、脳味噌が麻痺したのかもしれない。

「何用だ、人間」

 地の底から響くような、低く重い声。それは、菓子商店が閉まる時に鳴り響く鐘の音に良く似ていた。

「邪魔立てするか」

 私の意思を確かめるように白猫が言う。やはり白猫は何かしようとしていたのだと、その発言で知った。だが、私に何が出来るというのだろう。全身が凍ったように動かない程の恐ろしさを間近で感じ、言葉すら忘れたように声が出ないというのに。

 不気味な静寂の中、不意に、かつん、という小さな音が背後から聞こえた。けれど振り返るという簡単な動作すら私には出来なかった。

「良いじゃあないか」

 聞き覚えのある女性の声。

「やらせておけば良い。全てを暴き立てたわけでも無いだろう」

「……店主が、そう仰るなら」

 白猫は一つ軽くお辞儀をしてから居住まいを正し、再び私を刺すように見据えた。そして数秒の後、くるりと背を向けて白猫は店の奥へと去って行く。

「すまない」

 聞こえた声に視線を落とすと、足元で彼が俯いていた。その表情を窺い知ることは出来ない。だが私は、初めて聞いた消え入りそうな彼の声に、確かに胸が痛んだ。

「どうせ何も出来やしないさ」

 言い放ち、かつん、と音を鳴らして背後の人物が遠ざかって行く気配がする。私がゆっくりと振り向くと、赤と黒の艶やかな着物を身に纏い、朱色に染められた塗下駄ぬりげたを履いた女性が、空気すら震わせないかのように静かに歩いているのが見えた。此処に来た時に一度だけ話をした、この菓子商店の女主人だった。

 やがて彼女の姿が見えなくなると、止められていた時が再び動き出したかのように、店内はざわめきを取り戻す。お辞儀をしたままぴたりと静止していた売り子や客の人々が顔を上げ、それぞれの時間に戻って行く。その中で私と彼だけが、足元に根が生えたように動けなかった。彼はまだ、俯き続けていた。

「これ、良かったらどうぞ。試食用に」

 私は彼から視線を離し、声に導かれるままその方向を見遣る。売り子の彼女が小さな袋を差し出していた。中には煎餅が数枚、入っている。躊躇いながらも礼を言って受け取ると、春の野のように彼女は微笑んだ。だが私は笑い返すことは出来なかった。それどころか、とてつもない違和感を覚え、私はすぐに視線を逸らす。

「戻ろうか」

 私の言葉に彼は、そうだな、と言う。それは小さく、細く、後悔に似た何かが滲んでいる、そんな声だった。


第三章【遭遇、降雨】4



 翌日は雨だった。此処に来てから初めての雨だ。強い雨音は遠慮なくざんざんと響き渡り、雫は群れになって窓を叩いた。冷えた空気が家の中に漂っている。

  ほんの少し窓を開けてみると、途端に雨が風と共に勢い良く吹き込み、格子と衣服を濡らした。私は慌ててぴしゃりと窓を閉める。ふと部屋の中を見渡すと、いつもの彼の姿がない。板間にいるのかと思ったが、其処にも彼はいなかった。名を呼ぼうとして、私は彼の名を未だ知らないことに気が付く。

 とりあえず朝餉あさげを済ませ、器を洗う。その間に、今日は菓子商店に行くことはよそうと考える。この雨では傘を差した所でほとんど無意味になりそうだ。風も強く、それがまるで獣の咆哮のように私には聞こえた。

 それからしばらく経っても、彼が姿を現すことは無かった。今までずっと目に入る所にいた存在がいないということはこんなにも心を落ち着かなくさせるのかと、雨音に耳を傾けながら私は思う。その激しすぎる音の連続が心臓までも叩くようで、だんだんと焦燥が募って行く。何処かに出掛けているのだろうか。こんなにもひどい天気なのに? 彼は今、何処でどうしているだろう。

 私の脳裏に、昨日の出来事が鮮烈に蘇る。彼と白猫と女主人の言葉が、しゃぼん玉のように次々と浮かんでは何処いずこかへ消えて行く。彼らは一体、何について話していたのだろう。

 あの時、強く言い放った彼の言葉が私の脳味噌を揺らす。私が煎餅のかけらに手を伸ばしていた時。やめるんだ、と彼は言った。彼の言葉が無ければ私は、何の疑問も持つこと無くそれを口にしただろう。今までのように。

 おぼろげに、私は今の自分の置かれている状況が異質である事に気が付き始めていた。不可思議な事は多くある。見知らぬこの町で、この家で、私はこうして暮らす事になった。 灰色の座布団のような、猫のような生き物と共に。彼は人間の言葉を理解し、自らもそれを操る。

 町の中心に存在する、大きな菓子商店。中には途方も無い程の数の菓子売り場があり、売り子がいて、猫がいる。白い猫は地に響く声で人語を話す。閉店の折には、地の底から生まれているような鐘の音が鳴る。菓子商店には女主人がいる。

 他に何かあっただろうかと私は考えを巡らせる。だが、いずれにしろそれらのどれもが、私には決して受け入れられない事では無いのだと改めて思う。理由は良く分からない。冷たい霧が思考を取り巻いているかのような感覚の中、私は見えない現状の彼方を見据える行為を放棄した。

 ――どれくらい時間が経ったのか、気が付くと私は眠っていたようだった。覚醒し切っていない頭で、今は何時くらいだろうかと考える。未だ雨は降り続いていた。

 ぐるりと周囲を見渡してみたが、彼の姿は無い。呼ぼうとして開き掛けた口が、またも呼ぶ名前を知らないという事実にぶつかり、閉ざされる。彼の言を借りるならば記号に過ぎないという事らしいが、やはり名前を知らないというのは不便だ。今度こそは教えて貰おうと私はひそかに決意する。

「おい、いないのか?」

 仕方無しに私はそう呼び掛けてみる。しかし、返って来る声は無かった。この家には私一人分の気配しかしない。

 ふと、彼が何度も繰り返した言葉が思い出される。振り返れ、と。彼は幾度も幾度も私に向けてこの言葉を告げた。だが主語が無く、他に説明も無いので、彼が一体何を言わんとしているのか私には分からなかった。

 振り返るとは、どういう事だろう。自分が今、向いている方向とは反対の方向を向く事。あとは、思い出す事。思い出す……何を?

 その時、前触れ無く、がらりと引き戸が開かれた。はっとして其方を見遣ると、人間の頭があるであろう位置には何も見えず、私が視線を下げるとその存在を認める事が出来た。

「お前、出掛けていたのか」 

「そうだ」

 彼は、ずぶ濡れだった。灰色の毛は普段より体積を減らしたようになり、その毛先からは絶え間無く水滴が滴り落ちている。たちまち土間には彼の体の分の小さな水溜まりが生まれた。

 私は、何か拭く物、と口にしながらとうで出来た籠の中を漁った。その間に、彼は思い切り体を振って水滴を飛ばした後、いつものようにふよりと漂うように浮いて板間へと上がって来た。

 私が差し出した布を彼は受け取り、ぐるぐると包帯を巻くかのようにする。そして体全体に密着させるようにぎゅっと引き込んだ。白い布に水分が吸い取られて行くのが見える。そしてはらりと布を落とした後、彼は、お前に渡す物がある、と覇気の無い声で言った。

 明らかにいつもの彼とは様子が違う。私がどうかしたのかと尋ねるより早く、彼は唐突に口を大きく開いた。それは本当に大きく、顔面の半分くらいが口内で埋まってしまった。獣らしい鋭い上下の歯が光る。その口の中、何かが見えたような気がして私は恐る恐る其処を覗き込む。彼が口を閉じないことを祈りながら、私は右手を差し入れて、それを取り出してみた。

「お前に読んでほしい」

 彼は珍しく瞳を開いていた。濡れた闇夜のように黒く光る目が三日月を湛えて私を見ている。二、三度、ぱちぱちと瞬きをして、彼は続ける。

「不完全な物だが、無いよりはましだろうと思い、持って来た。明日の朝には返す約束をしている。今夜の内に読んでほしい。ところで今日、菓子商店へは行ったか?」

「いや、雨風が強かったので行かなかった」

「そうか。私はもう眠る」

 ふいと彼は私の横を通り過ぎ、板間の奥の隅に落ち着く。そして目を閉じた。

「あ、その前に名前を教えてくれないか」

「二度も拒んだというのに、案外しつこい男だな、お前は」

「今日、お前を探すのに呼ぼうとして困ったんだ。どうしても言いたくないなら諦めるが」

「探したのか、私を」

「ああ」

「何故」

「何故って、いつもいるのに見当たらなかったから。しかもこの雨だろう、外へ出ているのかと気になったからな」

「……そうか」

 それきり、彼は沈黙してしまった。余程、眠たいのだろうか。それともやはり、名を明かす事はしたくないのだろうか。どちらにしろ、今日の所も私は諦める事にした。

 先程、彼から受け取った書物に目を落とす。朽葉色くちばいろの表紙をした薄く小さなそれを、彼は私に読んでほしいと言った。彼がそう言うならば私は読もう。彼の発言や態度は、意味を持たないことが無かったように思えるからだ。其処には明言出来ない真意が隠されている。

 彼はもう眠ったのだろうか。板間の隅で目蓋を下ろし、じっとしている様は、まるで本物の座布団のようだった。もういっそ、座布団と呼んでやろうかと一瞬思案したが、それはあまりだと考え直す。やはり彼の口から名前を聞きたい。

 彼の言う通り、名前は記号に過ぎない。個を識別する為の呼称に過ぎないだろう。だが、それだけとも限らない。もしも彼が本心から拒否しているのでなければ、私は、座布団のような外見をした灰色の不思議な生物である彼の名を知りたい。私は少なからず彼の持つ誘引力に惹かれているのかもしれない。


第三章【遭遇、降雨】5



 ――その夜、私は行灯の明かりの下、彼が持って来た書物を読んだ。これが口の中から出て来た事には驚いたが、予想に反してそれは唾液まみれなどという事は無かった。

  始まりからして、体験記の形を取った小説のようだ。流れ綴られている文字列を追う。ページを捲る。単調な作業が続いた。短い話ゆえに、然程の時間は掛からず読み終えたように思える。私はもう一度、最初から読み直す事にした。

 そうして私が二度、その物語を読み終えた時、不意に行灯あんどんの明かりが消えた。油が切れたのだろうかと行灯を見遣った時、外から何かを引き摺るような音がした。

 夜半に何事だろうかと明かり取りの窓を少し開けてみると、私の視界一杯に毛のような物が映り込む。面食らい、そのまま凝視していると、それはずるずると左方向へと動いている事が分かる。私はあまりの出来事に言葉を失った。引き摺るような音はそれが移動している音なのだ。

 幾許いくばくも無くして、毛の如き物は視野から消え失せる。いつの間にか雨は止んでおり、微かな月の光が緩やかに流れ込むようにして此方を照らす。

 私は窓の隙間から左方向を注意深く覗いてみた。そこには天に届くかと思う程の巨大な金色こんじきの毛の塊があった。山のようなそれは背に月光を受けながらじりじりと移動して行く。

 私は思わず息を飲んだ。そのまま目を離せないでいると、不意にぴたっと金色の毛の動きが止まる。夜の静寂の中、空間にそびえるようにして存在しているそれは、私の体を凍り付かせる。

 瞬間、金色の背に亀裂が入る。上から下、縦方向に走り、毛の塊は左右に割れた。中は、僅かな月の光だけでも此方に分かる程に赤く、禍々しい色彩を見せ付けるように佇んでいる。その猩々緋しょうじょうひに押し包まれるようにして、何かの輪郭が幾つか見えたような気がした。

 私は、ぐいと目を凝らす。そして、それが何なのか分かった時、私は叫び出したくなった。だが静止していた金色が再び、ぐぐぐと動いたことで私は何とかそれを堪える。上部を見上げると、まるで此方を振り返ろうとしているような動きをしていると知り、私は素早く窓辺を離れた。

 知らず、心拍数が上がり、呼吸が荒くなっている。落ち着け、声を出すなと私は自分自身に言い聞かせて、ただひたすらに自らを殺すようにして時が過ぎるのを待った。厳密に言えば、金色の化け物が去るのを待った。

 長すぎると思われる時間の後、ようやく再び音が聞こえ始める。何かを引き摺るような音だ。それはひどくゆっくりとしてはいたが、確実に遠ざかって行く。私は震えていた。

 ずずず、という音が微かにも聞こえなくなった事を確認してから、私は慎重に窓を閉め、急いで床に就いた。暗闇の中、目蓋の裏に先程の金色が焼き付いて離れなかった。


第三章【遭遇、降雨】6



 昨日に続き、今日もひどい雨が降っている。叩き付けるような音が絶え間無くばちばちと鳴り、騒がしい。明かり取りの窓の内側から空を見上げると、重く垂れ込めた灰色が頭上一杯に広がっていた。

 私は眠い目を強く擦り、幾度か意識的に瞬きを繰り返す。昨夜は良く眠れなかった。机に置いたままの書物に目を遣る。その内容を思い出しつつ、私は脳裏に更に蘇る映像に心を向ける。

 金色こんじきの化け物。あれは一体、何だったというのだろう。私は今までにあのような巨体の生物を見た事が無い。いや、大抵の人間は見た事が無いだろう。もしかしたら夢幻ゆめまぼろしの類いだったのかもしれない――それならば、どんなにか良いだろう。生憎、そう解釈出来ないだけの要素を幸か不幸か今の私は知ってしまっている。知らず、押し殺した溜め息が洩れた。私は視線の先にある書物を手に、板間へと向かう。

 珍しく、座布団に似た猫のような彼は土間に下りていた。また、加えて珍しく、その両目は存在を主張するかのように大きく開かれている。普段、彼の目蓋は眼球の存在を思わせない程にぴたりと下りている事が多いので、それも手伝って私は吸い寄せられるようにして彼の目を見ていた。

「読み終わったか」

「ああ」

 一対の黒曜石の瞳をぎょろりと動かし、それらは私の持つ書物を捉える。つられるようにして私も自らの携えた物へと視線を動かす。

「今朝、返す事になっている」

「そうだったな。なあ、どうしてお前はこれを私に持って来たんだ?」

 私が彼に書物を差し出すと、勢い良く彼は口を大きく開く。此処に入れろという意味だろうか。そういえば昨日も、彼は此処から取り出していた。唾液だらけにならないのだろうか。素朴な疑問を持ちつつ、上下の細かく鋭い歯に注意しながら、私は朽葉色くちばいろの書物を其処に置いた。たちまち彼は口を閉じる。そして、そのまま引き戸を開けて外へ出て行こうとした。

「おい、私の質問に答えてくれないのか」

 ぴたりと彼の動きが止まる。僅かに開かれた戸の隙間から、斜めに降り注ぐ大雨が入り込んだ。

「……とにかく、これを返す約束をしているので行って来る」

「せめて傘を」

 言い掛けた私を振り切るようにして、彼は器用にも体を傾け、引き戸の隙間からしゅるりと外へ出て行ってしまった。

 私は反射的に土間へと下り、がらがらと戸を開ける。雨がぶつかる。左斜めに吹き付ける豪雨の中、けぶる水の向こうに彼の灰色の体が見えた。意外にも彼は素早く、その姿はすぐに見えなくなってしまう。私は自分の体が冷えて行く事も構わず、しばらくの間、其処に立ち尽くしていた。


第三章【遭遇、降雨】7



 ――雨は降り続いた。まるで終わる事など無いかのように。耳の奥にまで届けと言わんばかりに連続する雨音は、私の心臓を強く揺さぶるようでひどく落ち着かない気分にさせる。

 朝餉あさげを取る気にもなれず、着替えだけを済ませて私はただひたすらにじっとしていた。考えるべき事はとても多いように思う。しかし、思考をまとめようとするといつものようにそれは決してうまく行く事が無く、焦りだけが募る。

 私は、彼が帰って来るのを待っていた。彼は、多くを語らない。此方から尋ねてみても、それは彼自身のふよふよとした空中歩行のようにかわされてしまう。先程の書物についてもそうだ。何か知っている素振りを見せつつも彼は私に伝えない。間接的に私に理解させようとしている意思は見受けられるものの、核心には迫らない。迫れない。

 私は、彼が戻って来たらせめてあの書物についてだけでも問いただしてみようと考えていた。未だ、雨は止まない。

 その時、どんどんと戸を叩く音がした。はっと顔を上げると、再び戸は同じ調子で叩かれる。彼が戻ったのかと腰を上げたが、戸の向こうに浮かび上がる輪郭は彼ではなかった。人間の姿であった。

「どちら様ですか?」

「突然に失礼する。菓子商店の店主だ。相談したい事があって参じた。少し時間を貰えないだろうか」

 菓子商店の店主。私は困惑しつつも引き戸を開ける。其処には射干玉ぬばたまの如き黒髪を緩く結い上げ、艶やかな紅緋べにひの着物に身を包んだ女性が一人、美しく細い笑みを湛えて真っ直ぐに立っていた。

「お邪魔しても構わないか?」

 私は少しの逡巡の末、頷いた。外は強い雨風、無下に追い返す事も出来かねたからだ。追い返す? 私は自らの思考に疑問を抱く。

 彼女は静かに傘を畳む。その体は、ほんの少しばかりしか雨に濡れてはいなかった。それでも、ぽとりぽとりと、髪の先や袖の先から雫が落ち、土間に小さく染みを作る。私が差し出した布を受け取り髪を軽く拭いて行くその様子を、私は何処か底知れぬ感情を持って見つめていた。

「今日は、お前さんに相談したい事があってね」

 優雅な仕草で彼女は座布団に座り、そう切り出す。私は曖昧に返事をする。

「その前に。この町には、もう慣れたかい」

「ええ。それなりには。まだ分からない事の方が多いですが」

「そうだね、確かにこの町には理解の及ばない不可思議な所が多いだろう。私も長く此処に身を置いているが、今でも知り得ない事もある。そこで、物は相談なんだけれどね。お前さん、菓子商店で働いてみないかい」

 女店主は探るような目で私を覗き込むように見た。

「働くというのは、あの商店で売り子として、という事ですか?」

「ああ、そうさ。何、難しい事じゃあない。慣れない内は戸惑う事もあるかもしれないが、基本的には接客、菓子の販売だ」

「何故、突然そんな話を?」

「ああ、性急だったかね。先程の話に繋がるのだが、この町には理解し切れない事が色々とあるだろう? それも、此処で仕事を持って、この町の人々に接する事で分かって行く事もあるのではないかと思ってね。あとは、単純に人手不足なのさ。先日、一人辞めてしまったから代わりの者を丁度探している所でね。どうだい、やってみないかい?」

 私はすぐに返答出来ず、考え込む。すると見透かしたように女店主は言った。

「何も今すぐに決めなくても良い。数日考えて、返事をくれないか」

「ええ、分かりました」

「ついでに話しておくと、この話をお前さんに持って来たのは他にも理由があってね。お前さん、気に入りの店があっただろう? 辞めたのは其処の売り子なんだ。だから興味も湧くのではないかと思ってね。私としても、その店を気に入ってくれている人間に任せたいのさ」

「辞めたんですか、あの子が?」

 驚きのままに私は言った。思えば、私は彼女の名前も知らない。春の野原に咲く、花のように笑う彼女。

「ああ、昨日辞めてしまった。故郷に帰るそうだ。良く働いてくれていたから私としても残念だよ」

「そうですか……」

「それでは私はこの辺で失礼するよ。先の話、考えておいておくれ」

 衣擦れの音と共に女店主は立ち上がり、そう告げた。

「ああ、そういえば。あいつは不在かい」

「あいつ?」

 朱塗りの塗下駄ぬりげたを履き、ふと思い出したように店主は振り返り、尋ねる。

「お前さんと共にいる、あいつさ」

「もしかして、灰色の座布団みたいな生き物の事ですか?」

「座布団とは。言い得て妙だね」

 店主は鈴の音のように笑い、そいつはいないのかい、と再び尋ねる。

「今朝方から出掛けていますよ」

「何処に行ったか知っていたら教えて貰えないか。あいつにも話したい事があってね……」

 引き戸に手を掛け、彼女は薄く笑う。

 一瞬、私は自らを剥離されたかのような錯覚に陥った。あるいは、急速に自分以外の何もかもが遠ざかったような感覚。私は誘われるように口を開く。

「彼なら、本を返しに」

 其処まで言った時、唐突に引き戸が大きな音を立てて開かれる。大きく響く雨音、風音が室内に侵入する。


第三章【遭遇、降雨】8



 途端、まどろみの中を泳いでいたような私の意識が引っ張り上げられた。目線を下げると、濡れ鼠のようになった彼が今朝のように瞳を開けて其処にいた。そして彼は間違い無く、菓子商店の店主を見ている。いや、睨んでいると言った方が的確かもしれない。鋭く磨かれた闇夜のような視線を射るように注いでいる。

「何用だ」

 低く、彼が言った。

「ご挨拶だね。私は話があって来ただけさ。もう用は済んだ。お前にも言いたい事はあるのだが……」

 二者の間に沈黙が生じる。重圧のある空気が流れた。

「またにするよ」

 硝子がらすに亀裂を入れるように女店主は言い、ひらりと片手を上げて出て行く。開く傘の色は黄丹おうに。身に纏う物を赤系統で統一した彼女の後ろ姿は、一輪の花のようでもあった。同時に、何か不吉な、禍々しいものを覚える。思えば今日、私は彼女を見た時からずっと心に引っ掛かるものがある。雨に紛れて遠ざかる赤を見送りながら、私は記憶を探っていた。

「おい。あいつに何を言われた」

 足元の彼が私を見上げて尋ねる。その両目には、幾らか和らいだとは言え、未だ牙のような鋭利さが湛えられたままであった。

 私は気圧されながらも、菓子商店で売り子をしないか提案された事を伝えると、それでどう返答したのかと更に尋ねられる。私は彼に体を拭くよう布を差し出し、返事はまだしていない旨を話す。彼は安堵したように一つ大きく息を吐き出した。

「それで、他には? 何か余計な事を言わなかっただろうな」

「余計な事?」

「そうだ。さっきはまさにそれを言おうとしていただろう。私がお前に注意して行かなかった事も悪いが」

 彼は布をぐるぐると全身に巻き付け、それをぎゅっと自らに引き寄せるようにして水を吸い取らせると、ぱさりと落とす。そして大きく体を震わせた。雫の残滓ざんしが、ぱたたたと散る。

「私が、あの本を借りて来た事は内密にしろ。貸し本屋でも本来、門外不出の書物となっている。無理を言って借りて来たのだ。お前の為に」

 ひょいと土間に上がり、彼は私を改めて見る。

「出掛けにも言ったが、どうしてあれを私に借りて来たんだ?」

「……本当に、分からないか」

 微動だにせず、彼は呟くように問い返す。私は思わず息を飲んだ。

 まるで全てを見通しているとでも言うかのような彼の闇夜の瞳が、私を引き寄せ続ける。私もまた動く事が出来ず、其処にいた。風がページを捲るようにして書物の内容が私の脳裏に蘇る。

「私が昨日見たものは、夢では無かったのか」

 しばらく後、知らず俯き、私は半ば独り言のようにそう言った。

 見た事も無い、山のように巨大な金色こんじきの生物。丑三つ時に響き渡った、何かを引き摺るような不気味な音。生き物の背が割れ、その中に見えた血のように鮮やかな猩々緋しょうじょうひ。そして、其処に捕らわれるようにして存在していた――私の見間違いでなければ――数人の、人間の姿。それらが一時いちどきに思い出される。これらは皆、昨夜に読んだ書物に書かれていた事と酷似していたのだ。

 気付いているかもしれないが。そう、前置きして彼は続けた。

「あれは体験記だ。昔、此処を訪れた人間が書き残した。それは禁じられた行為だ。お前はまだ知らないと思うが、此処では幾つかの決まり事がある。その一つに、『此処での一切を書き記すべからず』というものがある。それを知った上で、その人間は原稿を書き、書にまとめた。勿論、誰に言うつもりも無かった。それは、ごく個人的な手記のような、趣味のようなものだったのだ。だが、禁は禁。どんなつもりであろうとも例外は認められない」

 彼は言葉を切る。顔を上げると、瞬きのない瞳が私を縛る。私は、恐る恐る続きを尋ねた。

「それで、その人間はどうなったんだ」

「死んだよ。もう遠く昔の話だ」

「……殺されたのか?」

「そう表現しても差し支えは無い」

 身が凍る思いとは、まさにこういう事だろう。私は背筋を急速に這い登って行くものがあった。しかし、今の話と私が、どのように結び付くのだろう。私もいずれ、その人間のように殺されると――彼はそう言いたいのだろうか。すると、私の胸の内を見透かしたかのように彼は再び口を開いた。

「お前が禁を犯しさえしなければ、殺されるなどという事は無いさ」

「禁と言われても、私は何一つそれを知らないのだが……」

「言葉で直に伝えられるものではない。追々、分かって行くものだ。此処で過ごしていく内にな。或いは、こうして私のように語る者がいれば例外となる」

 私は、其処で水に打たれたように意識を集合させる。今まで彼は多くを語らなかった。それがどうしたという事だろう、今の彼は非常に饒舌で、全貌とまでは行かないまでも明らかに核心に迫る話し方をし、私に情報を与えていた。

 私は、彼の身を案じた。先日の出来事が思い返される。菓子商店で、彼は私が試食しようとする行為を止めた。それはまるで、私を庇うような守るような、そういった心情がありありと見えるものだった。

 そして、店に座る白猫は言った。「どのような理由があろうとも禁じ手は禁じ手」と。もしかして彼は、この町での決まり事を破っているのだろうか。


第三章【遭遇、降雨】9



「なあ、大丈夫なのか。そういう事を私に話して。今までお前は私がどんなに尋ねても教えてくれない事がほとんどだった。私だって馬鹿じゃあない、何かしらの理由があって答えられないのだろうとは思っていた。それに、この町が何処か普通では無い事も、おぼろげにだが分かる。その思いは昨夜の事と、読んだ書物の内容によって強くなった。そして今、お前から少しだが話を聞く事が出来た」

 彼の視線が私を底無しの沼から急速に引き上げる。もう助からないと思っていた私の目の前に、一本の緑深い草が垂らされている。私はそれへと必死に手を伸ばす。どろどろと濁る水が視界を阻む筈なのに、どうしてか、たった一本の緑が何よりも美しくまばゆく見える。

「情けないかもしれないが、私には良く分からないんだ。違和感はある。私はいつ頃、何処でどうしていたのだろう。何故、此処にいるのだろう、と。だが最近では、違和感を覚えている事がおかしいのではないかという心地すらしている。私は、もうずっと前から此処にいたのではないだろうか。本当ならば見知った町並み、本当ならば見知った人々で。もしかしたら、お前ともいつか出会っているのかもしれない。私が思い出せないだけで。

 そして、その不透明な部分は、あの菓子商店に隠されているのかもしれない。私が其処で働く事で、少しずつでも思い出して行けるのなら私はそうしたい、いや、そうするべきなんじゃないだろうかと。そんな風に、思うんだ。なあ、これは間違いなんだろか。考えようとしても、いつも何かもやのようなものが脳の中に張り出して、うまくまとまらないんだ。この日々が、とても落ち着かない。私は、これからどうしたら良いのだろう」

 言ってしまうと、私は自分がひどく小さな生き物のように思えて仕方なかった。羅針盤がないと何処にも進む事の出来ない、寄る辺のない子供のような。

 私は元来からこういった人間だっただろうか。他者に意見を求めないと動き出せない者だっただろうか。そう自身の内側へと問い掛けてみても、明確な答えは得られなかった。それすらも私を苛立たせる。

 どんな人間でも持ち得るであろう芯を、私は何処かへ置いて来てしまったように思えた。喩えるなら、価値観や判断基準。もっと言ってしまえば、感情。それらの全てとは言わずとも、少なからずこれらが本来の形を失っているであろう事は曖昧にだが認識出来た。そうでなければ、この不安の正体に説明が付けられない。何が正しく、何が間違っているのか、その境目を私は見定める事が出来なかった。

 外では未だ大きな雨音が響き、それが私の焦燥を加速させる。

「察しの通り、私からお前に話せる事は、ごく少ない」

 床から僅かの所を浮いていた彼は、空気を震わせる事無く羽のように静かに下りた。その目は先程よりも微かに伏せられ、躊躇いの心情が見て取れる。

「正直に言えば、私が今日話した事は全て禁制に触れる。この町の事は、この町に住む者が各々の身で以て知って行く事。それが暗黙の了解となっている。よって、このように私が特定の人物に対し町について語る事など許されるわけも無い。今日、店主が来ていただろう?」

「ああ、お前にも話したい事があると……」

「おそらく忠告しに来たのだ。これ以上の出過ぎた真似は許さないと」

 更に彼の両眼は伏せられる。反して、私の目は自然、見開かれて行った。

「許さないって、どういう事だ。まさか、お前も」

 いつか此処を訪れた人間のように?

「そう、遠い事では無いかもしれないと私は思っている。今までもこういう事は何度かあったが――此処まで及んでしまったことは今回が初めてだ。もともと、私を快く思わない者達もいる。あの白猫もそうだ。私が僅かながらにでもお前の手助けを出来るのは、もう残り少ないかもしれない」

 何処か諦めたように力無く呟く彼は、私の見た事のない姿だった。飛び出ている耳も心なしか垂れ下がり、いつの間にか両目は縫い針のように細くなってしまっていた。

「どうして、そこまでしてくれるんだ。私とお前は会ったばかりの筈だ。それとも私が覚えていないだけで、いつか何処かで出会っているのか」

「いいや。私とお前が邂逅かいこうしたのはお前がこの町に来た最初の日、それが正真正銘の真実だ」

「ならば、尚更だ。どうしてここまでしてくれる? 自分を危険に晒してまで」

 私の問いに彼は沈黙した。答えられないと、そういう事だろうか。確かに今日、彼は今までに無い程、多くを語った。もう限度量を遥かに超えているのかもしれない。やはり答えなくても良いと、私がそう言おうとした時だった。

「お前が、私に似ていたからだ」

 蜉蝣かげろうの如き儚さで彼は小さく零した。それは耳を澄ませていなければ聞き取ることの出来ない――まして、このような大雨の降る日には――消えてしまいそうな声だった。

 彼は完全に目蓋を閉じて、少し眠る、と付け足した。私は、ああ、とだけ返した。

 まるで私たちを閉じ込めるかのように、翌日も雨は降り続けた。


第四章【樹形図】1



 今日も雨が止まない。これで三日目だ。昨夜もずっと降り続いたようで、その雨音の大きさもさることながら、雨垂れの勢いもまるで増水した川の音のように絶え間なく響き続けていた。おかげでなかなか寝付くことが出来ず、眠り自体もひどく浅いものとなってしまったようだった。これで二日連続、安眠出来ていない。

 私は昨日の朝のように強く目をこすり、意識的に瞬きをを繰り返す。それでも眠気特有の気怠さから解放されることは無かった。だが、安眠などこのままでは永遠にやって来ないのかもしれない。大袈裟では無く、そう私は思う。

 もともと少なからず覚えていた違和感は、じわじわと確実に膨らみ続けて行く。しかし、私にはその正体を突き止めるだけの判断材料も知識も充分な量が無く、加えて、思考をまとめようとするともやが頭の中にゆっくりと生じて行く始末だ。せめて行く手を照らす灯台のようなものがあれば、どんなにか良いだろう。

 もしかしたら、菓子商店で仕事をしてみれば何かが少しずつでも分かって来るのかもしれない。思えば、私はこの町で数人としか会話をしていない。菓子商店の女店主、もう辞めてしまったという売り子、そして彼だ。

 私が朝餉あさげを取っている間中、彼はいつもの定位置である板間の隅から髪の毛一本程も動かない。閉じられた目蓋も開く気配が無い。まだ眠っているのだろうか。

 綺麗な立方体に切られた豆腐の浮く味噌汁を飲みながら、私は今日一日をどう過ごそうか考えていた。菓子商店での仕事について詳しい話を聞きに行こうかとも思っていたのだが、今日の天気は昨日よりも遥かにひどい。

 雨音はひょうが降っているのかと思わせる程でもあるし、それに負けじとでも言うかのように風音が鳴り響く。いつかに読んだ、世界の終わりの洪水を思い出させる天候だ。おそらく傘もほとんど意味を為さないだろう。正直、このような日に外出する気にはなれなかった。

 私は箸を置き、天井を眺める。何を思案すべきかすら思い悩む私を邪魔するかのように、雨と風は勢いを増して行く。

「済んだか」

 急に声を掛けられて私は思わず体を揺らしてしまう。

「起きていたのか」

「とっくにな。それで、食事は済んだのか」

 視線の先、板間の隅から彼が問う。未だ、その目は閉じられたままだ。

「ああ。そういえば、お前が何かを食べている所を見たことが無いな。最初に会った頃、此処で食事を取る必要は無いと言っていた気がするが、お前もそうなのか?」

「そうだ。もっと言えば睡眠も必要では無い。生きて行く為の一切が此処では不要だ」

 ふっと彼が僅かに浮き上がる。私は彼の言のせいもあるのか、不意にその姿が亡霊のように思えてしまう。まさか、此処にいる者達は皆、生きていない――死んでいるとでも言うのだろうか。

「生きて行こうとせずとも生きて行けるということだ。何を以て生と判じるかは私には分からないが。それより」

 彼は、いつものようにふわりふわりと私の元へ近付き、見上げて来る。


第四章【樹形図】2



「出掛けるぞ」

「今からか?」

「何か不都合でもあるのか」

「いや、お前には聞こえていないのか、この雨風の凄まじい音が」

「無論、聞こえている」

「それで、出掛けると?」

「そうだ。お前が此処に骨をうずめる覚悟だと言うのならば無理にとは言わないが」

「どういうことだ?」

 またも雨の激しさが一段と強くなったようだ。最早もはや、豪雨と言って差し支え無いだろう。じとりと重たい雨気あまけが家屋の中にまでも入り込んで来るようだ。また、それと似たものが彼の醸し出す雰囲気から感じ取れた。

 彼は私の問い掛けには答えなかった。しばらく待ってみてもそれは変わらない。黙して語らず。そう、これが本来の彼の姿勢だ。そして、彼が黙するということ、それが彼の答えであると私はもう気付いている。また、彼自身の口から昨日、そう取れる言葉を聞いた。ならば、私が取るべき行動はもう決まっている。

「出掛ける準備なら出来ている。何か持って行くものは?」

「雨傘ぐらいだな。もっとも、この様子では無駄になるかもしれないが」

 彼は私に背を向け、土間へと下りて行く。私もそれに倣うように彼に付いて行く。

 黒橡色くろつるばみいろの傘を手に引き戸を開けると、待ちわびたと言わんばかりに矢の如く降り注ぐ雨が目に映る。耳に痛い程の雨は、その勢力を証明するかのように全力で私の体に当たり、弾ける。耳に痛いばかりか体にも痛い雨であった。

「やはり傘など意味が無いな」

「そうだな」

 私達は鉛色なまりいろの空を見上げて、いやに冷静な会話をする。迷った末に私は一応、雨傘を片手に外へ出る。帰路において、もしかしたらこれが役に立つくらいには天候が回復しているかもしれないではないか。何事にも可能性というものは常に付き纏う。良くも悪しくも。それがたとえ、今日の天気という非常にささやかで些細なことであっても。

「どうした。早く行くぞ。私は決して雨に打たれることが好きというわけでは無いのだから」

「猫は雨が嫌いと聞いたことがあるな」

 私たちは悪天候の中、足を踏み出す。地には浅い湖のような水溜まりが何処までも広がり、本来の道の顔を覆い隠している。履物すら無意味のように思える現状である。

「何度も言うようだが私は猫という生物には分類されない」

「それなら、何に分類されるんだ」

「私にも分かりかねる」

「そうか」

 泥水が撥ねる。着流しはたちまち水を吸って重たくなり、体全体に纏わり付く。頭の先から足の先まで何もかもが雨に汚濁されて行く。それでも何故か、私の心は幾分軽かった。

「ところで、何処に行くんだ」

「貸し本屋だ」

「お前が、あの本を借りて来た所か?」

「ああ。昨日の朝、返しついでにお前のことを少し話した。いや、借りる時には既に幾らか話し伝えてはあったのだがな。主人が、お前に興味を持った。出来れば話してみたいと」

「貸し本屋の主人か?」

「そうだ。彼は私の古くからの友人でもある」

 先を行く彼の毛も水をたっぷりと含み、とても重たそうであった。それでも彼の浮遊飛行速度は落ちることは無い。


第四章【樹形図】3



 目に入り込む雨と、視界に広がる雨靄で彼の姿を見失わないように注意しながら、私は歩く。少しでも流星群の如き雨粒の群れから身を守ろうと掲げている右腕が、だんだんと気怠くなって行く。それ程に強く打ち付ける雨であった。水塊のようにも思える。

 立ち並ぶ家々の隙間を縫うようにして私達は足を進める。今の所、誰ともすれ違うことは無い。この天候では納得の行くものであったが、まるで無人の如くの町の様子に私は言葉を見失う。

 同時、いや、と考え直す。確かに今の私の視界に映り込む人影は皆無だが、肌に感じる雰囲気とでも言うべきものは今までに何度も人の行き交う中で確かに覚えたものであった。それは、町一番と評判の菓子商店の中にゆったりと漂うそれと非常に酷似していた。菓子屋の家屋内では、言うなれば人の中に在って人の中に在らずとでも表されるのであろうか、人々の気配がとても希薄で、私はたびたび不安を覚えたものだ。

 そう、私は今、思い当たった。あれは不安だったのだと。違和感にも似ていたが、それは菓子屋の中に猫がいることや、広々とした空間に入っている店の全てが菓子の店だということによるものだと思い、特に深く自らの感覚を追及することは無かったが。勿論、それらから来る、常とは違った感覚の存在を無視することは出来ないが、とにかく私が最も強く多く思っていたことは「不安」だったのだと理解した。

 人がいようが、いまいが、ざわざわと落ち着かない不安が私を蝕んでいる。それはおそらく、この町全体に対して言えるのだろう。

 一度、意識してしまうと私は途端に怖くなった。先を行く彼の姿を覆い隠そうとでも言うかのように絶え間なく降り注ぐ豪雨の向こう側、私は決して彼の存在を見失わないよう注意した。そう、私は決して彼を見失ってはならない。彼だけが此処で私の指標と成り得る人物であると――厳密に言えば彼は人では無いのかもしれないが――私は唐突に深く認識してやまなかった。

 少しずつ周囲の家々が数を減らして行く中、彼の行く先に少しばかり大きな平屋の家が見え始めた。思った通り、彼はその家の前で立ち止まる。私も後に続くようにして彼の隣に立った。

 僅かの屋根では防ぎ切れないほど斜めに叩き付ける雨から一刻も早く身を守りたくて、私は彼に目的地は此処かと確認した。そうだ、と頷いた彼を尻目に私は二度、戸を叩く。返事は無い。或いはあったとして、この雨音にかき消されているのかもしれなかった。

 もう一度、戸を叩こうと私が構えた時、来ることは伝えてあるから開けて構わないと彼がおもむろに言った。それならそうと早く言ってくれと思いつつ、私は戸を引く。意に反して戸は勢い良く開き、右に素早く滑り、思い切り良くぶつかった。それは雨の音と相まって大きな音を生じさせる。

 私は反射的に謝罪を口にしたが、そんなことは意に介した様子も無く、灰色の彼は私の脇をふわりと漂い一足先に家屋内へと入って行く。気付けば家の中に雨が吹き込んでいた為、私も急いで中に入り、今度は慎重に戸を閉めた。

「おい、いるんだろう。布ぐらい出してくれ」

 彼が奥に向かって少し張った声で告げると、分かってる、という小さな声が返って来た。私は隅に傘を立て掛け、声のした方を見遣る。

 少しの間の後、白い布の束が薄暗い屋内の中、私達の前へと飛んで来た。思わず私は幽霊の類かと思い、一歩後ずさる。だが、灰色の彼が布を半分程受け取ると、それは私の早合点だったと分かる。布は幽霊では無く、しかと命ある生き物によって運ばれていたのだ。

 灰色の彼が布を受け取った後の空間に現出した朽葉色くちばいろの二つの瞳がぎょろりと動き、その後、私をじとりと見定めるようにして其処にある。私は思わず視線を逸らせなくなり、呼吸を忘れたかのようにしてそれを見つめていた。

「使わないのかな」

 布。初対面の生き物は言外にそう告げ、真っ白のそれをぐいと私に差し出すようにする。私は未だ驚愕した状態のまま、何とか礼を言って布を受け取った。

 すると、その生物の全貌が顕わになる。朽葉色の瞳を持ち、黄丹色おうにいろの毛を持つ目の前の生き物の第一印象は、一言で言えば灰色の彼の色違いの種であった。私はますます驚きを深くし、何度か目をしばたいた。

「家の中が濡れるから出来れば早く体を拭いてほしいと思う」

 ぼうっとなっていた私を現実に引き戻すかのように橙色の生き物はそう言い、一度だけゆっくりと瞬きをした。

 私は短く返事をし、驚きと緊張の中で体を拭いた。布はすぐに水気を吸い取り、重くなる。その間ずっと、橙色の彼は視線を私の顔に固定したまま微動だにしなかった。

 やがて拭き終わった頃を見計らって、橙色の彼は私の手から布を取り、灰色の彼からも同じように受け取り、再び家の奥へと引っ込んで行った。


第四章【樹形図】4



 私は橙色の彼の一連の動作を見ながら、この町にはあのような生き物が多くいるのだろうかという思考を始めていた。灰色の彼はと言えば、手持ち無沙汰そうに一つの棚の前で何かを見るとは無しに眺めている。

 ある程度、薄暗さに慣れた目で良く見渡せば、家の中を囲むようにして幾つもの棚が置かれている。そして、それらにはぎっしりと書物が収められていた。そうだ、此処は貸し本屋だったと私は思い出す。

 それにしても薄暗い。私は書棚に近寄り、背表紙を眺める。だが、視界に映っているそれらには題が記されていなかった。不思議に思い、適当な一冊を手にしようとした所で「触らないで」という控えめながらもはっきりとした音を持つ言葉が響いた。そちらを向くと、先程の橙色の生き物が宙に浮かび、大きな目を確かに私に向けていた。

「その辺りの本は触らないで。持ち出し禁止の貴重な物だから」

「あ、ああ。悪かった」

 私が慌てて手を引っ込めると安心したように橙色の生き物は私に背を向け、灰色の彼に話し掛け始めた。

「この人が?」

「そうだ」

「いつぐらいから此処に?」

「数日前だ」

「完全トーティエント数は?」

「まだ満たしていない」

「今、幾つ?」

「二だ」

「菓子商店からの誘いは?」

「来ている。保留にしてある」

 短い会話を織り成す両者の言っていることのほとんどを理解出来はしなかったが、私のことを話しているということは分かった。

 保留にしてある、いう言葉で一区切りが付いたのか、橙色の生き物は灰色の彼から私へと視線を動かす。またも朽葉色くちばいろの目玉がぎょろりと動き、その後、私を見定めるようにしてじっと動かなくなる。同調するかの如く私もまた動けなくなり、呼吸音すら殺すようにして佇む他なくなる。

 しばらくした後、とりあえず奥に座って、と淡々と言い放ちながら橙色は引っ込んでしまった。その後を灰色が追う。ぽかんとしてしまった私を急かすように、灰色の彼が私を呼ぶ声がする。私は未だ理解の追い付かない頭で足を動かし、座敷へと上がった。

 中では囲炉裏を囲むようにして正面に橙色、その左隣に灰色がきちんと座り、両者共私を見上げていた。いつの間にか灰色の彼の目が開かれている。

 ぱち、と火の弾ける音が響く。橙色の彼の正面位置に私が座ると、早速だけど、と橙色の彼が切り出した。

「君はこれからどうしたい?」

「どう、って言うと」

「たとえば、菓子商店で働きたいとか、他に此処で何かをしたいとか。何でも良いんだ。願望は無い?」

「願望」

 私がなぞるように言葉を繰り返すと、うん、と橙色の彼が頷く。

「菓子商店で働いてみるのも面白そうだなと思ったが……」

 私は、そこでちらりと灰色の彼の方を見る。珍しく開かれている彼の闇色の瞳が私を捉えてはいたが、その表情からは何も窺うことは出来なかった。私は橙色の生き物へと視線を戻す。

「そう思う反面、あまり乗り気になれない自分もいる。彼が、あまり良い顔をしなかったこともあって」

「けれど、あの店で働いてみたいと少しでも思う?」

「ああ、少しは。女主人が言っていたのだが、この町のことが分かって行くかもしれないと勧められた。確かに私は此処のことをまだ良く知らないし、良い機会なのかもしれないとも思う」

「ちょっと早いかな」

「え?」

 不意に話が見えなくなり、私は聞き返した。


第四章【樹形図】5



「既に二だからな。その次へは私が止めた」

「止めた?」

「そうだ」

「よっぽど気に入っているんだね」

 不可思議な生き物の間で不可思議な会話の応酬が始まる。

 私は二者を交互に見た。彼らには分かっていることが私には分からない。それによる焦燥のようなものが不安定な心情を誘う。

 私は、もう少し分かりやすく言ってくれないかと、幾度か灰色の彼に告げたことのある言葉を口にした。すると、橙色と灰色の二者の間で交錯していた視線が突然に此方に向けられたので少なからず私は驚き、口を噤んだ。

「知っているかもしれないけれど、あまり詳しくは言えない。それでも此処では幾らかはましなんだ。そういう事情を承諾してくれるなら危険を承知で僕は話すよ。聞く?」

 橙色の彼は心なしか体を右側に傾け、まるで私の返答を待つかのように二度程、目蓋をぱちぱちと動かした。私が、是非とも話してほしいと言うと、分かったと返し、彼は元のように体を直した。

「一応、自己紹介をしておく。僕の名前は朽葉くちば。仮初めのようなものだけれど、もう本物になりつつある。名前なんかは個を識別する為の記号のようなものだから何でも良いのだけれどね」

 朽葉くちばと名乗った彼は、いつか灰色の彼から聞いたことと似たような内容を口にした。

「さて、本題に入るけれど。さっき、君はあの菓子商店で少なからずも働いてみたいと言ったね。この町のことが分かるかもしれないと」

「ああ」

「まず、それが間違いだ。いや、正解や間違いというものは個々によって異なるもので、一概に僕がどうこう言えるものでは無いのかもしれないけれど。僕にとって間違いであることも君にとっては正解かもしれない。また、僕は彼寄りの存在だからね。どうしたって彼の考えを尊重したくなる」

 言葉を切り、朽葉は灰色の彼を一度見た。そして再び、私を見つめる。

「具体的に判じる為に一つ尋ねる。君は、此処にいたいのかな」

「此処に?」

「そう、此処に。この町に。此処で暮らす為に此処のことを知り、此処での生活の手立てが欲しい。ゆえに、菓子商店で働いてみたい。これについての正誤が知りたい。今、言ったことの中で君の心情にそぐわないことは?」

 私は漠然と思考する。そう、漠然とだ。朽葉の言ったことについてゆっくりと考える。其処には間違いと言い表すべき間違いは無いように思えた。その実、正解と言い表せる正解は無いようにも思える。

 つまり、私は私自身についてこうだと言い切る自信と、その為に必要な根拠となるべきものが無いのだ。愕然とした。

 だが、この感覚には覚えがあった。私が私について、或いはこの町について考えを巡らせると記憶にある限りでは毎回、こういう状態に陥る。考えるべきは溢れる程にあるというのに、その内の一つとして私は考えをまとめることが出来ない。そして、出来ないままに終わり、時間が経過する内に私は考えることをいつしか放棄する。

 思うに、私は生来このような性格だっただろうか。その自問には否と答えられる。だが、何故にこうなってしまっているのかは全く分からない。考えを形と成すことの出来ない自分自身の正体が分からない。それはひどく不安で、ひどく悲しいことだった。加えて、とても頼りの無い心持ちになる状態だった。

 底無しの沼にぽつりと浮かび、見えない足元からじわじわと沈んで行くことを知りながらもどうにも出来ずに其処にいる。そんな私の様子が目に浮かぶ程に。

「何か、おかしいと思わない?」

 不意に声が響く。私が知らず俯いていた顔を上げると、朽葉が美しい瞳で私を見ていた。


第四章【樹形図】6



「先にも述べておいた通り、詳しくは言えないけれど。今、君は考えていた筈だ。僕の言ったことについて、自分の心情について。けれども考えがまとまらない。まとまらないばかりか、自分が何を望んでいて何を望んでいないのかも良く分からない。違うかな」

 それは、まさにその通りのことだった。私の思っていた通りのことであった。半ば反射的に頷き、私は身を乗り出す。どうして私のことが今日会ったばかりの彼に分かるのか、私は不思議でならなかった。

  同時に、こいねがう気持ちでもいた。もう「分からない」ことは耐えられなかった。いや、また少しずつ時間が過ぎて行けば、少しずつその感情すら削ぎ落とされて行くのであろう。そう、その予感にも耐えられなかった。

 私は私が本当に望んでいることを知りたかったし、本来の私を取り戻したかった。それを自分の手で行えないことは悔しいが、そんな些末さまつな思いに捉われている場合では無いように思えた。何もかもが霞んでいる中で、焦げ付くような焦燥だけが今という時間における限定事として内に存在している。私はこの熱を取り逃がしてはならないと強く認識していた。

「この町に対する疑問、自分に対する疑問。そういう不透明なことだらけの中で、考えるべきことの多くある中で、唯一選び取ることが、あの菓子商店で働くことというのはどう考えてもおかしなことなんだ。勿論、分からないことが見えて来るかもしれないという期待が菓子商店にあるのは分かる。

 けれど、それは誘導された結果であって本来の君自身が進んで望んだことでは無いし、もっと言ってしまえば望むべきことでも無い。深く思考することは出来ないかもしれないけれど、考えてみて。疑問だらけの現状に放り出された時、何度か足を運んだだけの店で仕事をしようなどと思えるだろうか。僕ならそうは思えない。僕なら、こう思う。どうして自分は此処にいるのだろうかと」

 ――ドウシテジブンハココニイルノダロウ。

 その十七つの音が、それぞれにくっきりとした輪郭を持って光の粒の如き形を取る。それらは確かに私の身の内側で誇張され、主張された。そして音が再構成され、元の形に戻った時、私は長い夢から覚めたような心持ちになった。

 だが、それはあくまでも心持ちに過ぎない。肝心なことはまだ分かってはおらず、私自身、具体性のある真実を掴んだとは思っていないのだから。しかしながら、それは此処に来て初めての感覚であり、好機であると思えた。見えては隠れ、見えては隠れを繰り返す何がしかの尾の先に触れた。それぐらいには思えていた。

「おい、朽葉。少し話しすぎる」

 はっとして私が声のした方を見ると、幾分か渋い表情をした灰色の彼が朽葉を見遣っている。そこで私は、あまり詳しくは言えないということ、話すことには危険を伴うということを朽葉が告げていたと今更ながらに思い出した。

「仕方無い。これぐらいは言わないと難しいと思う。それに今日は三日目の雨だ。いい時機だよ」

「そうだ、その三という数字。何か意味があるのか? 確か彼も言っていた。完全トーティエント数とか……」

 私は今まで何度か気に掛かっていたことを尋ねた。どうも三という数字には何かしらの重要な意味があるように思えてならなかったからだ。勿論、私自身の考えでは無く、灰色の彼の考えに導かれたからに他ならないが。

「三は最小の完全トーティエント数。まあ、それ自体にはあまり意味は無い。完全云々は三という直接の呼称を避ける為に用いているだけなんだ。言わば、忌み名や隠し名のようなものだね。

 それで、三という数字には古来から様々な意味があってね。たとえば、物事の成り立ちとか物事が複雑化する象徴であるとか。色々な捉え方がある。此処では特に、そういう意で使われているんだ。つまり、物事の成立、或いは複雑化。或いは、反転」

「反転?」

「そう。もしくは現実化。この町では三という数字、回数が極めて重要な位置にある。君がそれを手にしてしまうと、君はもう此処を現実にするしかなくなるんだ。僕らのようにね」


第四章【樹形図】7



 その時、不自然に雨風の音がひどく増したように思えた。それはどうやら気のせいでは無かったらしく、朽葉と灰色の彼の両者も周囲に目を動かせた。

 しばらくの間、沈黙が守られ、私を含む誰もが緊張の色を濃くしていた。そのように映った。ややあって、朽葉が静かに腕と思われるものを伸ばして囲炉裏の中へと入れた。微かに灰が舞う。火の点いた炭が見える。そこへ手を入れるなんてと思い、私が制するよりも早く朽葉は言った。

「こんなものでも無いよりはましなんだ。気休め程度かもしれないけれど、少なくとも此処には誰も入ることは出来ない。原理は僕にも良くは分からない。獣は火を恐れることから由来しているのかもしれないけれど、幾ら長くいても分からないことは多くあるし、次々と疑問や疑念は生まれる。この場所を知り尽くしているのは女主人くらいかもしれない。あとは、あの白猫かな。ちなみに僕らはあいつが嫌いなんだ」

 がさがさと囲炉裏の中を掻き混ぜていた朽葉は不意に手を止め、ちらりと灰色の彼を見た。まるで同意を求めるように。対する灰色は、何とも言えない顔で黙ったまま、囲炉裏の中心から視線を動かさなかった。そして一つ、長く細い溜め息をついた。

「お前は本当に話しすぎるな」

 そう言い、灰色の彼は寒さを堪えるかの如く体を震わせた。

 そして、

「だから、あまり気乗りはしなかったんだ」

 と付け加えた。

「別に誰彼構わずこうじゃない。他ならぬ君が気に掛けているというからこそ僕は話しているんだ。勘違いしないでほしいな。僕だって自分の身は可愛いさ」

 朽葉は心外そうに告げて囲炉裏から手を引く。灰を払うように何度かその細い手を振るうと、ぱさぱさと粒子が宙を舞い、落ちた。

「ええと、何処まで話したかな。三という数字についてだったかな」

 私が同意すると、そうだよね、と朽葉は満足そうに頷き、続きを話し始める。

「つまり、此処にいたいなら三を超える。此処にいたくないなら三を超えてはならない。そういうことなんだ。ただ、その判断を付けることはほとんど自分では不可能だ。大体の者が押し流されるようにして三を通り過ぎてしまう。気付いた時にはそれはもう遥か後方で、どれ程に戻りたいと思っても戻れない。そうして、やがては喰われてしまう」

「おい、喰われるとはどういうことだ?」

 物騒な言葉に私は慄きながら尋ねた。すると朽葉は何でも無いことのように全く声の調子を崩すこと無く、そのままの意味だよ、と言った。

「食事にされてしまうのさ。勿論、しばらく使われた後でだけれど。この辺りは今のところ詳細に話す必要はないから割愛するね。と言うか、僕の知っていることで、かつ、話せることを些末さまつな事柄も含んで全て語ると夜が明けてしまう。いや、夜が明けても語り終わらないかもしれない。とにかく、必要最小限だけを伝える。樹形図が分かりやすいかな。少し待っていて」

 言い置いて朽葉はふわりと宙を舞い、部屋を出て行く。あとには何を考えているのか全く読み取れない無表情とも言える灰色の彼と、与えられた情報を取りまとめることで精一杯の私が取り残された。


第四章【樹形図】8



 灰色の彼は何も言わず、語らない。加えて、先程から囲炉裏の中央をじっと見つめたままだ。それに、此処へ来てから彼が発した言葉の数はとても少ないように思える。私には彼の考えていることなど分からない。それでも、どうしてか彼の心情は分かるような気がした。それがたとえ、全体の内のごく小さな砂粒のような質量だとしても。

「なあ、もし見当違いだったら悪いが。朽葉が語ることによって朽葉は身を危ぶめていて、それをお前は心配している。違うか」

 すると傍目にもはっきりと分かる程、彼は身を震わせた。見ている所は依然として囲炉裏の中央から変わらないし返って来る声も無かったが、それが何よりも彼の答えであるように思えた。私は慎重に言葉を選び、話した。

「朽葉はお前の友人なんだよな。はっきりとは分からないが、お前達が何かを私に伝えて助けようとしてくれていることは、おぼろげながら分かる。それはとても……とても、嬉しい。うまくは言えないが、この町で私の助けと成り得るのはお前だけだと思っていた。そして今日、此処に来てからはお前と朽葉になった。それ以外の人間や他の生き物からは、得体の知れないものを覚えるだけで、たとえばこの町の疑問を尋ねるとか、そういったことは出来そうに無かった。

 さっきの朽葉の言葉を借りるなら、誘導されているとでも言うのかな。私の本意をうまく覆い隠して遠く遠くへ運び、代わりに自分達の――菓子商店の女主人や売り子の意思を無理矢理にでも私に渡そうとして来ると言うか。それに私は気が付かないんだ、その時は。やがて違和感を覚えたり、違和感を無くしたりしている内にいつしか時間が経っていて、今日と明日の境目が滲んで分からなくなる。多くあった筈の疑問が知らぬ間に数を減らし、大きさを失う。

 それから、ここ数日の間が、まるで数年のような重さを持って私の中にある。それなのに重さばかりがあるだけで中身が伴わない。空虚だ。そのことに朽葉の放つ言葉を聞いていて気が付いた。もしかしたら他にも多くのことに気が付けるかもしれない。分からないことが分かり、知らないことを知り、何かが変わるかもしれない。今、そういう期待と不安の中にいるんだ、私は。

 正直に言えば、私は朽葉の話をもっと聞きたい。けれど、それによってお前が――たとえば友人を失うようなことになるのなら。朽葉が危険な目に遭うのなら。私は、もう充分だ。あとは何とか、自分でやって行くさ」

 最後の言葉は強がりでしか無かった。私はまだ、歩き出したばかりの赤子のような存在だ。情けないが、そう思う。この町での正しさも何も知らないまま、また此処で灯火を見失うようなことになれば、そしてまた時間が流れて行けば、元の木阿弥もくあみになってしまう可能性は否めない。

 だが、私が此処まで辿り着くことが出来たのは、ひとえに灰色の彼と朽葉の厚意に他ならない。本音を言えば、結末まで導いてほしいという心情はある。何しろ、自分でどうにかするにも限度がある事態だ。いや、限度があった所でその全体容量の一割にも満たないかもしれないのだ、私の努力は。

 しかし、それは私の事情であり、彼らの事情では無い。また、彼らの立場や存在とでも言うものを危うくしてまで私がもやから抜け出す道理も無いのだ。

 彼らには彼らの事情や状況が有り、私には私の事情や状況が有る。それだけのことだ。そのバランスを崩してまで、どちらかがどちらかを助けねばならないという決まり事など無いし、義務も無い。私は本当に感謝していた。灰色の彼と朽葉の両者に。だからこそ、留まるべき所をきちんと見極めておきたいのだ。


第四章【樹形図】9



「当たらずとも遠からず、という所だろうな。何、お前に助力することは私の意思であり、それに朽葉は同意してくれた。つまり私達の意思だ。それをお前が気に病む必要など無い。だが、気持ちは受け取っておく」

 私が返すべき言葉を探している間に、ふわふわと文字通り空中を舞い朽葉が戻って来た。

 そして元の位置に音も無く座ると、手と思しきものに持っている巻物のようなものを板間の上に、ことんと置く。それは朱の紐で綺麗に括られていた。朽葉は黄丹色おうにいろの手でそれをしゅるりと解き、ゆるゆると広げて行く。

 虫喰いもなく全く劣化を感じさせない白い紙の上には、まるで今書かれたばかりのような濃い色合いの墨で線や文字が記されている。私は無言のまま、それを読んだ。

 私が最後まで読み終える頃、朽葉はとうに全てを広げ終わっていて、板間の上には白い帯が目を刺す輝きを放っているような錯覚を伴って横たわっていた。

「分かるかな。かなり要約されてはいるけれど、つまりはそういうこと。今、君はおそらくこの辺りにいる」

 朽葉が、その細く温かそうな手で紙の上の一部をすとんと指す。

「そして、個々人によって筋道は異なるけれど、とにかく紆余曲折を経て多くの生命はこれらを辿って行く。辿らされている、と言う方が正しいのかもしれない。丁度、今の君のようにね」

 黄丹色おうにいろの手は、緩慢に紙上を動いて行く。そこには墨で描かれた線が数多くある。まるで雲海の中を伸びている大樹の枝々のように。それらは幾つにも分岐している。分岐ごとには小さな文字で注釈が記されていた。

「どの道を行こうとも最終的に辿り着く所は決まっているんだ。つまり、此処」

 朽葉は淡々とした口調で語る。それと同じ調子で、とん、と最後の地点を示す。注釈には、無、と一文字が書かれているのみ。私は、その文字から目が離せなくなる。それを感じ取ったのだろう、朽葉が補足するように語った。

「無。これが、僕達と君がいる町。此処の町のことだよ。まだ本当の意味では君は辿り着いていない町。僕と彼は既に辿り着いて久しい町」

 一度、言葉を切り、朽葉は灰色の彼の方をちらと見遣る。私がその視線を追い掛けると、未だ灰色は囲炉裏の中央を無感情とも言える様子で見つめ続けていた。

「大丈夫。君はまだ戻れる。簡単なことだよ。何事にも道筋というものが存在する。君が本来の意味とは異なっても、とにかく此処にいるという事実がある。つまり必ず、辿った道があるということだ。それを正しく戻るだけだ。振り返るだけ。君が戻りたいのなら」

 ――振り返る。私は、朽葉の言葉でようやく合点が行った。灰色の彼が幾度も私に向けて繰り返した言葉、振り返れ、というもの。それは、こういうことだったのだ。経緯を振り返り、此処に来た道を入口目指して辿り、帰る。元いた場所へ。

 確信は無かったが、再度、私が灰色を見るとかちりと目が合った。それは先程に見た無感情の瞳では無く、夜空に浮かぶ冴え冴えとした月のような輝きを湛えたものであった。私は、その美しい目玉に確かに強い肯定を見た。

「そういうことだ」

 灰色の彼が短く告げる。そして一度、その両眼を伏せた後、再び彼は私を正面から見た。

「こちらにも色々と事情なり制約なりがある。遠回しになっていたことについてはすまなかった。とにかく、こうしてある程度は見えて来たものがある。その上で問いたい。お前は、どうしたい?」

 宵闇のような深く黒い目が細い月を抱いて私を見ている。傍では、朽葉が巻物を戻しているのだろう、しゅるしゅるという音がしていた。雨風の音は先からずっと続いている。それはまるで私の背を押し出すようにも今となっては聞こえた。

「私には欠落しているものがある。振り返ってみても、何処に戻れば良いのかも分からない。それでも私は、戻りたい。正直な所、この町には得体の知れない影があると感じる。それが私は今、心底から恐ろしいんだ。二人には良くして貰ったのに申し訳無いが」

 灰色の彼が、緩くかぶりを振った。

「そんなことは気に病まなくとも良い。元より私は、お前がそう告げることを望んでいた。これは私個人の希望に過ぎないから今まで言わずにいたが。加えて、決まり事に掛かることだから言えずにいたというのもある。とにかく私は、必ずお前をこの町から抜け出させてやりたい」

「うん、それが良いよ。君にはまだ有が感じられる」

 ゆう。朽葉は、そう言った。

「言わば、僕達は無なんだ。無が有を気取っているものの集まり、それが僕達であり、この町そのものだ。君は有だ。いつかは一切の有が無に転じる。それは大昔からの約束事で自然なこと。でも、此処には歪められて辿り着いた者がほとんどだ。おそらく君も。歪んだら正せば良い。歪みに屈して無になる必要も理由も決して無いんだ」

 そう言って朽葉は朱の紐で巻物を綺麗に括り、両の手でそれを胸の辺りに携える。朽葉は心なしか俯いていた。

「今日は此処に泊まると良いよ。もう遅いし、ひどい雨だ。明日の朝方には止む筈だから。そうしたら仮宿に戻って、振り返るんだ。おそらく流れというものが君を最終地点まで押し流そうとする。元へ帰りたいのなら、それに従ってはいけないよ」

 そこで再び朽葉は私を見た。自身の名前と同じ字を冠する朽葉色の瞳は、私の姿を通り越し、見える筈の無い明日や、それ以降を遠く見つめているように思えた。



 ――その夜、私は板間の隅に布団を敷き、眠った。囲炉裏を挟んだ反対側には灰色の彼と朽葉が、まるで寄り添うように並んでいた。薄暗闇の中に浮かび上がるその二つの姿はどうしてか私の胸を強く打ち、朝になっても変わらないそれらが明かり取りの窓から差し込む微かな陽光に照らし出されているのを見た時、突き上げるような、いわゆる郷愁とでも言うべきものが確かに感じられた。

 そして、私にも、私の傍らに寄り添ってくれていた誰かがいたのだろうかと、覚醒し切っていない脳裏の一部で考えていた。一瞬、菓子商店の売り子の少女が浮かんだ。店を辞めたという彼女は今、何処でどうしているだろう。

 やがて陽が昇り、その光が勢いを強める頃、灰色と朽葉の二人は目を覚ました。私は心からの礼を告げ、灰色の彼と共に貸し本屋を後にした。

 今、私が戻るべき所、仮の住まいに向けて歩き出す。隣には灰色の彼がいる。三日間続いた昨晩までの雨も風も嘘のように止み、朝の清浄な空気の間を泳ぐようにして太陽の光が輝きを主張している。

 私達は互いに無言のまま来た道を戻って行く。その間、去り際、朽葉がぽつりと洩らした言葉が私の脳味噌を揺らすように廻っていた。

 ――君に貸した本は僕が書いたものなんだ、もう遠い昔にね。綺麗な朽葉色の装丁だっただろう?

 彼は言っていた。朽葉という名は仮初めのようなものだと。

 ――とうに本当の名前は忘れてしまったからね。朽葉という名を瞳の色から自分で付けたんだ。さびしい字を書くけれど存外、気に入ってね。装丁にも使ったというわけなんだ。

 彼は、何処か影のように苦く笑った。

 ああ、そういえば。私の名前は何だっただろうか。


第五章【対峙】1



 晴天。三日の雨を終えた空は高く遠く晴れ渡った。早朝、私はその色と空気を目に収めてから軽く眠りを取り、今に至る。灰色の彼はいつもの定位置、板間の右奥の片隅で未だその両眼を閉じ、微動だにしない。起きているのか眠っているのか良く分からなかった。

 私はおもむろに家屋内を見渡す。さして多くの時間を此処で過ごしたわけでは無いのに、何処か懐かしさを覚えるのは何故だろう。或いは元の私の家もこのような造りなのだろうか。

 そんなことを考えながら、私は座布団を引き寄せ座り込む。そのまま天井へと視線を向ける。暗く沈黙した木の板や渡されたはりが映るだけで、取り立てて変わったことは無い。

 そう、此処では何も変わったことなど無いのだ。立ち並ぶ家々、行き交う人々。そして町の中心と思われる位置に存在する菓子商店、その生業なりわい、其処にいる人とあやかしのような猫。あやかし。自分で思い、私は今、唐突にその言葉がしっくり来ると改めて頷く。

 もう一度、灰色の彼の方へと目を遣ってみても、彼は今も先と変わらぬ姿でまるで置物のようにして静かに其処にいた。呼吸の音すら聞こえない。距離のせいだろうか。

 だが、それを差し引いても、およそ生物の息吹というものを彼からは感じ取りづらい。どうしてだろうか。たとえどんな姿をしていようと――それがまるで座布団のような猫のようなものに見えようとも――人の言葉を解し操る彼は間違い無く生きている筈なのに。それが少しばかり奇妙に見えるのは確かだが、灰色の彼も朽葉も生きていることは明らかだ。死人は口を聞かないのだから。

 昨日、朽葉は言った。僕達は無なんだ、と。無が有を気取っているものの集まりだ、と。そして私のことは、有だと。無と有。その違いは一体何だろう。

 私は再び灰色の彼から天井中心へと視線を移し、疑問の答えを探る。だが、分かる筈が無いのだ。此処に来てから考えがしっかりとまとまったことが一度も無い。柔らかな泥沼の奥深くへと沈み行く硝子のかけらを追うようなものだ、喩えるならば。

 それでも、昨夜の朽葉の言葉はそれぞれにかけらとなり私の脳内をひどく緩やかに、ぐるうりと廻り続ける。それは回転灯篭かいてんどうろうのようなもので、見ている内に私は何かを思い出せそうな郷愁とでも言うべきものを覚える。

 しかし、誰より私自身が良く分かっている。誘う郷愁は、ただそれだけのものであり、私にとって劇的な変化を思考や心情にもたらすものでは無いと。心地の好い、ぬるま湯に全身を浸しているようなものに過ぎないと。そして私には最早――或いは最初から――思い出せる、思い出すべき故郷の記憶が自らの内に無いことを知っていた。

 此処へ来て最初の間、私は何度、灰色の彼に名前を尋ねただろう。そのたびごとにはぐらかされてしまったので今でも私は彼の名を知らない。しかし、私はもう彼に名前を尋ねることはしないだろう。たとえ何かの気紛れで彼が私の質問に答えてくれた所で、私はそれに返すだけのものを持たない――つまり私は私の名前をいつの間にか忘れてしまっていることに気付いてしまったのだから。

 故郷も、自分の名前も知らない、思い出せない。それは普通なら恐ろしいことだろう。ある筈のものが胸中に無いのだ。失ったものを取り戻したいと考えるのが自然なことではないだろうか。しかしながら不思議なことに、私は今の自分の状況に恐怖は覚えていないのだ。理由は分からない。ただ、帰るべき場所があったこと、自らを表す名があったこと、それが今、記憶の中には存在しないこと。そういった事実のみが現実として私を包んでいる。それだけだ。

 ――お前はどうしたい?

 ――振り返ってみても、何処に戻れば良いのかも分からない。それでも私は、戻りたい。

 ――おそらく流れというものが君を最終地点まで押し流そうとする。元へ帰りたいのなら、それに従ってはいけないよ。

 時間にして何時間前の会話だろうか。然程の時は過ぎていない筈だ。それなのに何処か遠く感じられる。私を含む三者の声が狭苦しい私の脳味噌の房室の一つを占有し、いつまでもいつまでも降り止まぬ雨のように楕円を描き、廻り続ける。

 いや、雨は止んだのだ。私は背後を振り返り、玄関引戸の向こう側で降り注いでいるのは雨雫ではなく陽光であることを確かめる。そう、今は晴れている。私の思考は今一つ要領を得ないようだ。自分でもそれは分かるのだが、その軌道修正が叶わない。私は今、何を考えていて何を考えるべきなのか?

 ――お前はどうしたい?

 灰色の彼の言が今一度、強く響く。


第五章【対峙】2



 その時、それよりも強い音を以て引戸が二度、叩かれた。振り向くと、誰かが立っている影が見える。応対すべく私が立ち上がり掛けた時、待て、と静かな声が後ろから聞こえた。見るまでも無く、その声の主は灰色の彼だろう。

 私の思考を肯定するかのように、彼はいつものようにふわふわと床上僅かの高さを浮遊し、私の隣に並び立つ。そして、引戸へと向けて言い放つ。何用だ、と。それはまるで訪問者が誰であるか分かっているような口調であった。

「ご挨拶だね。わざわざ丁寧にも来てやっているというのに」

 返された声は女性のもの。記憶に違いが無ければ菓子商店の店主であろう。

「頼んだ覚えなど無い」

「本当に失礼な奴だよ、お前は」

「用件を言え」

「粗雑な物言いだね。まあ、良い。私はお前の同居人に話があるんだ。いるんだろう?」

 同居人。それは私のことだろう。私は、ふと彼の方を見る。彼もまた私を見上げている。その瞳は髪の毛一本分程に細く細く開かれていた。

 灰色の彼は私から戸の方へと向き直り、仕事の話なら間に合っている、と威圧すら感じられる声音で告げた。すると同様、威圧を込めた声が戸の向こう側から返される。

「間に合っている? おかしな話だね。此処で働く者はほとんどがあの店で職を持っている。同居している御仁は未だ菓子商店で働いている様子は無いし、他の何処かで働いているのかい?」

 そんな話は聞いていないが、と付け足して。

 沈黙が生まれる。戸の向こうの影が僅かに揺れる。それはこちらの出方を待っているようにも見えた。

 私は知らず、冷や汗が流れる。まとまらない思考の中でも、これだけは分かる。覚えている。三という数字を超えてはならない。

 私は二度、あの商店の中で売り子の少女に自らの記憶とでも言うべきことを話した。あと一度で、三に届く。それを止めてくれたのが傍らにいる彼だ。名前も知らない、灰色の座布団のような容姿をした彼。

 私は彼に助けられたのだ。そして、理屈ではうまく説明出来ないが、昨夜の会話の断片を少しずつ思い出しながら散っている思考をまとめると、やはり私が菓子商店で働いてみても良いかもしれないなどと思うことは何処かおかしいのだ。たとえ私に帰るべき場所が無くとも。私はもっと疑問に思って然るべきなのだ。私が今、此処にいることに。

「彼の働き口は既に決まっている。無駄足だったな、店主」

 しばらくの沈黙を破り、灰色の彼が驚くべき言葉を口にする。私は思わず、弾かれたように彼を見た。彼の目は正面を捉えたままだった。

「決まっている? 何処にさ」

 またも沈黙。すると鼻で笑ったように戸の向こう側の人物が告げる。

「出任せは止すんだね」

「出任せでは無い」

「なら、お言いよ。何処で働くというのさ。この町の菓子商店以外の一体、何処で?」

「本屋だ」

「本屋?」

「ああ、話は付けてある。ご足労だったな。お帰り願おうか」

 少し経って、引戸の向こうで微かに砂利の音がした。

 やがて、その音が連続して生まれ、次第に遠ざかって行く。菓子商店の方角へと歩いて行ったようだ。その音が完全に聞こえなくなってから、私はほっと一つ大きく息を吐き出した。いつの間にか呼吸すら控えめになっていたらしい。余程、緊張していたのだろうか。それは彼も同じだったのか、細く長い溜め息とも取れるものを傍らで吐き出している。

 それが終わったと思いきや、彼は、では、そういうことだからな、と私を見上げて唐突に告げた。私が本屋で働くということだろうか。そして既にその話は付いていると? 寝耳に水である。その旨を告げると、今から話を付けて来るから此処で待っていろと彼は言い捨て、素早く引戸を開けてその隙間からひゅるりと抜け出て行ってしまった。

 しかし、彼はすぐに引き返し、良いか、誰が来ても開けるな、必ず施錠しておけと付け加えてまたすぐに出て行ってしまった。

 私はとりあえず彼の言葉に従い、戸を施錠する。そして元の通りに座る。

 あまりにも瞬く間に起きた出来事に半ば私は付いて行っていないようだ。少しばかり呆けている気がする。

 どうやら私は本屋で働くことになるらしい。本屋とは、昨夜に訪問した朽葉の経営する貸し本屋のことだろうか。失礼な話かもしれないが、昨日見た限りでは人手がいるようには思えなかったのだが……。

 とにかく、詳細は彼が戻ってからになるだろう。私は潔く思考を中断し、ごろりと寝転がる。板間の静かな冷たさが背中に心地好かった。


第五章【対峙】3



 ――いつの間にか、うとうととしたのだろう。気付くと外は夕暮れに染まっており、夕陽を受けて玄関引戸が赤く輝いている。遠くで烏の鳴き声が三度、聞こえた。

 私は軽く目を擦り、板間をぐるりと見回す。灰色の彼の姿はない。まだ帰っていないのだろうか。私は少しばかり心配になる。出て行った時、確か太陽はまだ高い位置にあった筈だ。それが今はもう暮れ掛けている。時間が掛かり過ぎではないだろうか。

 いや、彼と朽葉は親しいようだし、何か話でもしているのかもしれない。彼が朽葉の貸し本屋へと行ったのなら、という話だが。

 またも烏が三度、鳴く。その唐突さと鳴き声の高さが不意に私を掴むようにして不安にさせる。外は徐々にだが確実に赤を濃くして行く。私は、この色が好きではない。以前、菓子商店で語った話にもあった色だ。

 ――そして、この色彩は、あの生き物を思い出させるのだ。

 思い返すだけでも、ぞっとする。一体、あの生き物は何だったのであろう。山のように巨大で、金色の毛に包まれていた。そして、その毛が割れると、中は目を逸らしたくなるほど禍々しい猩々緋しょうじょうひに染め抜かれていた。私は、其処に見てはならないものを見たように思う。真夜中、自室の行灯あんどんの明かりと外の月明かりという微かな光の下でも分かる程の、恐ろしい何かを。だが、幾ら考えてみてもそれが何であったかを思い出せない。こういったことは今に始まったわけでは無い。此処に来てから、頻繁に起こっているように思う。

 私は、このように忘れやすい性質ではなかった筈だ。思考をまとめられぬ程に困ったことは数える程しかないと記憶している。

 しかし、此処では結論が見出せなくてまとまらないのではなく、まるで脳裏にもやが張り出すようにして考えるという行為を妨げられる。やがて細道を見失い、考えることを放棄させられる。そう、させられているのだ。妨げられ、放棄させられ。やはり、此処は異質だ。私は、此処にいてはならない。帰るのだ。既に何処とも知れぬ地となってしまった私の故郷へ。

 そこまでをどうにか考え抜いた時、またも烏が三度、声高に鳴いた。引戸の方を見ても、未だ彼が帰って来る気配は無い。戸は先程よりも深まった夕暮れの暗さを受けて、黒と赤の混じり合ったような不吉な色合いを見せていた。

 ――誰が来ても開けるな。

 灰色の彼の言が巡る。だが、あまりにも遅すぎる。私は、いよいよ心配になり、静かに鍵を開けて外を窺う。其処は夕暮れ時の町。誰の姿も見えない。彼の名を呼ぼうにも、私は未だ、その名を知らない。

 私は更に左右を見渡す。やはり誰一人、猫一匹、影も形も無かった。

 西の空には沈み掛けの血溜まりのような太陽が七割程、顔を見せている。それは、不気味にも私に笑い掛けているようにも見えた。こんなことを思うとは、どうかしている。

 私は一度、足元に目を落とす。思考する。朽葉の貸し本屋に行く道は強雨だったが、翌朝の帰途は良く晴れていた。大体の道筋は覚えている。

 私は顔を上げた。外に一歩、踏み出す。僅かの音を立てることすら躊躇う程に静まり返ったこの町が、私はとても恐ろしかった。静寂に気付かれぬように引戸を閉めて施錠する。私は灰色の彼を探しに、朽葉の貸し本屋まで行ってみることにした。


第五章【対峙】4


 ――夕陽に染め抜かれた風景を、こんなにも空恐ろしいと思ったことは私はかつて一度も無い。自分以外に誰の姿も見えない、家屋ばかりの町並みはひどく殺風景で、人の住んでいる気配も感じられなかった。それなのに誰かに見られているような、ひどく落ち着かない気持ちに私はさせられる。

 ただ一心に静謐せいひつを守り続ける町の中、私一人分の足音だけがいやに大きく響いていた。時々、歩きながら辺りを見回す。それは道順の確認と言うよりも、無意識的に覚えていたらしい警戒心の顕れであったようだ。

 細い道を進み、幾つかの角を曲がる。そうして歩みを進める内、おそらくはもう少しで朽葉の貸し本屋に辿り着くのではないかという所まで来た。私は自分の記憶に感謝しながらも、目の前の曲がり角を右へと折れようとした。

 その時、背後で不気味な聞き慣れぬ音が響く。ずずず、という何か重い物を引き摺り歩くような音。瞬時に、振り返るべきか否かという二つの選択肢が閃く。私が選び取る手をどちらへ伸ばすか迷っている間、またも同様の音が背後で聞こえた。私は考えるよりも早く、視線を左へと動かす。それだけでは勿論、背後は見えない。

 意を決して、恐怖からの緩慢な動作で私は後ろを振り返る。其処には、いつか見た山のような生物と思しき金色の塊がそびえ立っていた。私は自身の目の高さから、ゆっくりとそれを見上げて行く。巨大な金色は、ただ其処にじっと佇んでいるだけならば――加えて遠目からであり、此処が町の中でなければ、単なる山の如し物として見る者の目に映るであろう。

 だが、それは一定間隔で町の中を進んでいる。こうしている今も、私の目前で右から左へ向けて前進している。そのたびごとに生じる、地の底が震えるような音が振動を伴い私に伝わって来る。両足が、動かない。視線は、追い掛ける。

 ややあって、私は弾かれたように正気に返った。此処から住まいに戻るよりは朽葉の貸し本屋を目指した方が近いだろう。目の前の路地を右に曲がれば、確かもうすぐの筈だ。

 私は素早く其処まで思考を築くと、静かに一歩、右方向へと進んだ。ほとんど音は立てずに済んだ。しかしながら金色の生物は不意にぴたりと動きを止めた。それは次の前進動作までの間であるのか、或いは私の存在に気が付いたのか。前者であってくれと祈る私の背には冷や汗が滲んでいる。思わず生唾を飲み込む。

 切願に反し、その得体の知れない生物は首のような部分をぐるうりと此方へ向けて動かした。顔は無かった。けれど、分かる。私の背丈の何百倍もある生物が、私を見ている。その恐怖と、圧倒。私の両の手が、足が震え始めた。

 何かを言おうとしたのか叫ぼうとしたのか分からないまま、私の口が開く。すると、まるでそれに呼応するようにしてその生物に両眼が生まれた。ぐぐぐ、と目蓋を押し開けるようにして開眼して行く。隙間から、鳩の血のような濡れた赤が覗く。

 私の知らない所で私は悟ってしまった。もう、駄目だと。だが、背後で聞こえた何かが小さくぜるような音に私の意識が傾く。


第五章【対峙】5



「愚か者が! 何をしている!」

 緊迫に満ちた、しかし聞き慣れた声に私の心の緊張が少しばかり安らぐ。誘導されるように振り返れば、其処には灰色の彼が手に松明たいまつを持って浮遊していた。その隣には、やはり同じように松明たいまつを持った朽葉がいる。私が何か言うよりも早く、朽葉が告げる。

「早く、僕達の後ろへ」

 震えながら地面に立つ両足を何とか動かし、私はその言葉に従う。彼ら二者の間から改めて見上げた先では、開きかけている血染めのような目玉が尚も此方をじとりと見つめている。

 しかし、それ以上に目蓋が開こうとしている様子は無かった。灰色の彼と朽葉が、それぞれ手に持っている松明たいまつを金色の生物に見せ付けるように高く掲げる。すると、赤い目玉の面積が少しだけ減少する。金色の生物は先程よりも細い目で私達を捉え続けていた。

「朽葉、こいつを連れて先に行け」

 灰色の彼は前方を見たまま、ぼそりと言った。

「……分かった」

 朽葉は答え、付いて来て、と私に向けて言う。私は一度、朽葉を見た後、灰色の彼を見遣る。

「早く行け。私もすぐに向かう」

「さあ、早く」

 両者から急かされ、私は朽葉の後に付いた。灰色の彼は松明たいまつを掲げたまま金色の生物に僅かに近付いて行く。私は先のように何かを言おうとして口を開くのだが、言うべき言葉を見失う。その背に、何を言えば良いのか。

「早く」

 朽葉が先程と同じ言を焦燥を強めて放つ。

 結局、私は灰色の彼に何も言わないまま、その場を離れるに至った。先導するように浮遊する朽葉の後を追いながら、胸中に苦々しい悔悟かいごが広がって行く。

「……すまない」

 走りつつ喉奥から絞り出した言葉は意に反して震えていた。朽葉は振り向かぬまま、大丈夫、と一言告げる。

 朽葉の持つ松明たいまつは聖なる火のように煌々こうこうと燃え、いつの間にか暗くなり始めている辺りを力強く照らした。時々、ぜるような音が、ぱちぱちと耳に届く。それは内耳ないじの奥底にこびり付くようにして離れず、何処か警鐘のような響きを以て私を苛んだ。

 彼は、無事だろうか。いや、無事に決まっている。今まで彼の言に嘘は無かった。だから今回も例外無く、そうなるに決まっている。私は確証の無い自らの思考を真実と思い込みながら朽葉の後を駆けた。

 やがて、先日に見た少しばかり大きな平屋の家屋が見え始め、私は少なからずの安堵を洩らした。

「裏の井戸で火を消して来るから、先に入っていて」

 家の前まで来ると朽葉は早口に言い、家の裏側へと回って行った。

 私は言われた通り玄関戸を引き、素早く中に駆け込む。戸を半分だけ閉めて朽葉の戻りを待っていると思ったよりも早く彼は戻って来た。その手にある松明たいまつの火は消えている。彼は戸の隙間を器用に潜り抜けると、そのまま手早く戸を閉める。勢いが強かったのか、がたんと大きな音が生じた。続いて施錠の音が響く。

「おい、あいつが、灰色の彼が来るんじゃないのか」

「大丈夫、来れば分かる。それより君はどうして外に出たの。家で待つように言われなかったかな」

 ふよふよと綿のように浮かびながら、朽葉は若干の責める音を含んで問い掛ける。自らの名と同じ、朽葉色の二つの目がじっと此方を見据えていた。

「……言われていた。迷惑を掛けてすまない」

「どうして外に出たの?」

 問い掛けが重ねられる。私は、その真っ直ぐな目に耐え切れず、僅かに視線を外して答えた。

「あいつが、なかなか帰って来なかったから。心配になったんだ。だが、こんなことになった。私の責任だ」

 朽葉は黙して答えない。私は、先程からずっと気掛かりになっていることを尋ねた。

「あいつは、大丈夫なんだろうか」

「大丈夫、平気」

 予想外にも早く返された言葉とその内容に、驚きと安堵を覚えつつ私は顔を上げる。朽葉は、その美しい目を守るように一度だけゆっくりと瞬きをした。

「先日も話したかもしれないけれど、あの生き物は火が苦手なんだ。ああして対峙したことも今日が初めてじゃない。それ程回数は多くないけど、そのたび松明たいまつ行灯あんどんかで追い払って来た。此方が火を持っていれば襲い掛かって来ることは無いよ。だから今回も大丈夫。気にしなくて良い。それより、さっきのは本当?」

「さっき?」

「帰って来なかったから心配になったっていう所」

 朽葉は、今度は二度、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。

「ああ、本当だ。それが、どうか?」

「そうか、本当なんだ。良かった」

「良かった?」

 話が見えて来ない。加えて、先程の朽葉の言葉の中に気になる点があった。私はそれも含めて朽葉に尋ねようとした。


第五章【対峙】6



「あ、帰って来た」

 だが、朽葉は私の横を通り抜け、その細く短い手で玄関戸の鍵を開ける。そして戸を開く。

 開かれた先、濃い夕闇に染まる町の中を此方へ向けて真っ直ぐに飛んで来る者がいた。紛れも無い、灰色の彼である。私は安堵の溜め息を先程よりも強く吐き出した。飛び込むようにして灰色の彼が家屋内に滑り込み、再び戸は朽葉の手によって閉じられる。鍵も同様に。

「火は?」

「投げ付けて来た」

「怪我は?」

「無い」

「良かった」

「ああ」

 両者は短い言葉で会話を織り成す。一区切り付いたのか、朽葉は身を翻して奥の間へふわりと飛んだ。灰色の彼はそれを追うこともせず、だが、此方を振り向くこともせず、ただ沈黙したまま其処に浮かんでいる。

「その、すまない。迷惑を掛けて」

 私の謝罪の言葉にも振り返らず、微動だにしないまま彼は佇んでいる。

 外はいつしか夜に近い色へと変わり、明かりの無い土間も同様に薄闇に包まれた。怒り心頭といった様子でいつまでも口を開かない彼に、私は再度、謝罪する。それ以外、私に出来ることは何かと考えながら。

 不意に奥の間に明かりが灯った。ふわりと朽葉がやって来る。彼は私と灰色の彼とを見比べるようにして見つめ、首を傾げた。

「何をしているの、いつまでもそんな所で。上がったら?」

 それにも灰色の彼は返答しない。三者三様に黙したままの時間が過ぎ行く。それを破ったのは、低く静かな灰色の彼の声だった。

「何故、来たんだ」と。

 しかし私が答えるよりも早く、朽葉が代わりに回答を織った。

「あ、それはさっき僕も聞いたよ。君が心配だったんだって」

 ややあって、ようやく灰色の彼は此方を見た。薄暗がりの中でも彼の目玉は星を映し込んだ夜空のように、ぴかりと光っている。やはり彼は猫なのではないだろうかと、私は今、自らが置かれている状況とはまるで見当違いのことを思った。

「心配?」

 夜の空のような目が、ぎょろりと動く。私は頷き、短く肯定の返事をした。すると、彼は途端に奥の間の方へと一人でふわふわ飛んで行ってしまった。

「急にどうしたんだ」

 呟いた私の心情を助けるように朽葉が答えた。

「嬉しかったんだ、きっと。僕も嬉しい。ありがとう、ええと、そういえば君の名前を聞いてなかったね」

 心なしか柔らかく笑い、朽葉は丁度、私の目の高さの所まで降下して尋ねた。

 名前。思えば私も灰色の彼に幾度かそれを尋ね、幾度も知りたいと思った。だが、最早、私は名乗るべき自身の名前を持ち合わせていないのだ。いつ頃、失ってしまったのか。それすらも思い出せない。

 心中に拡散するものは悲しみなのか恐怖なのか。記憶にある限りでは私は自分の名を忘れてしまったことは今まで一度も無い。私は無理矢理に少し笑い、告げた。

「実は、忘れてしまったんだ」と。

 朽葉の美しい目は灰色の彼のものと同じように、薄暗闇の中でも何処かの光を受け取っているかの如く表面に水のような輝きを湛えている。其処に一瞬、驚愕の滲んだ動揺を私は確かに見た。だが、すぐにその色は消えて行く。朽葉は、ふさふさとした毛に覆われた短い手を私の頭に伸ばし、撫でるように動かした。

「以前に話したように、君は有だ。名前がなくても君は君。帰れる。その為に僕達がいる。さあ、行こう」

 朽葉は私を奥の間へと促す。私は後に付いて歩きながら、ありがとう、と伝えた。何てことは無いよ、という柔らかな音を含む返事がどうしようもなく温かかった。


第六章【再会】1



 結論から言えば、予想の通りだった。灰色の彼は朽葉の貸し本屋に、私を働かせる話をしに来ていたらしい。朽葉は既に了承済みで、早速、私はその翌日から仕事をすることになった。とは言え、朽葉の言うことには「大した仕事は無いよ」ということだった。ちゃんと説明しろ、と灰色の彼が促すと、考え考えといった様子で朽葉は幾つかの仕事内容を私に告げた。

 貸し本屋と言うからには本を借りに来る客の相手が主かと考えていたのだが、朽葉曰く「あまりお客さんは来ない」らしい。その中で私がすることは、客の相手、本の整頓と管理と修繕、掃除、だそうだ。しかし基本的に暇なので、空いた時間は読書なり何なり好きなことをして良いと。そんなことで良いのだろうか。私がそう聞くと、「良い」という返事が返された。店主である朽葉がそう言うのだから問題は無いのだろうが、いささか腑に落ちない感はある。

 ――とにかく、今日は仕事第一日目である。気合いを入れて臨むべく、私は伝えられた昼より少し前に朽葉の貸し本屋を訪れた。

 戸を叩き、名前を名乗ろうとして私は言葉に詰まる。代わりに、灰色の彼の所から来た、今日から此処で働く者ですと告げる。開いてるよ、という朽葉の声を受けて戸を引くと、彼は受付台と思しき所でお茶を飲みながら桜餅を食べていた。

「おはよう、君も食べる?」

 その穏やかな内容と所作に私はどうも出鼻を挫かれた。

「いや、だから本当にお客さん来ないんだよね。あんまり」

 それが私の表情に出ていたのだろう、その後、言い訳のように朽葉は言った。

 本当だとしても店に入ってすぐの所でお茶を飲んでいるというのはどうなのだろうか。もしも客が入って来たら目に付くだろうに。

「君は甘いものは嫌い?」

「いや、嫌いではないが、そんなには食べないかな」

「そうなんだ。これは、然程甘くないけど」

 食べる?

 そう言って、朽葉は桜餅の載った小皿を此方へ差し出して来る。礼を言い、手を伸ばし掛けて、はたと私はそれを止めた。

 和菓子。途端に蘇る出来事の数々。菓子商店で、御代はいらない、その代わり話を聞かせてほしいと請われ、二度、それを受けたこと。そして和菓子を貰ったこと。

 はっきりとは言えずとも、あの菓子商店は何か異質だ。それは、商店内の店ごとに猫がいるとか、彼らも灰色の彼や朽葉のように人の言葉を操るとか、菓子を買うのに金では無く話で構わないと言われることとか、そういった表面的なことでは無い。勿論、それらも十二分におかしなことだ。だが、それ以上に何かがある。証はなく感覚的なものに過ぎないが、無視出来ないものだ。そのような場所で私は働こうとしていた。今になってようやく、底知れぬ恐怖を覚える。

「大丈夫だよ。これは、あの店で買ったものじゃないから」

 見透かしたかのように言い、朽葉は僅かに微笑んだ。少なくとも私にはそう見えた。灰色の彼もそうだが、朽葉もあまり表情豊かとは言い難い。それでも微かな変化はある。

 微笑んだまま、朽葉はもう一度、言った。食べる? と。今度こそ私は一つ、桜餅を食べた。甘さ控えめの餡と塩気のある桜の葉が丁度良く合い、それはとてもおいしかった。私の分も用意してあったのだろうか、すぐ其処に置いてあった湯飲みに朽葉が茶を注いでくれる。私がそれを飲み干すと、頃合を見て朽葉が味について尋ねて来た。



第六章【再会】2




「おいしかったよ。ありがとう」

「良かった。ええと、灰色の彼、だっけ。君はそう呼んでいたよね」

「ああ」

「彼から聞いているかもしれないけれど、此処では三という数が大事なんだ。もう君は二度、あの菓子商店で菓子を口にしているよね」

「そうだ。三度目の時は彼が止めてくれた」

「御代は君の話?」

「ああ。朽葉に言ったか?」

「いいや、大体はそういう仕組みだからね。それでね、もう二度とあの商店で菓子を食べたり君の話をしたりしないでね。君が戻りたいと望むなら」

 まるで今日の天気でも語っているかのような穏やかな様子で、さらりと朽葉は重要なことを告げる。

「三度、菓子を食べて話をすると戻れなくなるのか?」

「あまり詳しくは言えないけれど、そういうこと。だからこそ灰色の彼は止めたんだよ、君を」

 私は、あの時の彼の様子を思い出す。その剣幕の凄さをありありと脳裏に描くことが出来る程、確かに彼の態度は強く真剣だった。私は改めて彼に感謝した。

「それと、この間のことだけど。僕の書いた本を読んだなら分かるかな」

 その言葉に、私は灰色の彼が借りて来た朽葉色の装丁をした一冊の書物を思い出す。其処には体験記のようにして金色の生物のことが書かれていた。

「金色の生物のことか?」

「そう。今後も気を付けてね」

「ああ」

 もぐもぐと残り一つの桜餅を食べ、朽葉はお茶を飲んだ。

 しかし、こうしてまじまじと見ると本当に不可思議な生き物だと思う。耳と目の感じからするに猫のようにも見えるのだが、灰色の彼はそれを否定した。確かに普通の猫は人間の言葉は話さないし、座布団のような形もしていないし、宙を飛ぶことも無いだろう。だが、世には猫又という妖怪の話がある。それとは少し違うのかもしれないが、とにかく見た目を喩えるならば「猫のような」という形容が最もしっくりと来るのだが。

「何か用事?」

 見つめ過ぎたのか、気が付くと朽葉が私を見上げて軽く首を傾げるような様子を見せていた。何でもないと返すと、特に意に介した風も無く、朽葉はふわりと受付台から浮き上がった。

「じゃあ、あとはよろしく。滅多にお客さんは来ないけど、分からないことがあったら奥にいるから呼んでね。基本的には、この帳面に、貸し出す本の題と著者と、借りる人の名前を書いて貰えば良いだけだから。返しに来た場合は消してね。その時、本が傷んでないかも見て。料金は一律」

 そこまでひと息に言い、奥へと舞う朽葉。とりあえず掃除でもしていようかと、近くにあったハタキを手にして私が立ち上がった、その時。

「そうだ。一つ、頼み事があるんだ。帳面の一番後ろに書き付けてある本を探しておいてくれないかな。何処かにある筈なんだ」

 朽葉は思い出したように付け加え、私の返事を待つようにして滞空している。

「ああ、分かった」

「ありがとう、よろしくね」

 そして、朽葉はくるりと踵を返す。私はその背を見送り、まずは探し物からにするかと帳面の最後のページを捲った。其処には、かなりの達筆でこう書かれていた。

【産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる】

 変わった題だ。とにかく私は、その本を探すことにした。


第六章【再会】3




 ――暇だ。その一言に尽きる。私が此処に来たのが昼の少し前、今は夕刻に近い。玄関戸を微かに透かして見える外の景色は、ほんのりと薄暗くなっている。だが、本日の客は誰一人としていない。朽葉の言葉通り、この貸し本屋を訪れる人間はほとんどいないようだ。勤めの初日とあって少なからず緊張し気合いを入れて臨んだ今日という日は、暇に食い潰され、そして主に掃除で終わろうとしていた。

 朽葉に頼まれて探していた本は見付かってはいない。最初にその本を探し始めたのだが見当たらなかったので、書棚の掃除をしつつ端からじっくりと見て行こうと思い実行したのだが、こうして日暮れ近くになってもそれは目に入らぬままだった。本当に、此処にあるのだろうか。

 あれから一度も朽葉は此方へ姿を見せることはせず、私としても特別に困ったことがあったり用事があったりしたわけでは無かったので、声を掛けることはしなかった。しかし物音一つしないので、少々不安を覚えてはいる。眠ってでもいるのだろうか。そういえば、この店の閉店時間を聞いていない。いつ頃に店仕舞いをすれば良いのだろう。もう一度、頼まれていた本を探してから尋ねてみることにしようか。

 そこまで考えて私が椅子から立ち上がった時、控えめな音と共に表戸が少しだけ開かれた。だが、待ってみても、それ以上に戸が開かれる気配は無い。客だろうか。私は不審に思いつつも近付き、細く開かれた戸の前に立った。誰もいない。

「あの」

 丁度、死角になっている右隣の方から不意に声がし、私はいささか驚きながらそちらを見る。逆光の中、長い黒髪を後ろで束ねた一人の少女がひっそりと佇むようにして其処にいた。その表情は俯いている為に良く分からない。

「あの、まだお店、開いてますか」

 年の頃は十六か十七か、その辺りだろう。少女は此方の反応を窺うように、一言ずつを区切りながらゆっくりと言った。

「ああ、どうぞ。いらっしゃいませ」

 私がそう言って中へと招き入れると、俯いたまま少女は先程の言葉のようにゆっくりとその足を店内へ進める。

 そして、入り口から一番近い左端の書棚の前に立ち、そこでようやく少女はその顔を上げた。だが、薄暗くなりつつあるこの時間では、はっきりとは見えない。

 私は戸を閉め、行灯あんどんに火を灯す。途端、ぼわりと屋内が明るくなる。そのまま少女の背へ視線を向けると、明かりを受けて射干玉ぬばたまのように輝く黒い髪がいやに美しく見えた。

 少女は左端の書棚から徐々に右へと移動して行く。目当ての本を探しているのか、ごく微かに首が上下左右を彷徨うように動いて行く。私は元の通りに椅子に腰掛け、特にすることも無い中、何となく少女の後ろ姿を見ていた。少女は、沼の底の碧と紺が暗く入り混じったような色合いの着物を着ていた。

 ――どれくらい経っただろうか。ふと玄関戸の方へと視線を遣れば、先程よりも外は大分暗くなっているようだ。行灯の明かりが色濃く家屋内を照らし出している。

 少女へと視線を戻せば、一番右端の書棚の前で、じっとしていた。その手には一冊の本があるようだ。ぺらりぺらりとページをる音が静寂の中にひっそりと囁きのように響く。私は、その後ろ姿を眺めながら、何処か遠い昔日せきじつを見つめているような心持ちになった。

 あまりにも静かなせいだろうか。其処には、私と少女の二人きりしかいなく――奥の間には朽葉がいるのだが――まるで世界から切り離されたかのような感覚を私はいつしか味わっていた。耳を漂う静謐せいひつと、何処か幻想的にも目に映る行灯のほの明るさが、より一層のこと、この時間を浮き彫りにする。

 そして、其処に存在している、ほとんど一定の間隔で生じているであろうページをめくる音が、だんだんと心地好く、愛おしくすらなって来る。込み上げる、この感情は一体何であるのか。私には良く分からなかった。


第六章【再会】4



「これ、借りても良いでしょうか」

 不意に私は幻想から呼び戻される。気が付けば少女は私の前に立ち、一冊の本を差し出していた。

  私は慌てて首肯しゅこうし、返答する。台帳を取り出し、朽葉に言われた通り、書物の題や著者名などを書き留めようとした。その時であった。目に飛び込んで来た題は【産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる】であり、それは朽葉に探すよう頼まれていた本だということに気が付いたのだ。その気付きが顔に出たのだろうか、少女は「どうかしましたか?」と尋ねた。

  私はどう答えるべきか思案し、同時、この本を貸し出して良いものかどうかを悩んだ。朽葉に確認を取るべきだろうか。

「この町の北に沼があるのをご存知ですか?」

 突然、脈絡の無いことを振られて私は少々、反応が遅れた。

「沼?」

 顔を上げて尋ねると、少女は深く濡れたような瞳で私を見返した。

「そうです。結構大きな沼で、此処らでは割と有名なんですよ」

「いや、知らないな」

「良かったら、明日、私と一緒に見に行きませんか?」

 少しだけ首を傾けて少女は微笑む。その細く頼りの無い三日月のような微笑みが、強く私を惹き付ける。だが、私は少女のことを知らない。初対面だ。初対面の筈だ。しかし、まるで旧知の仲のように目の前の少女は微笑む。私は、その笑顔に言葉では説明し難い感情を覚える。強いて言うならば先程にも思ったことだが、過ぎ去った昔日せきじつを思い返しているような。これは一体、何なのだろうか。

 そして私は、本当に彼女と初対面なのだろうか。その柔らかな表情に見覚えがあるように思うのは、果たして気のせいなのだろうか?

「無理なら、良いんです。この本を貸して貰えれば、それで」

 私の思考を断ち切るようにして、表情とは相反する張られた弓弦ゆづるの如く、しっかりとした声音で彼女は言った。

 そして、受付台の上に置かれた本の上に、その白く細い指を数本、添える。私は今一度、朽葉に確認を取るべきか思い悩んだが、彼女の芯の通った物言いに半ば押されるようにしてその本を貸し出すことにしてしまった。台帳には、それぞれ記入すべき欄があらかじめ設けられている。それに従い、私は以下のように記入をした。

 題:産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる

 著:鳴日

 人:春野華

 著作者名は何かに引っ掻かれたようにして掠れており、全てが読み取れない。私は仕方なしに名のみを記入した。

 少女は一つお辞儀をし、大事そうに本を抱える。

 そして彼女が引き戸を開けた時、私はほとんど衝動に突き動かされるようにして言った。それは、ありきたりな言葉だった。しかし、私にとってそれはひどく重要な一言だったのだ。

「何処かで会ったことはありませんか」と。

 少女はゆっくりと此方を振り向き、次いで同様にゆっくりと笑った。少女の動作はその多くがとても穏やかで、まるで春の陽射しのようだった。春の小川のようだった。私は、ふらふらとそれに引き寄せられているのだろうか。

 少女の唇が美しく弧の形を描いた後、鈴のような声で私を包み込むようにして言葉を放つ。

「お忘れですか? 二度程、お話を聞かせてくれたではありませんか。菓子商店で売り子をしていた者です」

 ――そうだろうか?

 私が最初に思ったことは疑問だった。確かに、「菓子商店にいた売り子」と会ったことは数度、菓子代の代わりに話をしたことは目の前の少女の言う通り、二度ある。また、それ以上の関係性は有りはしない。

 だが、幾らそれだけの縁だったとは言え、そう遠い出来事では無いのだ。初めに出会ってから十日も経っていないだろう。それだけの日数で、私は私が出会った人間のことをすぐに思い出せない程に忘失ぼうしつしてしまうのだろうか?

 それに、「彼女」は菓子商店を辞め、故郷に戻ったと聞いている。確か、菓子商店の女主人が、そう言った筈だ。ならば、目前の少女は一体誰であろうか。そういった疑念が私の表情に滲んでいたのだろう、少女は私の疑心をすくい取ったかのように答えを教えてくれた。

「つい先日、菓子商店を辞めて故郷に戻ったんですが、此処の町が懐かしくなって。そういえば、お土産も何も買わずに帰ってしまったなあと思い、少しだけ戻って来たんです」

「そう、だったんですか」

「何だか、この世の者では無い者を見るような目ですね。そんなに不思議ですか?」

 私が、此処にいることが。

 言外にそう告げて、少女は再び美しく、ゆっくりと微笑む。薄暗がりの中でもそれと分かる程、その微笑は美しいのだ。ただ、それだけのこと。それだけのことなのに、胸がざわつくのは何故だろうか。黙りこくってしまった私を意に介した風も無く、抱えた本を持ち直し、少女は自らの名を名乗った。

「私、春野華はるのはなと言います」

 はるのはな。行灯あんどんの明かりの下、手元の台帳に目を落とすと、先程に私が書き記した「春野華」という文字が目に入る。

「あと数日は、この町にいます。この本を返す時、またお会い出来たら良いですね」

 私の返答を待たず、或いは欲せず、少女――元、菓子商店の売り子である春野華――は今度こそ戸の向こう側に去って行った。私はそれを何処か夢心地で見つめ、そして、しばらくの間、閉じられた戸から視線を剥がせないままでいた。


第六章【再会】5



 彼女は本当に、あの時の売り子なのだろうか。疑問や違和感を覚えるのは服装のせいかもしれないとも思う。

 私が今までに見た彼女は菓子商店での姿だけだ。動きやすそうな着物に白地の前掛けを腰から身に着けて、三角巾を結んで。春に咲く野原の花のように笑い、菓子を勧め、私の話に耳を傾け、それを書き留めた。其処まで考えて、ああ、春という共通点があると私は気が付くに至った。菓子商店で、彼女は春の花のように笑った。そして先程、此処の貸し本屋で彼女は春の陽射しを思わせる、ゆったりとした穏やかで暖かさすら思わせる所作を呈していた。

 だが、と思う。その笑顔は決して私の記憶にあるような、春の花のようでは無かった。美しくも少々恐ろしい、冴え冴えとした冷たい月のような笑顔だった。それは菓子商店にいた彼女のものとは似ても似つかず、また、その彼女からは想像するのも難しい程のものであった。本当に彼女は――春野華は、私が会ったことのある彼女なのだろうか?

 春野華。私は再び手元の帳面を見、その名前を目に映し込む。私の思考に幾度も生まれた「春」という一文字が、れっきとした存在感を放つようにして其処に佇んでいる。はるのはな。はるの、はな。春の、花?

 唐突に私はその名前にすら疑問を持ち始める。菓子商店で出会った彼女についての私の記憶に照らし合わせたように、その名は其処に書かれている。名はたいを表す、とは言え、これは如何にも出来過ぎではないだろうか。否、別段、珍しい名前では無い。私の考えすぎかもしれない。私は少しばかり疲れているのかもしれない、少し前に会ったことのある人間が服装を変えて訪ねて来ただけで本人と分からないくらいに。

 ――本当に?

 私は思考するたびに疑念に取り憑かれる。この町に来てからというもの、今のように考えがまとまらないということはしょっちゅうだ。まとまったことなどあっただろうかと思ってしまうくらいに。だが、私は考えるということをもう諦めてはならないように思っていた。

 不意に朽葉の言葉が蘇る。

 ――おそらく流れというものが君を最終地点まで押し流そうとする。元へ帰りたいのなら、それに従ってはいけないよ。

 そう、朽葉は言った。

 そして、灰色の彼は出会った当初から幾度も繰り返した。

 ――振り返れ。

 辿って来た道筋を正しく振り返り、理解し、正しく戻ること。それが私がすべきことであり、最優先事項であるように私は捉えている。これは灰色の彼と朽葉の二者から学んだことだ。私は戻りたいのだ。何処とも知れぬ、私の故郷へ。その為には、紛れも無い私のものである筈の記憶、私のものである思考を有耶無耶うやむやにしてはならない。

 私は、もう一度、彼女と話をしてみようと思った。彼女が本を返しに来る、その日に。

 目蓋の裏側に先程の彼女の姿が行灯あんどんの明かりのように思い浮かぶ。沼の底のような深く暗い碧と紺を混じり合わせたような着物の色がいやに印象的で、それが畏怖いふを思わせる程に美しい笑顔と重なってゆらりと波のように揺蕩たゆたう。その波間に溺れそうな私を引き戻すかの如く、背後から、聞き慣れた声が不意に私に掛けられる。

「お客さん、帰った? もう店仕舞いしようか」

「ああ。そういえば、いつもは何時くらいまで開けているんだ?」

「特に決めてはいないんだけれど、大体、日が傾いた頃には閉めているかな。お客さんがいればその限りではないけれどね。でも、滅多に来ないから。今日は珍しかったね」

「そんなに人が来なくて儲けはあるのか?」

「それなり。それに、多くのお金を得る必要は無いからね、此処では。それでなくても僕らは――ああ、君が灰色の彼と呼ぶ者もそうなんだけれど、僕らは食べなくても過ごして行けるんだ。だから、さして困らない」

 告げて、朽葉はふわりと私の近くまで舞い、そういえば頼んでいた本は見付かった? と尋ねて来た。

 私は少し躊躇いながら、その本を先程のお客に貸してしまったことを告げる。貸して良いものかどうか迷ったのだが、と言い訳のように付け加えて。

 朽葉は黙ったまま受付台の上に開かれたままになっていた台帳を見つめる。そして、私の見間違いで無ければ一瞬、小さく震えたように思える。

「朽葉? やはり駄目だっただろうか、貸してしまっては」

「いや、そんなことは無いよ。此処にある本で、貸し出し禁止の物には札を付けている。これは、その類いでは無いし……」

 不自然に朽葉は言葉を切った。何処か考え込む風を見せ、顔を上げぬまま、朽葉はじっと台帳に視線を落としたままだった。

 ぼわりとした行灯あんどんの明かりが徐々にその光を強くして行く。いや、外が暗くなっているのだ。ややあって、はっとしたように朽葉は私を見て言った。

「ごめん、遅くまで。今日のお客さんは、この一人だけ?」

「ああ、そうだ」

「じゃあ、あとは僕がやっておくから。そうは言ってもほとんどすることは無いけどね。お疲れ様」

 若干の引っ掛かりを覚えながらも、私はその日、朽葉の貸し本屋を後にした。

 そして、この町での住まいとなっている家に戻ると、いつもの定位置で灰色の彼はとうに眠りに就いていた。

  静けさで満たされた家屋の中が、どうしてかほんの少しだけ、物足りないように思える。どうしてだろうか。その疑問に答える私は私の心内には存在しない。事柄を有耶無耶うやむやにしたくないと思ってはいても、取っ掛かりすら無い感覚はどうすることも出来はしない。

 私は部屋に入り、床に就く。その暗闇の中心で、短くも強烈な内容を記した朽葉色の本を思い出す。同時、禍々しい程の猩々緋しょうじょうひと金色が朽葉色を飲み込むようにして混じり込む。目を閉じた後も、それは続いた。


第七章【消失】1



 朽葉の貸し本屋での勤めの二日目。昨日同様、昼少し前に私はその表戸を開ける。

 朽葉は左奥の書棚の前、漂うようにして其処にいた。私に気が付き、くるりと振り返ったその表情は、気のせいか少々、難しい様相をていしているように見えた。灰色の彼も朽葉も、あまり目に見える程の表情変化が無いので分かりづらいのだが、その時の私の目には、戸惑いと苦悩を溶け込ませた色を一滴だけ表面に滲ませたような、そんな表情に見えたのだ。

「何事か、あったのか」

 私の問い掛けに朽葉は首を横に振った。

「いや、何でも無いよ。今日も昨日と同じ感じで、よろしく頼むよ。僕は奥にいるから、何か困ればいつでも言って。あと、お茶を淹れておいたから良かったら飲んで。それじゃあね」

 私が茶の礼を言うよりも早く、朽葉はふいと奥の間に飛んで行ってしまった。何処か彼にしては性急な気がする。やはり、何かあったのだろうか。

 私は朽葉の飛び去った奥の間から、先程、彼が浮遊していた辺りへと視線を移す。その書棚の前に立ってみると、一箇所、本と本の間が不自然に空いている。其処で私は思い当たる。昨日、確か少女はこの書棚から本を借りて行ったということを。貸しても問題は無かったと朽葉は言っていたが、何か思う所でもあったのだろうか。

 もしも、私を気遣ってそういう風に述べたのならば申し訳無いことをした。そういえば、本の貸し出し期間というものは何日間に当たるのだろうか。いつ頃、あの少女は返しに来るのだろう。

 私は受付台に座り、朽葉が淹れてくれたという緑茶を飲みながら考えた。しかし、仮にも此処で働く者が本の貸し出し期間すら把握していないということはいささか問題なような気がした。規程などを綴った帳面などは無いのだろうか。

 勝手に開けて良いものかどうか少し気後れしながらも、私は右手前の引き出しを開けてみる。きしきしと古い音をさせつつ開かれた其処には、藁半紙わらばんしの束がぎっしりと詰まっているだけであった。引き出しを閉める。また、同様の音がした。

 引き出しをちょうど閉め終わった時、控えめに貸し本屋の表戸が開かれる。僅かの間を置いて入って来た者は昨日の少女――春野華であった。身に着けているものは昨日とは違う着物のようだが、色合いはとても良く似ており、やはり深く静かな沼を思わせる。彼女はその手に、一冊の本を携えていた。

「こんにちは。これ、お返しに来ました。どうもありがとうございました」

 彼女は真っ直ぐに私を見て、本を差し出した。

 私は返答し、帳面を開いて貸し出し記録を消す。気のせいだろうか、彼女から私の行動をじっと見ているような視線を感じた。筆を置き、顔を上げると彼女と目が合う。春野華は、にこりと笑った。

「この町の北にある沼の話、覚えてますか?」

 唐突に言われ、私は戸惑いながらも「ああ」とだけ言った。

「私、やっぱり見に行きたいんです。一緒に来てくれませんか? 勤めが終わってからで良いんです」

「沼、か。そんなに美しいのか?」

「美しいとは少し違うかもしれませんが、見て損は無いと思いますよ。私、実は明日でこの町を出るんです。そうしたらしばらくは故郷にいるつもりなので、見ておきたくて。思えば、此処で何年か菓子商店で働いて来たものの、一度も見たことが無かったんです。思い出を、作っておこうかなと」

 其処で彼女は言葉を切り、此方の反応を窺うように丸い瞳を改めて私に向け、二、三度、瞬きをした。烏の羽のように黒く、しとりと濡れたように見える黒髪を耳に掛けて、彼女は私の返事を待っている。

「店仕舞いの後で、構わないなら」

「ありがとうございます。何時頃でしょう?」

「多分、夕刻くらいかと」

「分かりました。大体、その辺りにまた来ますね」

 再び彼女は笑い、軽くお辞儀をして店を出て行った。表戸が静かに閉められる。

 ふと帳面に目を落とすと、昨日同様、彼女の名前が目に入る。春野華。聞き覚えも見覚えも無いその名が、どうしてか私の注意を引き付ける。

 名前と言えば、私は私の名前を思い出せる日が来るのだろうか。私は、だんだんと焦燥を覚え始めていた。それは空気に触れた血液のような黒を孕んだ赤い炎で、私の足元をじりじりと焼いて行く。

 正しく振り返ることが重要だと、灰色の彼と朽葉が言った。だが、正しく振り返るとはどういうことだろう。いや、此処までの道筋を思い出すことだということは彼らに言われて漠然とだが、分かっている。

 だが、私は思い出せない。思い出せないということが、どれ程に恐ろしいことであるか、どう言えば分かって貰えるだろう。忘れたことすら忘れている、遠い昔日の思い出であれば、まだ良かった。

 人は忘れて行く生き物だ。忘却は程度の差こそあれ、誰にでも静謐せいひつに、雪のように降り注ぐ。名前を含めて私が全てを取り戻しても、それでも忘れていることは少なからずあるだろう。それは仕方無い。ある意味では当たり前のことだ。

 だが、此処に来た経緯を、私はほんのかけらも思い出せない。あなたはずっと以前から此処に住んでいたのですよと言われれば、ああ、そうだったのかもしれないと頷いてしまう可能性を否定出来ないくらいには、私は私の存在に自信がいだけない。

 そして最近になって、私は私の名前を失った。思い出せない。思い出せない。思い出せない。思い出せないということが悲しく、恐ろしく、そして苦痛だ。いっそ、思い出せないという現実を忘れてしまえば、私は解放されるのだろうか?

「今、お客さん、来てた?」

 はっとして声のした方を見ると、いつの間にか朽葉が右隣でふわふわと浮遊しつつ私を見ていた。

「すまない。もう一度、言ってくれないか」

「お客さん、来てた?」

「あ、ああ。来ていた。これを返しに来たんだ」

 朽葉は私の示した書物に目を落とす。そして、すぐに私を見た。

「これ、読んで。此処で読んで構わないから」

 朽葉の言わんとする所を計り兼ねて私が黙っていると、

「そんなに難しい本じゃないから。読んでほしい。本は嫌い?」

「いや、嫌いでは無いが」

「じゃあ、読んで」

「分かった」

「僕は奥にいるから」

 そして、また朽葉はふよりと奥の間の方へと行ってしまった。何か用があったのではないのだろうか。そう思いながらも私は手元の本を見遣る。それは朽葉が私に探してほしいと頼んだものだ。私に読ませたくて、そう告げたのだろうか。

 客の来る気配は無かった。と言うよりも、外を歩く人の気配がひどく希薄だった。遮断された、切り離された浮き島にでもいるかのような気分になる。私は、その静寂の漂流に身を任せるようにして書物の表紙を捲った。


第七章【消失】2



 ――夕刻。外の色がうっすらと夕焼けに染まっている。彼女が店の表戸を控え目に開けたことで、それは分かった。淡い朱色を背に、戸の隙間にひっそりと立つ彼女は、まるで一枚の絵画のように美しく、そして同時に人を惹き込む魔のようなものも私に感じさせた。だが、私はすぐさま現実に立ち返ることになる。

「そろそろ店仕舞いの頃合かと思って参りました。早かったでしょうか?」

 いや、と私は手元の本を静かに閉じて立ち上がる。しかしながら店を閉める時間は、朽葉の言によれば、はっきりとは決まっていないようだった。一応、店仕舞いをして良いかどうかを確認する為、私は奥の間へ行こうとしたのだが、それには及ばなかった。私が振り返った先、既に朽葉は其処にいた。宙に佇み、その名と同じ色の瞳をうっすらと開き、音も無く、ただ彼女をじっと見据えていた。

「何か?」

 彼女はそんな朽葉にも動じず、歌うように、静寂を壊さず細心の注意を払うかのようにして、朽葉に対し、問い掛ける。それにも朽葉は黙ったままだった。

「もう店を閉めて良いか聞きに行く所だったんだ」

「そう」

「それで、良いのか、閉めても」

「……うん」

 答える間中、朽葉は、ちらとも私の方を見なかった。声音も若干ではあるが、いつもとは少し違うように思えた。素っ気無い、何処か灰色の彼を彷彿ほうふつとさせるものがあった。

 何故だろうか、何事かあったのだろうか。そう考える私の思考をまるで遮断するかのように、春野華と名乗った彼女は私に向けて言った。

「それでは、行きましょう。丁度、今頃は空の色を映し込んで綺麗な姿が見られますよ」

 沼の。言外にそう告げ、彼女はふわりと花のように笑う。少し小首を傾げた仕草につられるように、彼女の左にその美しい黒髪が流れる。

「本、読んだ?」

 不意に朽葉が声を発した。見上げると、今度は間違い無く私をじっと見ていた。

「あ、ああ。読んでいたけれど、まだ途中なんだ」

「そう。じゃあ、続きは明日に読んで。明日」

 明日。その単語を朽葉は繰り返し、

「店の方は僕がやっておくから。今日はもう良いよ。お疲れ様」

 と言って、再び奥の間へ引っ込んでしまった。

 私はその態度に引っ掛かりを覚えつつも、行きましょう、と言った彼女の声に誘われるようにして店を後にした。

 空は美しい夕焼けに染め尽くされようとしている。私は一度、上空を見上げてから彼女の後を追うようにして歩いて行った。

 彼女は、どんどん町の中央から離れて行っているようだった。確か沼は町の北の方にあると言っていた。ならば、北に向かっているのだろう。それにつれて人家は減り、周囲にはだんだんと木々が増え始めて行った。時々、思い出したように風が吹き、それらの枝々を揺らし、葉を揺らし、ざわざわという音を私達に届ける。

 不思議と、彼女は道中、一言も口を開かなかった。だが私は特にそれを不快には思わず、また、どうしてか分からないがあまり不思議にも思わなかった。ただ、こうして彼女の隣に並び立ち、同じ方角に向けて歩みを進めているだけで、何処か安堵にも似た感覚を覚えていた。何故だろう。

 ふと、「振り返れ」という灰色の彼が幾度も繰り返した言葉を思い出す。それに導かれるようにして私は半分程、首を後ろへと向けてみたが、私達の他には誰もいず、一つ、二つの人家と井戸が見えるだけで、何も変わったことは無かった。

「どうしました?」

 此処で初めて、店を出てから彼女が口を開いた。それはやはり、ふうわりとした口調で、歌のようで。私は心地好く、その六つの音を大切に聞いた。

「いや、何でも無いんだ」

「そうですか?」

「ああ」

「もうすぐですよ。私、どうしても最後にあなたと、あの沼を一緒に見たかったんです。あ、そういえばお名前をお聞きしていませんでしたね」

 私は彼女の言葉の前半の意味を尋ねるより早く、自分自身に問い掛けていた。私の名は何なのか? と。黙り込んでしまった私を不思議に思ったのか、彼女が少し首を傾げて問う。

「何か、あるんですか。やはり」

「やはり、とは?」

「いえ。先程、ふと振り返ったりされていたから、私と一緒に行くことは嫌なのかと思いまして。無理を言ってしまったのかと」

「いや、そうじゃないんだ。ただ、その」

 言い淀んだ私の言葉の続きを彼女が待っていることは良く分かる。しばらく、私達二人分の足音と、時々吹く風の音だけが辺りに響いた。

 正直に言えば、私は迷っていたのだ。彼女に真実を話すことを。すなわち、自分の名前を忘れてしまったということを。

 灰色の彼や、特に朽葉から聞いた説明で、私はもうだんだんと分かり始めていた。此処が、この町が、普通では無いことを。そして私は自らの名前も帰るべき場所も忘れてしまっている。帰るべき場所があったのか否かすら、分からないのだ。これが普通であるわけが無い。

 考えようとすれば、すぐに頭の中には白雲のようなもやが立ち込め、思考することを阻害するようにそれは朦々もうもうと広がって行く。だが、おそらく私は考えなければならない。考え続けなければならないのだ。それがきっと、おそらく「振り返る」ということなのではないかと、私なりに解釈している。振り返ること――すなわち、思い出すということだ。私が今、此処にいることになっている経緯を。記憶を。過去を。そして此処に来て失ってしまった、私の名前を。

 こんなことになるのなら、意地を張らずに灰色の彼に自らの名を告げておけば良かったと、今になって後悔が募る。名前など記号に過ぎないと言って教えてくれなかった彼に対抗して、私も彼に自らの名前を教えることはしなかった。あの時の私は間違い無く、自分の名前を覚えていたのだ。もしも、彼に私が名前を伝えていたら。今の私に、彼が私の名前を伝えてくれたかもしれない。そして、私は私のかけらでも取り戻すことが出来たかもしれない。それは振り返り、思い出すという行為の手助けになってくれたかもしれないのだ。

 名前など記号に過ぎないという彼の言には、確かに一理あると思った。今も、それは変わらない。大切なことは本質であり、表面にあらわれている名や状況では無いのだ。だが、自らの名を失うことが、名を思い出せないことが、今、こんなにも苦しい。確かに私のものであり、私を表すものであったそれは、少なくとも今、私の中の何処にも無いのだ。そして、取り戻せるのかも分からない。その不安、悲嘆、苦痛。これを一体、私はいつまで続ければ良いのだろう。いつ頃、帰ることが出来るのだろうか。

「あの、間違っていたらごめんなさい。もしかして、あなたはご自分の名前をお忘れではありませんか?」

 急速に視界が開けるようにして彼女の言葉が私の脳裏に入り込む。彼女は足を止めず、心なしか下を向いて、そう言った。私は、その祈りのような優しい響きを持つ言葉に逆らえなかった。私は頷く。そして言った。その通りだと。覚えていた筈の自分の名前が数日前から、どうしても思い出せないと。

「そうでしたか。不躾ぶしつけに尋ねてしまって、すみませんでした」

 謝る彼女に私は首を振った。彼女が謝ることなど、何一つとして無い。知らない者の名前を尋ねただけだ。それを告げることの出来ない私こそが謝るべきだろう。

「いや、こちらこそすまない。私は正直に言うか言うまいか迷っていたんだ」

「いいえ、謝るのは私です。不躾ぶしつけな質問をしてしまったこともそうですが。実は、春野華というあの名前は、ただの私の憧れに過ぎないのです。私もとうに自分の名前は忘れてしまいました。ただ、私の場合は忘れたかったのかもしれません。全て、全て忘れて、此処で生きてみたかったのです。新しい場所、新しい仕事、出会う人々。此処は不思議な所です。誰にも拒まれない。それ所か仕事を手配してくれ、私が此処で生きて行けるようにしてくれた。だからもう、私は私の名前のことなど、もうどうでも良かったのかもしれません」

 思わず、私は彼女を見つめていた。

「でも、あなたはそうではないようですね。それならば、まだ可能性があります。どうか諦めないで下さい。身勝手なお願いかもしれませんが、私に出来なかったことをあなたにはして貰いたいなと思っています。あんなに素敵なお話を聞かせてくれたあなたを、私はとても好きになっていたんです。いつの間にか。本当に、いつの間にかのことでした。そういえばいつか、あの灰色の猫のような生き物が、あなたを止めましたね。私の差し出した菓子を食べることを」

 蘇る、緊迫した場面。私を止める灰色の彼と、其処へ現れた白い猫のような生き物と、菓子商店の女主人。思えば違和感を覚えたのは、あの時が最初だったかもしれない。菓子商店は華やかで、中にある店の数も多くて、それぞれに猫のような生き物がいて、少し不思議で少し興味深くて。惹かれていなかったとは言えない。店にも、彼女にも。

 だからこそ私は菓子商店に通い、彼女――春野華の笑顔に、会いに行った。そして彼女の望むまま、二度、話をした。それを彼女は書き留めていた。いつか物語草紙を出版したいと言っていた彼女の語る声と表情を、ありありと思い出す。

「二度、私に話をしてくれましたね。良く聞いて下さい。もうご存知かもしれませんが、此処では完全トーティエント数が重要です。つまり、三という数字が。此処では三という数を口にすること自体が禁じられていると言っても過言ではありません。暗黙の了解とでも言うものでしょうか。そして、その数に達し、超えることが」

 どっと強風が吹き、彼女は一度、口をつぐんだ。彼女の美しい夜のような黒髪が大きく揺れて彼女の顔を覆い隠す。その風の勢いに、私は思わず目をつむった。そして、やがて収まりつつある風の隙間に目を開けてみれば、そこに彼女の姿は無かった。影も形も、文字通り消えていた。

「春野……華?」

 冷や汗が出る。本当の名前では無く憧れの名前だと告げた彼女のそれを、私はそっと呼んでみる。答える声は、まるで当然のように無かった。

 ――初めから彼女は此処にはいなかった。

 誰かにそう言われたような気がして、急激にぞくりとしたものが私の背筋を這い上がることを感じた。


第七章【消失】3



 私は混乱し出した頭を押さえて、ふと前方を見遣った。すると森のように集まっている木々の間で、きらりと何かが反射したように見えた。ふらふらと、私は吸い寄せられるようにして重たい足を引き摺り、其処へと向かった。彼女の言っていた、沼なのかもしれないと。

 膝の辺りまで伸びている草を無造作に足で蹴り、細い多くの木々の間を抜けるようにして歩みを進めると、それはやはり沼だった。だが、正直な所、彼女の言ったように美しくは無かった。むしろ、淀み、暗く、人を飲み込んでしまいそうな怪しさすら感じさせるもので。私は一人、ただ沼の淵に立ち尽くしていた。まるで影が地に縫い留められたように、しばらくその場から動くことが出来ずにいた。そうして不意に、私は彼女の言葉を思い出す。

 ――丁度、今頃は空の色を映し込んで綺麗な姿が見られますよ。

「綺麗?」

 独り言が零れる。確かに今は夕刻、見上げてみた空は先程よりも夕焼けの色合いを濃く強くした鮮やかな朱色に染め上げられ、見る者をはっとさせるくらいの色彩を放っている。だが、沼はその色のかけらさえも映し込んではいない。それはただ暗く、何処までも暗く。目視出来る限りの全てを、暗澹あんたんとした黒と青丹あおにの入り混じる濁った姿を以て、私の前に露呈させていた。

 私はしばらくの間、半ば茫然とした心持ちで其処に立っていた。目は確かに沼を見つめてはいたが、本当の意味では何も映してはいなかったように思う。時折に吹く風が沼を囲う木々をざわざわと揺り動かし、その音は四方八方から私の耳へと入り込む。

 だんだんと辺りが冷え込み始め、ふと空を見上げると、真っ黒な闇が広がっていた。その時、私が見ていたものは明らかに天空である筈なのだが、それはまるで深く見えない沼の底のように思え、私は意識するよりも早く身震いをした。もう一度、沼を見つめる。やはり美しくなど無く、むしろ空恐ろしいものを覚えた。私は期待せず、名前を呼んだ。

「はるの、はな?」

 名前と言うよりも、ただの音の羅列のようになって私の口から出たそれは、ざわめく木々の音に消され、おそらくは誰の耳にも届くことは無かった。当たり前のように私の隣にいない彼女を探す為、暗くなった辺りをぐるぐると見回してみたが、やはりまた当たり前のように彼女の姿は何処にも無かった。

 私の見間違いで無ければ、あの時、彼女は私の目の前で掻き消されるようにしていなくなってしまった。何処に行ってしまったのだろう。朽葉の貸し本屋で待っていれば、また会えるだろうか。本を借りに来てくれるだろうか。いや、菓子商店に行けば会えるのだろうか。

 否、彼女は帰ると行っていた。故郷に、帰るのだと。確かに今日、帰ると言ってはいたが、此処の者はあのような帰り方をするのだろうか。会話の途中で、姿を消して? そもそも、美しい沼を見て思い出を作りたいと言ってはいなかっただろうか。しかし彼女は沼も見ず、立ち消え、こうして私の目前に広がるその沼は決して美しくなく。一体どういうことだろうか。

 ふと背後に気配を感じた。薄暗い中でそれを感じることは、本来ならば恐怖や不安を覚えるものであったかもしれない。だが、私は心中に広がっている困惑や落胆のまま、振り返った。其処には、宙にふよりと浮いている朽葉の姿があった。夜を控え、灰色に染まりつつある空気の中で朽葉の瞳はうっすらと光り、私を見つめている。

「帰ろうか。必要なら送るよ」

 朽葉は言い、私の反応を窺うように、ふわりと改めて揺れた。私は無言のまま首を横に振る。

「じゃあ、本屋までは同じ道だから。一緒に帰ろう」

 ――何処へ?

 私は喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。振り返るということは私の帰途に繋がることだと私は解釈していた。帰りたいと、思っていた筈だった。だが、一体、私は何処へ帰るというのだろう。名前をなくした人間が帰るべき場所など、何処にあるというのだろう。春野華。彼女は無事、故郷に帰ることが出来ただろうか。それならば、良いのだが。

 私は、自分の思考がまとまっていないことを自覚していた。また、彼女について、この沼について、朽葉は何か知っているのだろうかという疑問も持っていた。だが最早、それを尋ねるだけの力が私には残されていなかった。

 ――この町は、とても不思議だ。自らの記憶にかすみが掛かったようになっている私ですら、此処が普通では無いことくらい、分かる。そして、不可思議で形作られたこの町に永住するつもりなど、私はさらさら無い。しかしながら、私はどうしたら良いのか分からなくなりつつあった。直面する多くの不可思議の中に、私はほんの僅かで良い、安らぎや、帰るべき場所への手掛かりをきっといつも求めていたのだ。

 だが、春野華は消え、私の名は私から失われ、未だ帰るべき場所のかけらも思い出せない。振り返ることが大切だと、灰色の彼と朽葉は言った。確かに今の私に出来ることは、それくらいしか無いのだろう。自らが辿って来た筈の道を正しく振り返り、思い出し、辿り直し、帰り着くこと。それが私に出来ることの筈だ。しかしながら――今や私の思考のほとんどに、逆接の接続詞が付いて回る。そう、私が思考し、帰ろうとすることに、一体何の意味があるというのだろう。

 私と朽葉は沼を背に歩き、森を抜け、やがて貸し本屋の前に至るまで、互いに一言も発することは無かった。

「ちょっと待ってて」

 本屋の前に着くと、扉の鍵を開けて朽葉はするりと中に飛んで行った。程無くして戻って来た彼のふさふさとした腕には、一冊の本が携えられている。

「まだ途中でしょ。貸すから読んで」

 その言葉で、それは私が先程まで読んでいた【産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる】という書物だと分かった。受け取ろうとしない私の手を取り、半ば押し付けるようにしてそれを渡した朽葉は、それじゃあ、また明日、と言って本屋の中に戻って行った。そして鍵の掛かる音が小さく響く。

 私は手元の書物に目を遣ったが、明かりのない其処では、ただの真っ黒い四角形にしか見えなかった。見上げた空も同じ色をしていた。星など、一つも無い。

 私は、重い足を引き摺るようにして家路を辿った。

「嘘だな」

 のろのろと歩きながら私は独り言を呟く。こんなものは家路では無かった。私は何故、一冊の書物を持って帰途では無いものに着いているのだろう。夜も近いというのに明かりのほとんど灯らない家々の間を縫うようにして、私は一人で歩く。妙な気分だ。私は薄ら笑いを浮かべて歩いた。

 帰るべき所では無い仮住まいの家に帰り着くと、いつもの位置で灰色の彼が目を閉じていた。眠っているのかもしれない。私は戸締りをして、床に就く。持っていた書物は投げ出されるようにして私の手を離れた。ばさり、と乾いた音がする。頭の片隅で、借り物なのに、という懸念が一瞬だけ光って、すぐに消えた。何だか、何もかもがどうでも良かった。


第七章【消失】4



 ――翌日の早朝、私は朽葉の貸し本屋を素通りし、例の沼の前に座っていた。朝露あさつゆのせいか、腰を下ろした草の上が少し湿っていたが、そんなことは構わなかった。

「どうして私は此処にいるのだろう」

 それすらも、どうでも良いことのようにも思う。けれども、私の考えることといったらそれくらいしか無いのだ。考え始めれば、ゆるゆると薄い雲が張り出すように頭の中は静かに曇り始める。朝の霧のように。

 周囲のぼやけた風景と脳裏が、そっと歩み寄るように重なって行く。私は、ただただ沼の表面を見つめ、「どうして私は此処にいるのだろう」という疑問を繰り返した。まるでそうすることしか出来ない人間ででもあるかのように。止まることの無い水車のように。同じことを幾度も幾度も繰り返し繰り返し考えた。

 濁り切った沼の水が急激に澄むことなど無いように、私の頭の中がそうなることも決して無かった。それ所か沼の色に近付こうとでも言うかのように混濁して行く一方だった。そのことに焦燥や不安を覚える反面で、もうこのまま此処に座り込んでいれば良いのではないかという一種の安堵を覚えてもいた。そうしたらいつか体も心も沼の黒と青丹あおにに染まり、消えて行けるのかもしれない。

 そんなことをいつの間にか考えていた私を引き戻すかのように、昨日の如く、背後から掛かる声があった。

「此処にいたんだ。探したよ。何しろ今日は重要な日なんだ」

 私が首だけで振り返ると、陽光を取り込んでちかりと光った朽葉色の瞳二つと目が合った。

「忘れちゃったかな。此処では完全トーティエント数の内、最小の数が大事なんだ。今日は君が僕の店に勤め始めて三日目になる。此処で放り出されたら困るんだ。そうだ、貸した本は読んだ?」

「……いや」

「そう。急がなくて良いけれど、読んでね。それじゃあ、行こうか。もうお昼近い」

 ふわふわと朽葉は私に近付き、ふさふさの毛に包まれた手を差し出した。こんなことは初めてだった。私が少々戸惑いながらもその手を軽く掴むと、意外にもあたたかい体温が感じられた。

「生きているんだな」

 以前、生きても死んでもいないと述べられた朽葉の言葉が思い返される。

「僕は生きているとは言い難い。正直に言えば、君もそうだ。けれど、君のことは君自身に掛かっている。君が、これで良いと思えば、それまでだ。この流れで良いと思えば、それまでなんだよ。僕は――僕達は、そうなってほしくない。勝手な願いかもしれないし、本当に此処に君の幸福があると君が思うなら、それが一番良いのかもしれないとも思う。だけど、そうは見えないんだ。君には別の帰る所があるんだよ。内緒だけど、僕にも、灰色の彼にも、それがあった。でも、僕達は――此処で良いと決めた。君は、まだそうなってはいない。惑わされないで。どうか振り返ることを諦めないで」

 繋がれた手の先に少し、力が込められた。私達はそのまま手を繋いで貸し本屋までの道を歩いた。朽葉はいつものようにふわふわと浮いていたが。その存在が、手のあたたかさが、どれ程、心強かったことか。やや間を空けてしまったが私が声に出して頷いた時、「良かった」と朽葉は返した。

 私達は並んで貸し本屋への入り口をくぐる。今日は私が此処で働く三日目の日だった。


第八章【産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる】 1



 ――産道、というものを知っているだろうか。女性の体から赤ん坊が産まれ出でる際、必ず通って来る道だ。その通い路は当たり前のように一方通行であるが、稀にもう一度、通ることの出来る者がいる。無論、実際の話では無い。

 人は、一度、この世に生を受ければその命を自然と失い終えるまで、本来は現世うつしよで生き続ける生物である。これは人に限った話では無いかもしれないが、本書では敢えて「人」と明言させて頂く。また、幽世かくりよの存在を肯定した上での話ということも記しておく。

 人間は、現世に生まれ、現世で死亡する。至極、当然のことだ。だが、誕生する際に通った産道を戻り、辿り着いた先で、命尽きるまで暮らす者がいると聞く。この場合、産道というものは必ずしも実際の母親の産道とは限らず、喩えるならば、地から天の中空へ、ぽっかりと伸びる透明な道筋のようなものを指すらしい。らしい、というのは、筆者の私自身が諸処しょしょより伝え聞いた話になるからだ。事の起こりは以下である。

 私は、某日の朝早くに、ドンドンという太鼓のような音で目を覚ました。しばらくの間は、寝惚けていたせいもあってか、今日は祭でもあったかなどと考えていたが、やがて、今がまだ明け方であり、叩かれているのは太鼓では無く自家の戸であると理解するに至った。気怠さを引き摺りながら訪問者を確かめると、数年は会っていなかった知人だと分かった。私は、懐かしさが込み上げるも、こんなに早い時間から連絡も無しに訪ねて来るとは何事かあったのかと訝しんだ。

 知人は、ひどくやつれた顔をしていた。記憶の中の彼は、もっと肌に張りがあり、艶めいた黒い目をし、軽く束ねられた髪は清潔感を湛えていたと思う。だが、目の前の彼は、それらの一切を何処かに置き忘れでもしてしまったかのような容貌をしていた。疲弊、困憊こんぱい。そのような言葉が当て嵌まる顔付き、くたびれた衣、光の無い両目、乾燥が見て取れる髪。以前と打って変わったその様で、私が彼だと分かったのは、彼が私の顔を見て名を呼んだからだ。あかつき、と。

 彼の声には特徴があり、色で喩えるならば、常磐色ときわいろとでも言うのだろうか、青々とした木々の葉を思わせる響きを持っているのだ。そのイメージ通り、彼自身もまた、常緑樹のようにはつらつとした人物であった。しかし目の前の彼は、見る影も無かった。

 彼が私の名を呼んだ時、私は彼のことを思い出した。常磐色が頭の中に、さあっと広がって行く。しかしながら、私は彼の名を思い出すことが出来ない。久し振りの再会だからだろうか、あるいは寝起きだからだろうかと、私は内心、首を傾げた。此処で、名を尋ねるのは失礼だろうかと私が思考を巡らせた際、彼は再び私の名を呼んだ。そして、続け様に言った。

「私は君に会いたかった。君はもう覚えていないかもしれないが、いつか、峠の上の茶屋で団子を馳走してくれたことが、私は非常に嬉しかったのだ。長い道のりの末、峠の頂で食べた団子と茶の味は今でも覚えている。君にとって私は、旅の道中で知り合った一介の百姓に過ぎないかもしれないが、私はもう一度、君に会ってこうして礼を言いたかった。ありがとう」

 彼の口調は、少々、早めであった。また、その内容を理解し、私が思い出すまでに私は幾許いくばくかの時間を要した。数多くの思い出の中から、ああ、あの時のことか、私が居を移す際に峠を越えた時の話かとようやく思い至った所で、またも彼は言を継いだ。

「あれから私は、今度出会う時に、あの時の団子と同じくらいか、それ以上に美味な菓子を君に馳走したいと思っていた。峠を越えたふもとに住む君のことを、時々は思い返しながら、私は菓子を食べることが多くなった。やがて、私は君に馳走するに値する菓子に巡り合った。これこそが、そうだと。だが、その時には私は既に、君に会う道筋を失っていた。どれだけ振り返ろうとも、君に辿り着く道はもう分からなくなっていた。しかし、こうして会うことが出来た。良かった。残念ながら、菓子は持ち帰ることが出来なかったが、あれは人が口にしてはならないものだった。結局、私は君に美味な菓子を贈ることが出来なかったが、こうして再び会え、礼を言う機会が設けられた巡り合わせに感謝している。あの時は、本当にありがとう」

 やはり、口調は早いままだった。何を焦っているのだろうかと私は不思議に思った。そして、彼が当時のことをひどく恩義に思っていることは伝わって来たが、こんな明け方に唐突に訪れ、告げることだろうかという疑問もあった。この時になっても私はまだ、彼の名前を思い出せずにいた。

 不意に、彼の背後が少々、明るく光った。太陽が昇ろうとしているようだった。本格的に朝になろうとしている。そう思った瞬間、次の言葉で私は陽光に移っていた意識を引き戻された。

「憎む」

 彼は一言、そう言った。今度は、言葉が続けられるまでに間があった。彼の発した声の色は、どす黒く染まっていた。私を見る目は暗澹あんたんとしており、逆光になっているせいで生じた、彼の顔に差した影が不気味に私を睨んでいた。

「あの時、お前が私に菓子を馳走などしなければ。私は、お前に美味い菓子を、などと考えずに済んだのに。菓子のことなど考えずに済んだのに。あの時、お前に声を掛けられなければ。お前に出会わなければ。私は平穏無事に生きて行くことが出来たというのに。全部、お前のせいだ。お前こそ、あの場所に行くべきだ。なあ、代わってくれよ。俺と代わってくれよ。俺の時間を返してくれ。どうして俺に声を掛けた、どうして」

 彼は、とうとう私に掴み掛かり、がくがくと揺さぶった。その力は尋常では無く、私の両肩は悲鳴を上げるように痛んだ。生気の無い彼の一体何処からこんな力が、と思わせるほどだった。

「良いか、俺は信じている。これで二度、俺は生まれたんだ。二度あることは三度あるだろう。次の三度目こそが俺の本当なんだ。今度こそ、俺は平穏に暮らすんだ。お前とも、あの場所とも、関わらずに。だが、俺はお前を許さない。絶対に」

 私の肩を更に強く、彼が掴む。その時、彼の肩越しに、太陽が昇って行くのが見えた。陽光は強さを増し、私は少々、目を細めた。ちかり、と太陽光が鋭く光った折を狙ったかのように、彼は途端に私の両肩を掴んでいた力を緩めた。

 ――いや、厳密には、彼は黒くどろどろした濁りのようなものになって地に落ちた。私が呆然としている間に、濁りは砂粒の如きものに変わり、さらさらと風に舞い、消えた。私は、その行方を目で追った。だが、黒き砂は、もう何処にも見えなかった。私が再び目を戻すと、其処には折り畳まれた薄い半紙が置いてあった。彼の持ち物だろうか。私は、起こった事柄を飲み込めないまま、それを拾い上げた。それには、こう書いてあった。「産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる」と。字は、震えていた。

 ――前記した出来事ののち、私は長らく住み慣れた地を離れることにした。妻子の無い独り身の私は気楽なもので、何処に行こうと勝手なものだった。幸い、若い頃に貯めた銭があったので、私は諸所を巡ることにした。無論、知人の身に起きた事柄の解明の為だ。とは言え、生前、知人が何処に居を構えていたかも知らない。私は、当ても無く浪々とした。

 生前。自身の思考の池に浮かんだその言葉に、私は疑問を持つ。知人は、本当に死んだのだろうか?

 彼は、黒く濁ったものに変化した後、更に砂粒となり風に吹かれて消えた。人間が、そのような死に方をするなど、六十年以上生きた私でも聞いたことが無い。そもそも、あれは本当に彼だったのだろうか。妖怪か何かの類で、私は化かされたのではないだろうか。あるいは、生き霊ではないかとも思う。

 だが、私には彼の生存を確かめる術が無い。また、彼の言葉が全て真実である証拠など、何処にも無い。失礼な物言いになるかもしれないが、彼は気が触れていた可能性すらあるのだ。それ程に、彼の言動には現実性が欠けていた。しかしながら、そのような不確定なものに自身の生涯を懸けようとしている私もまた、何処かおかしいのかもしれない。

 けれども、私は責任を感じている。彼が言ったように、私さえ彼に声を掛けなければ、と。そうすれば、「あの場所」とやらに関わらず、「平穏無事」に彼は生きて行けたかもしれないのだ。これも、彼の言を真実と仮定するならば、の話だが。

 私を突き動かしたのは罪悪の念だった。勿論、私が茶屋で彼に声を掛けたのは、彼の不幸を願ってのものでは断じて無い。しかし、結果的にそれが引き金となって彼を絶望に落とし込めるに至ったのであれば、私に責があるだろう。私は私の残りの時間を使って、彼の身の上に起こった真相を突き止めることを決意した。

 私は、彼の言葉と、彼の残した一文だけを頼りに、方々で人々に聞いて回った。菓子、時間、生まれる、あの場所。これらが一括りになる話に何か聞き覚えは無いか。人間が黒い濁りになり黒い砂に成り果て死んで行く様を見たことはあるか。産道を経て、揺り籠に生まれ落ちるという言葉を知らないか。何十、何百人と聞いて回った。だが、誰もが首を横に振るだけで、何も手掛かりは得られなかった。

 そもそもの基盤となる情報が、このような曖昧なものでは、雲を掴むような話なのかもしれない。私に刻まれた罪悪感は薄れることは無かったが、徐々に諦めを覚え出し始めたことは否定が出来ない。


第八章【産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる】 2



 ――あの日、彼が私の目の前から消え去ってから、幾度かの季節が巡った。私は、その頃では足腰に疲労を覚えやすくなっていた。もう、浪々の旅は限界かと考えていた折、休息がてら、私は一軒の茶屋で桜餅を食していた。丁度良い塩梅あんばいの塩と砂糖、上品なあん。頭上に花開く桜を眺めつつ、私は、これから如何したものかと思考した。

 やがて、空いた皿と湯飲みを下げに来た店の者に、私はいつもの尋ね事をした。これまでのことからほとんど期待はしていなかったに等しいのだが、此処に来て、思わぬ答えが返されることになった。「現世うつしよ幽世かくりよの話に似ていますね」とその者は言った。私が聞き返すと、盆を抱え直して彼女は話を続けた。

「この世のことを現世、あの世のことを幽世と呼ぶのはご存知ですか」

「ええ」

「これは私共、菓子職人や菓子に関わる者の間で伝わっている話なのですが、幽世には現世で味わえないほどの美味な菓子があるらしいのです。何でも、食べると、この世には戻って来たくなくなるくらいにはおいしいとか。戻って来たくなくなる、というのは表向きで、実際には、戻って来られなくなる、ということらしいですが。或いは、もう戻れない者が呼ばれる場所が幽世であるから、菓子を口にしようがしまいが関係無いとも聞きますね。とにかく、非常に美味な菓子が幽世にはある、というのがひっそりと伝わっております。世間一般には広まっていない話ですけれど。いや、何の根拠も無いお話ですよ。貴方様は、菓子に携わっていらっしゃるのですか?」

「いえ、そういうわけでは無いのですが」

 それから私は、きっと上の空だったろう。諸所を巡り十余年、ようやく辿り着いた話に私は歓喜していた。だが、これもまた掴めない雲のような話であることに変わりは無かった。歓喜すると同時、落胆を覚えざるを得ない。私は、ひらひらと舞う桜の花びらに自身を重ね、深く溜め息をついた。

 以降、私はよわいによる身体の限界を感じ、旅を終えることにした。長い時間を掛けて、得た情報は上記のたった一つであったが、決して無駄では無かっただろう。と言うのも、私は自身の好奇心を僅かであろうとも満たすことが出来たのだから。

 罪悪の念があると綴った私ではあるが、いつの頃からか、それと同等、あるいはそれを超える好奇心が自らの内にある事実に私は気が付いてしまった。知人の死を含む一連の出来事にそのような感情を抱くなど、不謹慎極まりないと私も初めは自身をいさめもした。だが、やがてそれは限り無く小さくなり、私は私の興味本位とも言える身勝手な思考に基づき、行動するようになって行ったのだ。

 やがて、私は自分がもうじき死ぬであろうことが分かった。七十を越えれば体は痛み始め、体力の衰えも感じていた。死を近くして、私は幽世の存在を意識するようになり、同時、以前に茶屋で聞いた話を幾度も思い出すようになった。

 そういえば、彼は菓子について言及していた。諸所を闇雲に巡るような真似はせず、初めから菓子店にだけ絞って聞き歩いていれば、或いは私は真相に辿り着いていたのかもしれない。今になって後悔が訪れた。浅慮であった。当時の私は少なからず動転していたのかもしれない。目の前で人が砂粒に変わったのだ。動揺しない方が不思議だろう。だが、こうして晩年を迎えて、前記に気が付くとは、如何にも間が抜けている。私は苦笑した。

 彼は二度生まれ、もう一度生まれると言っていた。これは一体、何を指しているのだろう。輪廻転生のことを言っているのだろうか。とすれば、彼には前世の記憶があるというのだろうか。こうして改めて振り返って考えてみるに、やはり彼の言動には謎が多かった。

 この世は、とかく謎多き世界なのかもしれない。私は私の周囲だけを知り、世界を知った気になっていたのかもしれない。そのおごりとも言うべき部分に気付かせてくれた彼には礼を言うべきだろう。私に礼を言われた所で、彼が返すものは憎悪でしかないのかもしれないが。

 この期に及んでも尚、私は彼の名前を思い出せずにいる。確かに峠の茶屋で聞いた筈なのに。年のせいで記憶に霞が懸かっているのだろうか。だが、約十年前に彼が私の家を訪れた時も私は彼の名を思い出せなかった。何故だろうか。

 ――此処からは私の、ただの推測になる話だ。年寄りのたわむごとと思い、出来ることならしばしお付き合い願いたい。

 人が死んだ後の世界があるかどうかは定かでは無いが、仮に幽世とでも言うべき死後の世界があったとて、其処に辿り着く人間は死んだ人間だけとは限らないのでは無いだろうか。つまり、生きている人間も、其処に辿り着く可能性があるのではないかと――私は思うのだ。

 幽世があるとしたら死期の近い私のことも招待してくれはしないかと、心ひそかに私は期待している。何しろ、幽世や天国に行ったことがあるという人間の話はついぞ聞いたことが無いのだから、この目で確かめるしか無いであろう。

 そして、その幽世だが、生きている人間が何らかの事情で迷い込んでしまう可能性があるという考えを私は捨て切れずにいる。それに該当するのが、名を思い出せない私の知人のことだ。明け方、唐突に私の家を訪れ、意味不明瞭なことを言い、最期は黒い砂になって消えてしまった彼のこと。彼は、「あの場所」に関わってしまったが為に「平穏無事」な生活を送れなかったと言っていた。そして、彼はこうも言っていた。「二度、生まれた」と。加えて、彼の消えた後に残された、「産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる」と書かれた半紙。これらのことから、私は彼の身の上に起きたことを以下のように推測する。

 彼は、生きながらにして幽世に辿り着いてしまったのではないか。其処にどのような経緯があったのかは分からない。空に吸い込まれるようにして現世から消えてしまったのかもしれないし、古井戸の底に落ちて、辿り着いた先がそうだったのかもしれない。いずれにせよ、彼は命を持ったまま、幽世に逝ってしまった。その幽世への道が「産道」であり、幽世が「揺り籠」ではないかと私は思うのだ。

 実際、人が何度、生まれるのかは分からない。輪廻転生の説にも私は詳しくない。だが、もしも幽世が、もう一度人生を送る為の――或いは、それに近しい何かの――場所だとすれば、「産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる」と言い表せるのではないだろうか。

 また、幽世が存在するとすれば、おそらくそれは現世とは別世界と言って良いだろう。古い文献などでは良く目にする話だが、自分の本来いる世界とは別の世界の食べ物を口にしてしまうと、自分が元いた世界へは二度と戻れなくなると聞く。真偽は定かでは無い。

 重ねて言うが、此処までの話自体、死期の近い私の戯れ言のようなものだ。だが、私は思うのだ。彼は、産道を経て、揺り籠へ――つまり、幽世に生まれ落ちてしまった。生きているままに。そして其処で、幽世の菓子を口にしてしまった。故に、彼の命は幽世のものとして息づいてしまった。私が彼の名前を今でも思い出せないことも、其処に関係しているのではないかと思うのだ。

 亡くなった人の名前を思い出せないということに私は疑問を感じている。此処で思うのが、彼は、いわゆる正規に導かれて幽世に逝ったわけでは無いと考えられる点だ。彼が幽世の食べ物、菓子を口にした時点で、彼は何か捻じ曲がった形で幽世の住人になってしまったのではないだろうか。そして、現世の――これは私自身にしか確認が取れないことだが――人から名前を忘れられてしまうに至ってしまったのではないかと。

 しかし、彼は何かしらのきっかけでか、現世に戻って来た。けれど、彼の寿命は尽きてしまっていた。これが、いわゆる彼の告げた所の「平穏無事」な生活では無い時間を過ごしてしまった結果であろう。彼の命は幽世でそのほとんどを使い切ってしまったのだ。

 何故、残り少ない命を懸けて私の元に彼は来たのだろう。礼を言う為か、恨み言を言う為か。あるいは、私が彼へ幽世への道筋を少なからず作ってしまったということで、縁を辿って命が導かれた結果であろうか。

 考える程に分からない話ではあるし、人によっては意味不明なことを言っていると捉えられるであろうが、私は死ぬまで、自分のこの仮説を忘れることはしないだろう。

 そして、願わくば、死後は彼の逝った場所と同じ幽世に導かれるよう。私の心情が、彼への償いなのか、単純なる好奇心なのか。きっと、どちらもなのだろう。だが、彼にもう一度会えるのならば、すまない、と。許されざるとも謝りたい。それが出来ないのならば、彼の言う所の「平穏無事」では無い生活を私も送りたいと思う。これもまた、償いなのか、好奇心なのかは分からないが。

 彼は、二度生まれ、更にもう一度生まれると言っていた。それが本当なのかどうなのか私には判断が付かないし、前記したように、輪廻転生については詳しくない。だが、もしも。もう一度、彼がこの世に生を受けるならば。どうか今度こそ安らかなる人生を送れるよう、私は願ってやまない。


第九章【縁】1



 ――その後は、筆者の今までの人生における思い出が、つらつらと綴られていた。その中は悲喜こもごもに満ちており、また、砂になって消えたという筆者の知人についての想いが、繰り返し繰り返し、幾度も振り返るように書き綴られていた。それに関しては、後悔や懺悔がほとんどで、時に好奇心によるのであろう文章が顔を覗かせた。

 私がその書物を読み終える頃には、陽が、やや傾いた頃だった。私は、朽葉の声ではっと顔を上げた。

「読み終わった?」

 私が書物を膝の上に置き、背表紙をじっと見つめているのを、朽葉はいつものようにふよふよと宙空を漂いながら、私同様、じっと見据えていた。

「ああ、読み終わったよ」

「じゃあ、お茶でも飲んで」

 朽葉のふさふさとした手には丸盆が乗せられており、そこには二人分の緑茶と、かまぼこの形をした寿甘すあまがあった。

 ふわふわと、たんぽぽの綿毛のように朽葉はカウンターに着地し、どうやって物を掴んでいるのか疑問に思わせる細い手で、器用に緑茶と菓子の載った小皿を私の方へ勧めて来る。

「ありがとう」

「ううん」

 しばらくの間、沈黙が続いた。まだ湯気の立っている緑茶は少し渋みが強かったが、現実離れした私の頭を奮い立たせるには丁度良かった。

 寿甘に手を伸ばし掛けて、「菓子」がどんな意味を持つのかふと考えたが、

「前も言ったけど、この店での菓子は大丈夫。食べて」

 という朽葉の声で、私はそれを口に運んだ。もちもちとした食感と、ほんのりとした甘味が口の中に広がる。

「大体、分かったと思うけど、どうかな」

 こと、と湯呑を置いて、朽葉が尋ねた。

「大体、というのは……」

「この世界の仕組みとでも言うのかな。そもそも、世界として定義付けて良いのかも僕には分からないけれど。君からしたら僕は色々なことを知っていそうに見えるかもしれないね。でも、実は決してそんなことは無いんだ。ただ、此処で過ごした時間が少しばかり多いだけ。しかも、菓子商店の女将には目を付けられている。これらは、君と同居している灰色と同じさ」

 朽葉は、気のせいで無ければ少し自嘲的に口元を歪めた。目は細く閉じられていて、此方が見えているのかいないのか分からない。

「其処に書いてあったことはほとんどが真実と言っても過言では無い――」

 と、朽葉の言を遮って、客が誰一人としていなかった貸し本屋の引き戸が急に開かれた。

「邪魔するよ」

 今日、初めての客となる人物は、先程の話にも出て来た、この町の菓子商店の女主人であった。彼女は、いつか見たようにあでやかな赤と黒の着物に身を包み、朱塗りの塗下駄ぬりげたを履き、重そうなくらいに長くつややかな黒髪を束ね上げていた。

「今日の客は私だけかい?」

 女主人は朱をいた唇を必要以上に、にこりと三日月形に揺らめかせて言った。私が肯定すると、彼女は朽葉に改めて向き直り、告げる。

「お久し振り。元気かい?」

「まあ、そこそこ」

「そこそこ。ほう、そこそこ元気かい。そいつは良かったね。それにしても、静寂を愛するとまで言っていた朽葉。お前が、これと馴れ合うなんてね。灰色の入れ知恵かい?」

 女店主の横顔。先立ってよりも唇を歪め、朽葉に尋ねている。私は何も言えぬまま、ただ二者を見ているしか無かった。

「そんなことは無いさ。それよりも、今は忙しい時間じゃあないの。こんな寂れた貸し本屋に、何の用」

「何の用、と来たか。偉くなったもんだね、朽葉。ただの人間の成れ果てが。誰のおかげで、此処で生活出来ていると思っているんだ」

 女店主が少々、語尾を荒げて朽葉に告げる。朽葉は珍しく瞳を開き、彼女を見据えていた。その名前と同じ色の両の瞳に、女店主の姿が映っている。

「ふん、まあそれは良いさ。私の道楽のようなものでもあるからね、お前達を生かしているのは。今日、来たのはこの彼のことさ。なあ、お前さん。もう一度、菓子商店に来る気はないかい?」

 女店主が私に向き直る。その目は底が知れぬように深く黒く、まるで私を飲み込むかのようであった。

「待った。彼はもう既にうちで働いている。契約しているんだ。其方で働かせることは出来ないよ」

「いつ、契約を結んだというんだ。そんな話は聞いていないよ」

「此処で彼が働いている、それが証拠だ。給金も出す」

 そういえば、給金の話など全く聞いていなかったことを私は思い出す。此処では――この町では、頭の中でほとんどのことが何処かもやが懸かったようになってしまい、私はいつも大切なことを取り落としているような気がする。

 それにしても此処に来て何日かが経つが、私には良く分からないことだらけだ。それらについて、私は灰色や朽葉から説明を受けるのだが、やがて、ぼんやりとしたかすみの向こう側に彼らから聞いたことが漂って行ってしまう気がする。いや、漂流してしまうのは私なのだろうか。

 ふと、私は「振り返れ」という言葉を思い出す。灰色が何度も私に言った言葉だ。朽葉も言っていた。私は、此処に来て何日になるのだろう。確か、途中までは数えていた筈だ。今はどうだ? 思い出せるか?

「金など、此処では何の役にも立たないさ。大切なのは、えにしだろう?」

「良いのかい。店主自らがそんな核心を告げて」

「少しくらいは構わないさ。私はこう見えても今、機嫌が良いんだ。どうせ筋書はこうだろう? お前と灰色で、こいつを救おうというのだろう? その為に躍起になっているって所だろう?」

 朽葉は黙っていた。ただ、黙って、女店主をじっと見ている。

 私は、二者の会話を聞きながら、此処に来て幾日になるかを頭の中で必死に思い出そうとしていた。五日目までは数えていた気がする。それから幾つの日が経過したのだろう。

「出来やしないさ。大体、こいつ自身が必死になっていない。そんなこと、はたで見ているお前達には分かるだろう? かと言って、こいつを責めるのはお門違いさ。此処はそういう風に出来ている。誰しもが此処に従う他、無いのさ。お前も、こいつも――或いは、私もね」

 女店主が、何度目になるだろう、唇だけで笑う。

「出来るかどうかなんて、やってみなければ分からない。僕達は今、その途中なんだ。だから此処で働いて貰っている。此処で彼が働いている以上、菓子商店で働くことは二重の契約、不可能だ。彼が此処との契約を破棄するというのなら別だけれど」

 そこでやっと、朽葉は私を見た。朽葉色の両目が答えを促すようにちかりと光った気がする。私はと言えば此処に来て幾日になるかを考えていた最中だったので、急に話を振られて、遠くの場所から呼び戻されたかのように、はっとした。

「ねえ。君は、どうしたい?」

 朽葉が、言う。私は、かろうじて思い出す。この貸し本屋で働き出して今日が三日目になるということを。そして、それがとても大切だということを。

 思い出す。完全トーティエント数、三という数字。私には全てに理解が及ぶわけでは無いが、この町では三という数が非常に重要らしい。そうだ、春野華も言っていた。文字通り、消えるようにしていなくなってしまった彼女は、今、どうしているのだろう。この入り込んだ思考が、女店主へと向けて私の発言を紡ぎ出した。

「春野華がどうしているか、知っていますか」と。

 思えば、朽葉の問いを無視した形になった。それは申し訳無いと思う。だが、私にとって春野華は、順として灰色の次に親しくなれた、優しい少女だった。(灰色と私が親しくなれているかどうかは厳密には分からないが。)

 彼女は故郷へ帰った筈だったのに、あの日、私の前に現れた。そして、消えた。おそらくは雇用主であった女店主なら、何か事情を知っているのかもしれないと私は思った。目の前で彼女が消えてしまったという事実については、深くは気にならなかった。いくら私でも、もう分かっている。此処は、そういう町なのだ。

 私の発言を聞いた途端、もう何度目になるだろう、女店主は、にたりと笑んだ。

「あの子は故郷に帰ったのさ。それ以上、何か知りたいことでも?」

「そう、聞いてはいましたが……信じられないかもしれませんが、彼女は私の目の前で、掻き消えたんです。沼に案内してくれて。その途中で。故郷に帰ったけれど、土産を買う為に戻って来ていたんです。それで」

 私の言葉は、少々、整頓されていなかったかもしれない。私は、またも混乱していたのだ。いくら此処がそういう町だと思っていても、私と親しくしてくれた、此処での友人のような彼女が自分の目の前で消えてしまったのだ。あの時の混乱と困惑を、私は今、まざまざと思い返していた。すると、女店主は文字通り誘うように言った。

「それが知りたければ、うちに来て働かないかい? いや、あと一度、話をしてくれるだけでも良いんだよ」と。

 すい、と朽葉が私と女店主の間に移動した。まるで、私を庇うかのように。

「君に名前があれば、僕は君の名を強く呼んでいる所だよ。君が彼女を気にしていることは分かった。だけど、此処で君を奪われたくないんだ。これは、僕と灰色の彼のエゴイズムなのかもしれない。せっかく此処まで辿り着いた僕達を、邪魔されたくないんだ。今日で三日目になる。今日が本当に大事な日なんだ。今日を越えれば、君は少し自らの置かれている状況を理解する筈だ。かすみかった頭も、きっと、少し晴れる。此処で君を止めるのは僕らの勝手な行動だ。そして、君がどう行動しようと勝手な筈だ。どちらを選んでも構わない。だけど、もう一度、考えて選択してほしい。僕らか、菓子商店か。これ以上は言えない」

 ははは、と高らかに響く笑い声があった。

「これ以上は言えないだって? さっきからルールを壊してばかりのお前が良く言うよ。どうせ、その調子で色々なことを説明したんだろう? 説明したって無駄さ」

 私は、女店主の言に頷かざるを得ない。私は説明されたことを全て覚えていられていない。ただ、正しく振り返ること、というのは、何度も頭の中で警鐘が鳴るように繰り返されている。だから私は、こんな時でも考えている。私が此処に来て、何日が経過したのかと。

「なあ、お前さん。彼女のことを教えてやる代わりに、うちに来ないかい?」

 それは非常に蠱惑的こわくてきな声であった。また、その内容も、私の心を揺さぶるには充分過ぎる程のものだった。

 だが、三日、という数字が頭をよぎる。今日、この貸し本屋で勤務を終えれば私が働き始めて三日目が終了になる。三、という数字がこの町で如何に大切なのか、私にも薄々、分かってはいる。しかし、春野華のことが気になる。春野華が何処へ行ってしまったのか。一体、彼女に何があったのか。知りたい。

 私は彼女のことを思いつつ、女店主を見つめた。その深淵のような黒い瞳と目が合う。私はそれに耐えられず、女店主の着物に目を移した。あでやかな着物。緋色の生地に、黒い線が幾つも走った柄。そして、朱塗りの塗下駄ぬりげた。赤い、朱い色。

 途端、目の前が少しの間、真っ赤に染まった錯覚を覚えた。私は以前に、これに似た不吉な色を見たことがあるのではないか? 思い出せ。しかし、思い出せない。心の内側で葛藤が続いた。

「どうしたんだい。私の誘いを断るのかい?」

 ぐるうり、と脳味噌の中を掻き回すようにして女店主の声が私に響く。私は、しばしの沈黙の後、自らも思考として自覚していなかった言葉を吐き出した。

「あなたは、何者なんですか」と。

 聞いた途端、女店主の顔色が少々、変化したように見えた。気のせいかもしれないが。一方で私は、何故、そんなことを尋ねたのだろうと思い返していた。ただ、女店主を色で喩えると、恐ろしい程に真っ赤な色が想起される。何故、何故、私はそんなことを思うのだろう。また、私は忘れてしまっているのだろうか。自らの名前と同じくらい、忘れたくとも忘れられない筈の大切なことを。

「何者? ただの菓子商店の店主さ」

 女店主は、飄々ひょうひょうと答えた。だが、「ただの」という言葉に引っ掛かりを覚える。繰り返すが、この町が異質なことくらい、もう私にも分かっている。女店主が「ただの」菓子商店の人間であるわけが無いのだ。否、人間かどうかも分からない。

 私は、もう一度、女店主が着ている着物を見た。鮮やかな、赤。その色が私に警告する。近付いてはいけないと。

 そうだ、真に信用するはどちらだ? この、菓子商店の女主人なのか? 違うだろう。これまで、必死に私を助けようとしてくれた灰色と朽葉だろう。考えてみれば、私のことを何も知らない内から、灰色は私を助けようとしてくれた。未だ、何故、私をそうしようとしてくれるのか理由は聞き出せていないが、灰色はいつも真摯だった。菓子商店でも、自らの身を危ぶめてまで私を助けてくれた。朽葉も同じだ。おそらくは、この町での決まり事を侵してまで、私に協力してくれている。その朽葉が言うのだ、今日で三日目だと。今日を越えれば、私は置かれている状況を理解する筈だと。

 春野華のことは気になる。気になるが、菓子商店の女主人を信用することは出来ない。それから、灰色と朽葉の二者については、信用していることもあるが、情、もあったのかもしれない。私は二者が好きだ。共にいた時間は短いかもしれないが、惹かれている。彼らを、好きになっている。私の返事は決まった。

「其方には行かない。私は、此処で働く」

 その時、私は此処に来てから十二日が経過していることを思い出した。

「……ふん、そうかい。なら、用は無いさ。まあ、気が変わったらいつでもこちらは歓迎するよ。ああ、朽葉。灰色の奴と同じく、やり過ぎは禁物だよ。忠告したからね。これでも大目に見ているんだ」

 言い残し、女店主は乱暴に扉を開け、ぴしゃりと閉めて去った。不意に朽葉が振り返る。

「ありがとう、僕らを選んでくれて」

 光る朽葉色の瞳は、濡れたように光っていた。

「いや、此方こそありがとう。何処の誰とも知れぬ私の為に、色々と良くしてくれて。感謝している。右も左も分からないこの町で、私は灰色の彼と朽葉、君がいてくれたからこうしていられる」

 朽葉は、ぱちぱちと瞬きをした。

 すると、かんはつれずにまたも貸し本屋の扉が、がらりと開いた。灰色の彼だった。

「今、女店主が来ていたようだが」

「うん、大丈夫」

 灰色と朽葉は短い会話を交わし、両者共に私を見た。

「今日は此処に泊まって行くと良いよ。君の記憶が少しでも戻るかもしれないし、話したいこともあるんだ。今後、きっと君は忘れない」

「ああ、ありがとう」

「此処での三日は勝負の日数なんだ。皆、そのことに気付かず、菓子商店に行ってしまい、誘われるままに三度、自らの体験談を話してしまう。事実、君もそうだったろう?」

「私が止めねば、こいつは三度目の話をしてしまっただろうな」

 灰色が口を挟む。その通りだったので、私は頷く。

「そうなると、もう戻れない。此処で生きて行くしかなくなる。それくらい、その数字は大切なんだ。そういったことも含めて今日は君と話をしたい。それに、気になることもあるんだ。今日は此処にいた方が良い」

「気になること?」

 私の問いに、朽葉は肯定を返す。

「そうだな。とりあえず私は外灯を灯してくる。朽葉、あとで松明たいまつの用意をしてくれ」

「うん」

 言うと、灰色は玄関扉を開け、出て行った。

「じゃあ、店番の続き、よろしくね。それと、本当にありがとう。僕達を信じてくれて」

 ふより、と朽葉は奥へと引っ込んでしまう。私は再び椅子に座り、客が来るのを待った。だが、以降で外灯を灯した灰色が玄関扉を開ける以外に、その日、扉が開くことは無かった。


第九章【縁】2



 夜、日付の変わる少し前、私達は囲炉裏を囲んで、ただその小さな火を見つめていた。

 私と灰色は、以前のように此処に泊まることになった。今日を越えれば、私が貸し本屋で働き始めて三日目を終えることになり、朽葉の話では、私は置かれている状況を理解する筈で、かすみの懸かった頭も晴れるということだった。それは私としても願ったり叶ったりだ。

 だが、私の心情とは裏腹に、灰色と朽葉はほとんど言葉を発さず、雰囲気が重い。もう数刻はこうしているが、聞かれたことと言えば、「寒くない?」と「喉、乾いた?」くらいだ。いずれも朽葉によるもので、灰色に至っては無言だ。灰色が言葉少ななのはいつものことだが、心なし、その表情が固かった。

 今日は確かに三という数字を越える日で、大事な日なのかもしれないが、そのように厳しい顔付きをするようなものなのだろうか。私としては、自分の記憶か何かしらが得られるものと思い、少なからず喜ばしく思っているのだが。

「女店主の言葉を覚えてる?」

 不意に沈黙を破り、朽葉が私に話し掛けて来た。その朽葉という名前と同じ色の瞳をしばたたかせ、私をじっと見る。

 女店主は様々なことを言っていたので、正直、どのことを指しているのか分からず、私は問う。

「どの言葉のことだ?」

「此処ではえにしが大切だ、っていう」

「ああ、そういえばそんなことを言っていたが。どういう意味なんだ?」

「此処では――この町では、おそらくほとんどのことが縁で繋がっている。僕も、決して詳しいわけじゃない。ただ、長い間、此処で色々なものを見て来てそう思ったんだ。君は菓子商店で二度、話をしているよね。それはきっと、君自身に深く関わることだ。そして此処に来ることになったきっかけすら、含んでいると思う。それから、君は春野華という人のことを気にしていたね。それも、縁だ。君と全く関係の無い人物では無いと思う。そういうことが、もうすぐ少しでも君に伝わる筈だ」

「伝わる?」

「うん。何処か、遠い所から。もともと君が持っていたものが、少量でも、もうすぐ返される。ただ――」

 その時、ずずず、という、何か重たいものを引き摺るような音が聞こえた。

「来たな」

 灰色が、言う。

「うん」

 朽葉が、返す。

 二者は座布団に着けていた身をふわりと浮かせ、周囲を窺うように両目を動かした。ずずず、ずずず、という音が、一定の間隔を置いて繰り返される。私は、この音をいつかに聞いたことがある気がしていた。

「来たって、何が来たんだ?」

 私の質問に対する答えは無く、二者は互いに頷くと、灰色は玄関扉の方へと飛び、朽葉は私の真横に移動した。その間も、重い音は続いている。私は少々、空恐ろしくなり立ち上がろうとした。それを、朽葉に制される。

「動かないで。静かにしていて」

 押し殺したような声に、私は起こし掛けていた膝を元に戻す。がらり、と玄関扉が開く音がした。灰色が表に出たのだろうか。重く不気味な音は、気のせいでなければだんだんと近付いて来ているように思えた。何者かが、此方に来ている?

「朽葉」

 私が小さく名を呼ぶと、目だけで朽葉は応えた。

「私は、この音を聞いたことがある気がする。この町で。そして、それは確か、ひどく不気味で禍々しくて、およそ人の踏み入れられる領域のことでは無かった気がする。はっきりとは覚えていないのだが、私はそこで、見てはいけないものを見てしまったような……」

 朽葉は黙して答えなかった。

 代わりに、

「此処にいて」

 と言い残し、玄関扉を開けて表へと出て行ってしまった。

 重たい何かを引き摺るような、ずずず、ずずず、という音は、確かに近付いて来ていた。私は冷や汗が滲むのを感じる。大の男が情けないと思われるかもしれないが、私は得体の知れない恐怖から心細さを感じ、灰色、朽葉、と小さく声に出して呼んだ。答える声は無く、その間も不気味な音は続いている。しかも、大きくなって来ている。近付いているのだと明らかに分かる。

 灰色と朽葉は外へと行ってしまったが、大丈夫なのだろうか。私は、此処で何をしたら良いのだろうか。そもそも音の正体は何なのだろうか。そんなことが一度にぐるぐると頭の中を何度も何度も駆け巡り、私は少し気持ち悪さを覚える。

 その時、不意に高く細い鳴き声のようなものがした。それは女性の叫び声を凝縮し、糸の形にしたような、何処かさびしく、だが、空恐ろしいものだった。動物の声では無い。およそ、この世の生き物では無いと思われる鳴き声だった。

 そして、重たく鈍い音は止まった。私の勘違いで無ければ、音はこの貸し本屋の前で止まったように思える。私は凍り付いたようにして、ただ其処に座っていた。いつの間にか下を向いていたのだろう、両膝の上で握り締められた自身の両の拳が目に入る。此処にいて、と言った朽葉の声が心の中で飽和するように繰り返された。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。四半刻しはんときは経っていないように思えるし、それ以上の時が経過したようにも思える。未だ、灰色も朽葉も帰って来ない。あの重たく、何かを引き摺るような音も聞こえては来ない。ということは、その生物とも何とも分からない何かは、まだ貸し本屋の前にいるということではないだろうか?

 私はゆっくりと立ち上がり、玄関扉の方を窺った。其処で、私は息を飲む。煌々こうこうとした二つの火に照らし出された黒い影。それは扉より遥かに大きく、上が見えない、巨大な何かであった。二つの火は、おそらく松明たいまつであろう。そして、それが生み出す影から、持っているのは灰色と朽葉であろうということが分かった。

 私は思わず、一歩を踏み出す。同時、朽葉の言を思い出す。だが、私は彼らが心配だった。そして、巨大な影に恐怖を抱きつつも、負の好奇心を覚えていた。

 私は、これを見たことがあるのだ。そうだ、僅かながら覚えている。借り宿としている自室の明かり取りの窓から、金色こんじき猩々緋しょうじょうひの色彩を見たことがある。そして、いつかにも灰色と朽葉と共に遭遇したことがある。私は記憶を辿る。一人、明かり取りの窓からそれを見た時、激しい赤の中にある輪郭を見極めようと、目を凝らした覚えがある。結局、明確に認識することは叶わなかったが、私はもう二度も、この「何か」に遭遇しているのだ。

 二度。その回数が引っ掛かる。此処では、三という回数が重要視されている。そう、朽葉に聞いた。

 ――振り返れ。

 どきりとする感覚を伴って、灰色の言葉が脳内で反響する。それは、今までになく強く響き、私の心の真ん中に落ちた。

 私は、未だ動かない三つの影を見ながら、思い出そうとした。何を思い出そうとしているかは分からない。だが、思い出したいことがある。それだけは、はっきりと分かった。焦燥感が火のように私に滲む。思い出せ。私はこれまで、こんなに簡単に物事を忘れる性質では無かった筈だ。此処に来てから何かが狂い出してしまっている。思い出せ。

 私は知らず、玄関扉に近付いていた。恐怖で目を閉じてしまいたいという心情と、全てを見極めたいという心情が葛藤し、結果、私は目を見開くようにして此処に存在していた。あと数歩で扉に手が届くという時、私は以前、朽葉に言われた言葉を正しく思い出した。

 ――三は最小の完全トーティエント数。まあ、それ自体にはあまり意味は無い。完全云々は三という直接の呼称を避ける為に用いているだけなんだ。言わば、忌み名や隠し名のようなものだね。それで、三という数字には古来から様々な意味があってね。たとえば、物事の成り立ちとか物事が複雑化する象徴であるとか。色々な捉え方がある。此処では特に、そういう意で使われているんだ。つまり、物事の成立、或いは複雑化。或いは、反転。

 ――反転?

 ――そう。もしくは現実化。この町では三という数字、回数が極めて重大な位置にある。君がそれを手にしてしまうと、君はもう此処を現実にするしかなくなるんだ。僕らのようにね。

 その記憶の中で、幾つかの単語が私の中で拾い出される。三。成立。複雑化。現実化。私は、この扉を開けて金色の化け物を見れば、それは三度目の遭遇になる。朽葉の声が頭の中で再び響く。

 ――君がそれを手にしてしまうと、君はもう此処を現実にするしかなくなるんだ。

 だが、私は足を進めた。直感と言っても良い。この扉の向こう側に、私の求めていた解があるような気がした。

 思えば私は、灰色に助けられ、朽葉に導かれ、今日までを過ごして来た。何処とも知れないこの町で、私は生きて来られた。菓子商店で三度、自らの話をし、三度、其処の菓子を口にすることは危険なことで、もう引き返すことの出来ないことになるのだと、はっきりとでは無いが二者に教えられた。とても感謝している。

 しかし、私はもう教えられ、待つだけの身でいることはしたくなかった。灰色も朽葉も、自らの身を危ぶめてまで私に真実を語り、体を張って私を守ってくれた。今も、そうだ。二者は松明たいまつを掲げ、家屋の外にいる。私は家屋の中にいる。安全と思しき、家の中に。

 私は扉に手を掛けた。もしかしたら、金色の化け物と三度の遭遇を果たすことで、私はもう帰れなくなるのかもしれない。私は自分の名も故郷の場所も忘れてしまったが、それでも帰りたいと思う。その願いを、今、自分の手で壊そうとしているのかもしれない。

 けれど、私は自分の目で確かめたい。金色の化け物が、何であるのか。そして、胸に引っ掛かる棘のような予感の正体を。心を決め、私は思い切って扉を開けた。

 其処にはそれぞれに松明を掲げ、宙空に浮かぶ灰色と朽葉の姿があった。そして、金色の毛に包まれた、山のように巨大な生物と思しき何者かの姿も。

 私がそれに呆気に取られていると、

「何故、来た!」

 と、灰色が大きな声で怒鳴るように言った。

 だが私はその怒声よりも、目の前を埋め尽くすようにして広がる風景――いや、化け物に目を奪われ、ただ立ち尽くすばかりだった。そして、思い出して行く。ああ、やはり私はこの化け物に出会ったことが二度、あるのだ。これで三度目の邂逅なのだ。だが、今までと違う点――いや、一度目の邂逅の時、確かこれに似た様子を私は見ている。明かり取りの窓の隙間、私はこの化け物を確かに見、金色の毛が裂かれるように割られて、その中の猩々緋しょうじょうひが溢れんばかりに禍々しく私の目に映ったことを覚えている。そして其処に、何かの輪郭が幾つか見えたことも。

 私は、一歩、踏み出す。恐ろしく思いつつも、私は手を伸ばす。其処には私の知る人物がいたからだ。

「何をしている! 戻れ!」

「近付かないで!」

 最早、灰色の声も朽葉の声も、私の耳を擦り抜けて行くだけだった。強く尖った両者の声は私を止めるには適わなかった。

「春野、華……」

 猩々緋しょうじょうひの中心、其処には春野華がいた。まるで化け物に取り込まれるようにして両腕と両足の半分近くは猩々緋の中に埋まり、体も所々、血のような赤の中に沈んでいた。それはまるで血の海の中を漂っているようにも見えた。松明たいまつに照らし出された彼女の顔色は蒼白で、生きているのかどうか分からない程、生気が無かった。両目は力無く閉じられ、青白い唇は何も語らなかった。

 私は彼女の名を呼んだ。それでも反応が無い。化け物の中、猩々緋の断面はそんな彼女と正反対のように、生きているように、力強く脈打っていた。諸処に血管のようなものが見え、それは猩々緋の全体と同時に呼応するように心臓の鼓動の如きものを刻む。

 私は更に足を踏み出し、三度目になる、春野華の名を呼んだ。

「華!」

 それを阻むように、灰色と朽葉が松明を交錯させ、私を止める。少し、火の粉が散った。

 私は思わず灰色の肩辺りに手を掛け、食い掛かるように尋ねた。

「これはどういうことだ! 何故、彼女がこんなことになっている! この化け物は何だ、一体、一体……!」

「落ち着け!」

「これが落ち着いていられる状況か! 何故、この化け物は此処に来た! 私が目当てか? ならば私を喰えば良い!」

「落ち着いてよ! 君は帰るんだ、君の帰るべき場所に。正しく振り返るんだ。思い出せる筈だ。これは悪夢なんだよ。君には君の正しい場所がある」

 その時、ずっと沈黙していた化け物が言葉を発した。それは地を揺らすような、地の底まで響くような、おどろおどろしい声音だった。

「悪夢とはうまく言ったものだな、朽葉。だが、これは夢では無い。此処に来た人間が、正しく振り返ることなど出来はしないさ。灰色やお前の手助けは意外だったが、どうせ自分を重ねているのだろう? 結局、名も故郷も忘れ、正しく振り返ることが出来ず、姿を変えてまで此処に留まることしか出来なかった自分達を。この人間を助けることで、自分が救われた気になりたいのだろう? 私には手に取るように分かるさ、お前達の気持ちはな。哀れなことよ」

「そんな、僕達は、そんな……」

「朽葉、聞くな!」

 うなだれる朽葉を叱咤するように灰色が叫んだ。

「この人間が仮に正しく振り返り、正しく居場所に戻れたとしようか。それでもお前達は救われないよ。この人間と別れるだけの話だ。それならばいっそ、共に在れば良いではないか。三者で傷を舐め合うと良い。この人間にも、お前達のように永住権を与えてやっても良い。私の邪魔をしないという条件付きならな。でなければ、こうして私に喰われるだけさ、大抵の人間は。いいや、人間とも最早、呼べぬのかもしれないがな」

 ははは、と嘲笑うように化け物は笑った。その笑い声が私を正気に返らせる。いや、この状況で、何が正気で何が狂気なのかは分からなかった。だが、私は恐怖を打ち払い、化け物に向けて叫んだ。

「春野華を放せ!」

 化け物は一度、天空まで届きそうな体をぶるりと震わせ、言った。

「無駄さ。死に行く者に慰めは無用」

 途端、猩々緋の中に濃紺の泡が幾つも幾つも湧いた。ぶくぶくと湧くその水泡は、やがて速度を速め、春野華を飲み込んで行く。

「華! 目を覚ませ、華!」

 私を遮る松明に手を掛け、私は呼び掛けた。だが、ついぞ春野華が目を開けることも、その唇が何かを告げることも無かった。水泡だらけの中、春野華は飲み込まれ、全ての濃紺の泡が消えた時には春野華の姿も泡のように消えていた。

「春野、華……華……」

 私は何かをなくしたように呟いた。いや、事実、目の前でなくしたのだ。春野華という人物を。彼女は死んでしまったのだろうか?

「中に戻るんだ」

 灰色が強い口調で言った。だが私は、その言を無視して化け物に尋ねた。

「華、華は! 華は……!」

 尋ねたとは言い難いかもしれない。私の口は、華、という言葉を繰り返すだけで文章になってはいなかった。消え行く泡沫うたかたのように生まれては、はじけ、空気中に溶けて行くだけだった。そんな私を嘲笑うかのように化け物は言った。

「たった今、死んだのさ」と。


第九章【縁】3



 私は、松明たいまつに掛けていた手の力が抜けた。同時、情け無いことにその場にへたり込んでしまった。そんな私に灰色と朽葉が声を掛ける。灰色は先程と同じように、中に戻れと。朽葉も似たようなことを言ったかもしれない。最早、二者の声は揺り籠の遠くから聞こえて来ているようで、私の内耳ないじには正しく届いていなかった。中に戻る? 中に戻ってどうしろと? 華が死んだ? 何故?

 混乱する私に、再度、二者が声を降らせる。それでも私の思考は止まらず、立ち上がることは叶わなかった。二者の声より遥かに大きな声だった、私の思考を止めたのは。そう、見るのも恐ろしい、目の前の化け物の声だった。

「教えてやろうか。お前は悲しむ必要など無いのだよ。お前は一度、失っている。それをまた失っただけさ。それも魂の残骸のようなものを。そうさ、悲しむ必要など何処にも無いのさ」

「黙れ!」

 灰色が叫んだ。それでも化け物の声は止まない。

「お前は正しく振り返れない。いや、お前に限らず、此処に来たものは正しく振り返ることなど出来はしない。お前が華と呼ぶ奴すら、無駄だった。禁忌だと知ってか知らずか、草紙を出すのだと言って、何か書き留めていたようだがな。そんなものは塵芥ちりあくた同然だ。此処で大切なことは忘れることさ。受け入れることさ。お前は私の言う通り、菓子商店で働いていれば良かったのだ。そうすれば、無駄な希望を囁かれることも無かった。そいつらが何を言った所で、所詮は失った者の言葉。何にもなりはしないさ」

「僕達は……」

 朽葉の声が、ささやかに響く。それを引き裂くようにして化け物が言う。

「華とやら。確かにおいしく頂いた」と。

 私は涙も忘れて足元の地面を見るとは無しに見ていた。

 途端、先程に聞いた女性の細い悲鳴のような声が聞こえた。私が気怠い気持ちで、それでも引き摺られるようにして私が顔を上げると、其処には既に猩々緋しょうじょうひの山のような姿をした化け物はいなく、代わりに、菓子商店の女店主の姿があった。いつか見たように、あでやかな着物、朱い紅をして。その唇は三日月型に笑みを刻んでいた。

 理解が追い付かなかった。消えて――おそらく死んでしまった華。そして猩々緋の化け物の代わりに現れた女店主の姿。これは何を意味するのか。その私の疑問をまるで汲み取ったかのように、女店主が口を開いた。

「可哀想に。自らの名も忘れ、故郷も忘れ、こんな異郷に辿り着くとはな。だが、お前が初めてじゃない。悲しむことは無いさ。そう、お前の目の前で死んだ、春野華もそうさ」

 するとかんはつれずに朽葉が怒鳴るようにして言った。

「嘘を言うな!」と。

「嘘なんかじゃないさ。確かに春野華という人間は先程まで此処にいた。いや、人間だったもの、という言い方をした方が良いのだろうかね。彼女は良い店員だったのだがね。惜しいことをしたさ」

「思ってもいないことを」

 今度は灰色が淡々と告げる。

「いいや、本当さ。彼女は良い店員だった」

 だった、を強調するように女店主が言う。

「だが、踏み込む領域を間違えていたようだね。彼女の書き留めていた話。あれは現世うつしよと繋がる扉を開こうとしていた。脅威でもあったのさ。ただ、本当に良い店員だったからねえ。私も悩んださ。其処の男のことを除いても損と出るか得と出るか、思案していたのさ。まあ、結果的にはこのようなものになったが。仕方の無いことだね」

 私は、その言葉に立ち上がった。

「何が仕方無い! 何が仕方無いんだ! 何故、華がお前の都合で死ななければならなかったんだ! お前が何者であろうと、どうでも良い。今すぐ華を元に戻せ!」

「それは出来ない相談だね。幾ら此処が幽世かくりよとしばしば呼ばれる場所であったとしても――死んだ命を元に戻すことは無理さね。お前さんの世界でもそうだろう? 死んだ人間が生き返ることがあるかい?」

 死んだ。その言葉が、何度も胸に突き刺さる。

「お前が華を殺したのか」

「まあ、結果としてはそうなるかねえ。だが、遅かれ早かれあの子は死の道を歩んだだろうよ。彼女は生を忘れていなかった。忘却の川に身を浸しても尚、自分が生きていた頃の思い出とでも呼べるものに縋っていたね。だから書き物などしていたのだろうが……最早、どうでも良いことさね」

「どうでも良くなんかない! 華は……!」

 其処からは言葉にならなかった。華が目の前で死んだ。喰われた。そればかりが頭の中を巡り、廻り、私の理解の及ばない所に辿り着く。本当に、本当に華は死んだのか。そんな私の感情が顔に出ていたのだろう。そっと朽葉が私に手を置いた。灰色は私の顔を、ただじっと見ていた。

「私は、そろそろ帰るとするよ。これでも忙しくてね。ただし、灰色。朽葉。これ以上、その男に力を貸すなら此方にも考えがある。ゆめゆめ忘れないことだね」

 かつん、塗下駄ぬりげたを鳴らして女店主は私達に背を向けて歩き出す。町一番の菓子屋へと。私は赤い着物を着た禍々しいその女店主に、もう何も言うことが出来なかった。

「家へ、戻ろう。此処は、君の本当の家では無いけれど。中に入ろう。もうすぐ君は、元いた場所へ帰れる筈だ。勘だけどね。灰色の話によると、君は菓子商店の菓子を二度しか口にしていないのだろう?」

 朽葉の問い掛けにただ私が頷くと、ほっと溜め息のようなものが朽葉から洩れた。

「それなら、まだ機会はあるんだ。君が此処に来てからの日数も鍵になっている。君は、まだやり残したことがある筈だ。色々と整理し、思い出してほしい。僕達も協力する。ね、灰色」

「ああ、無論だ」

 両者の言葉を受けて私は危惧を覚える。

「だが……先程、女店主も言っていたが、お前達が私に協力することは危険なのでは」

 ふる、と朽葉が首を振る。

「良いのさ。女店主の言っていたことも強ち間違いじゃない。僕は――僕達は、君を救うことで自分が救われたがっているだけの、ただのエゴイズムで動いているだけかもしれないんだ。それでも信じてほしい。君を助けたいのは本当だ。もう菓子商店には近付かない方が良い。仮の家にも戻らない方が良いだろう。食事などは此方で用意する。それに、おそらくもうあまり時間が無い。君が此処に来て何日になる?」

「十二日だな」

 朽葉の問いに、私は、はっきりと答えた。先程に思い出した数字だ。

「そして先程の猩々緋しょうじょうひの化け物との遭遇。これで何度目?」

「三度目だな」

「前にも話したけれど、此処では最小の完全トーティエント数が重要な意味を持つんだ」

「反転、現実化、だったか」

「そう。だから僕と灰色は君が化け物と遭遇してほしくなくて家にいるように言ったんだ」

「……すまない」

 其処に灰色が言葉を挟む。

「いや、どの道、無駄だったかもしれんな。化け物が此処まで来たということは。もうこの男に狙いを定めている証拠だ。菓子商店で働く誘いも受けたことだしな。それは断ったが」

「狙い? 私も喰われるということか?」

「いや、現実化だ。お前が此処で生きていかねばならなくなるということだ。まあ、此処に存在することが生きていることになるのかは、私にも分からないが」

 少し自嘲気味に灰色が話す。そして続ける。

「朽葉の言う通り、まだ機会はある。お前は自分の何かやり残したこと――何か引っ掛かることを探すんだ。ただ、あまり時間は無い。急ぐことだ。正しく振り返ることだ」

「さあ、中に入ろう。僕は松明たいまつを片付けて来るから」

 そう朽葉は言い、灰色から松明を受け取ると家の裏側にふよりと飛んで行った。灰色は家の扉を開け、まるで私を待つような仕草をしてみせた。その何処か人間らしい所――そして、今までに聞いた話を合わせて考える。朽葉と灰色はかつては人間で、何かのきっかけで此処に迷い込んでしまい、帰れなくなってしまったのかもしれない――と。だが、私がそれを両者に言うことは無いだろう。それは、残酷な刃のような現実に思えたからだ。

 私は礼を言い、家――貸し本屋の中に入る。灰色が続き、やがて朽葉が戻って来た。施錠をして、私達三者は眠りに就いた。


第十章【惜別】1



 薄明かりが明かり取りの窓から入り込み、私を照らしていた。朝が来たのだ。目を細めてその光を見ていると、何処か懐かしいような気がした。どうしてかは分からない。ただ私は、その光をいつかに何処かで見た、ような――。其処まで考えた時、大丈夫? という声が聞こえた。振り返ると朽葉が心配そうな、遠慮気味な瞳で此方を見ていた。その少し後ろには灰色の姿もあった。二者はいつものようにふよりと浮き、ただ、私を見ていた。

「ああ、大丈夫だ。まだ起きるには早いのじゃないのか」

 私がそう声を掛けると、幾分かほっとしたように朽葉の目が細くなる。

「僕達には眠りはあまり必要では無いんだ。ね、灰色」

「……まあな」

 何か含みありげに灰色が言う。私は、特にそれについて追及するつもりは無かった。

「それより、何か思い付いたか」

 灰色が私に尋ねる。昨晩に言われたことだろう。何か、引っ掛かること。ああ、そうだ。あの、光。私は改めて明かり取りの窓から入って来る太陽光を眩しく見つめる。思い付いたというわけでは無いが、と前置きして私は二者に向き直り、話し始めた。

「この光と良く似た光を、何処かで見た気がしたんだ。何、太陽の光だ、此処では何度も目にしているし、おそらくは私が元いた場所にも太陽はあるだろう。私が人間で、此処とは何処か違う場所で生活していたのなら、だが。この太陽の細い光を――私は……見たんだ。うまく言えないが、きっと、此処に来る直前に……何処か知らない……浅く、深く、揺れ動く、何処か。

 そして、その記憶を元に、華に話をしたんだ。華は、私の話を書き留め、微笑んでくれた。あの光は……何処か遠い、水の中のような。そして華は言っていた。沼が綺麗だから一緒に見に行かないかと。確か……北の沼だ。私達は共に、その沼を見に行った。だが、華は消えて。沼も、世辞にも綺麗とは言えなくて。ただただ、暗澹あんたんとしていて、私には恐ろしいものだった。夕焼けの空の色も映さず、光も無く。魚の類の姿も無く。そうしたら朽葉が声を掛けてくれて。私は、はっとして沼を後にしたんだ。

 思えば何故、あの時、華は消えてしまったのか……。華の『綺麗』と言っていた沼は綺麗では無かったし……私は何となくだが、あの沼をもう一度、見に行きたい。まとまりが無い話ですまない。太陽の光と沼は全く関係無いように思えるし、沼を見た所で何が解決するとも思えんのだが。正直、見たくは無い気持ちもあるんだ。吸い込まれそうな、沼。だが、光と沼――光と水。この二点が、何か引っ掛かる」

 私が話し終えるまで、灰色と朽葉は黙っていてくれた。話し終えて二者を見遣ると、両者共に深刻な四つの目で私を見ていた。灰色は滅多に目蓋を開けることは無いのだが、今はそれが開かれている。闇夜に浮かぶ三日月を思わせる、二つの瞳。そして朽葉の、名の通り朽葉色で空に浮かぶ三日月を思わせる、二つの瞳。私は一呼吸し、告げた。

「今から、沼を見に行って来る」と。




 ――此処に来て、十三日目の朝。私は自分の言葉通り、沼を見に行くことにした。北の沼。春野華が「綺麗」だと言っていた、しかし私にはとても「綺麗」とは思えなかった沼。

 私は、一人で行くと、灰色と朽葉に告げた。何故? と、不思議がる二者に、特別に理由など無いと私は言った。だが本当は、ある。私はこれ以上、灰色と朽葉を巻き込みたく無かった。

 これまでの経緯をかんがみるに、二者が自分の身を危険に晒して私を助けてくれていることは明白だった。灰色と朽葉は――菓子商店の女主人の言を真と完全に捉えているわけでは無いが――此処で、生きて行くのだろう。私は、何処か違う場所へ帰ろうとしている身だ。私のような者が、此処で生活している者たちの邪魔をしてはならないと私は強く感じていた。

 本当ならば、私は彼らを助けたかった。私の力になってくれている、灰色と朽葉を助けたかった。もっと、もっと欲を言えば、菓子商店の売り子達は? 本当に此処にいるべき者達なのか? と自問した。助けられるならば、助けたいと。自分の名すらも思い出せない私だが、灰色と朽葉が私にしてくれたように、私も皆を助けたいと。だが、それは二者の言葉によって悲しく、だが、あっさりと否定された。

「君の気持ちは受け取ったよ。ありがとう。だけど、君が薄々と感じているように、僕達は此処で生きて行く。生きている、とも言いづらい形の生かもしれないけれど。僕の名前は、もう思い出せない。遠い、遥か彼方に置いて来てしまった。それを後悔すらしていない。後悔すら、此処では出来ない。流れて行く、膨大で圧倒的な時間の中に身を浸して、静かに息をする。それしか、出来ない。女店主の言ったことは、当たらずとも遠からず。僕は――僕達は、君を助けることで、いつかの自分を助けたいのかもしれない。過去の自分を、重ねて見ているのかもしれない。それでも、良いかな。君を、助けさせてくれるかな?」

 朽葉の真摯な言葉に私が頷くと、ありがとう、と返される。そして、灰色と呼ばれて久しい灰色の彼が、いつに無く多くを話した。

「お前は正しく振り返れる筈だ。そういう奴だから、私は及ばずながら力を貸したつもりだ。お前が本当に生きていたい場所へ、自分を運ぶんだ。この短いような長い時間、私は近くでお前を見て来た。私とお前は、そうだな、少しだけ何処か似ているように思う。朽葉の言を借りると、いつかの自分――という奴かもしれない。それが一番、収まりが良いように思う。お前を助けることで自分自身が救われたいのかもしれない。自己救済、という奴かもしれない。確信は無いが。それでも良ければ、力を貸す」

 私がやはり頷くと、そうか、と灰色が返した。

 ――私達三者は、一様になって北の沼への道を辿った。

 やがて、灰色も朽葉も私も、道すがら一言も発すること無く、北にある沼へと辿り着いた。

「これか」

「ああ」

 灰色の、確認を取るような独り言に私は肯定を返す。

「確かに、綺麗では無いね」

 朽葉の言葉にも、私は肯定を返す。

「だが、春野華は言ったんだ。確かにこの沼が、『綺麗』だと」

 私も言いながら、沼の水面を目を凝らして見つめてみる。しかし、沼は以前に来た時と様相を変えずに其処にある。ただただ暗澹あんたんとしていて、生物の影も無く、朝時分の太陽の光も映さない。底の見えない、暗い沼。時々、藻のようなものがうごめいているのが見えた。蠢いているように見える――と言った方が正しいのかもしれない。はたまた、藻であるかも分かりはしない。少なくとも、私には藻のように見えた。それだけだ。

 私は、この沼に「普通」を見出そうとして、藻のようなものが蠢いて見えたと考えているのかもしれなかった。けれども反面、「普通」では無いという期待も持っていた。いや、此処に来てから十二日間が過ぎたが、「普通」なものなど何も無かったようにも思える。だが、それでも思う。この沼が、そうであるようにと。

 私の記憶の底で光る、陽光と水のイメージ。華に語った物語。しかし、私の語った物語では、海の中に太陽の光が美しく差し込んでいたと記憶しているが、この沼には陽光の欠片も入り込む余地が無い。ひたすらに射干玉ぬばたまの如くに黒く染まっている。闇の色だ。一心に沼を見ていた私を危惧したのか、朽葉が私に声を掛けた。

「どう? あまり近付かない方が良いかもしれないよ」

「あ、ああ。すまない」

 一歩、沼から下がって、私は改めて沼を見つめる。確かに不気味な沼だが、特段、変わったことは無いように思えた。ただ、華の言葉が気に掛かる。華は言った。この沼が「綺麗」だと。

「どう思う?」

「私には分からんな」

 朽葉と灰色が、ふよりと浮いて沼の周囲を回る。

「大丈夫か」

 二者を案じて、そう声を発した私を灰色が振り返り――振り返る、瞬間を狙ったのだろうか、とでも言うかのような一瞬だった。波紋一つ、無い沼だった。それが急激に、水面に泡が出来る程に波気立ち、巨大な水柱を作った。そしてそれは、まるで命あるものかのように灰色に襲い掛かり、灰色を飲み込んだ。

「「灰色!」」

 朽葉と私の声が重なる。私より灰色の近くにいた朽葉は、駆け寄るようにして灰色の姿があった所へ近付く。

「朽葉!」

 私も、その場所に距離を詰めながら、今度は朽葉が飲み込まれるのではないかと案じ、朽葉に制止の意味も込めて叫んだ。その、ほんの数秒の間に灰色を飲んだ水柱は一気に高さをなくし、急速に沼の中へと戻って行く。

「灰色!」

 朽葉が水面まで身を移し、悲痛に叫んだ。だが、灰色は上がって来ない。泡一つ、浮かんでは来ない。

 私は、履物を脱ぐのも忘れて沼に飛び込もうとした、その時だった。私の片腕を力強く掴む者があった。前のめりになっていた身を引き戻されて反動に顔をしかめながら私が振り返ると、女主人が真っ赤な紅を三日月の形にして、微動だにせずに立っていた。何を、と言い掛けた私よりも先に、女主人の足元に控えるようにして立っていた白い猫が人間の言葉を話した。たった一言。愚かなことよ、と。

 私は激情に任せて、女店主の手を振り切り、再び沼へ飛び込もうとした。

 ――その時、再び激しい水柱が上がり、岸辺に灰色が乱暴に吐き出されるようにして投げ出された。すぐさま朽葉が駆け寄る。私も今度こそ女店主を振り切り、灰色の元へと駆けた。

「大丈夫か!」

 私の声にも反応しない、灰色。朽葉が泣きそうな声で、灰色の名を呼んだ。

「つくづく哀れなことよな。まあ、仕方あるまい。沼にも間違いはあるだろうよ。不用意に近付いた、お前が悪い」

「間違い?」

 灰色の元から女店主を見上げると、くっと唇を上げて、彼女は続けた。

「そうさ。人間という奴は過ちを犯すのだろう? それと似たようなものさ。この沼には意識があるのか――時々、獲物を間違うのさ。何、私の監視下にはある。心配はいらない。普段ならな。其処の灰色は、まだ現世うつしよに未練があったようだな」

 そして、溜め息を大仰な仕草で吐き、先程にも言った言葉を言う。哀れなことよ、と。

「その点、朽葉には感心する。とうに現世への未練は無いと見られる。此処に慣れ親しんでいる証だな」

「何を……」

 朽葉の戸惑いに満ちた声が場に広がる。

 刹那、ごほっという大きな咳と共に、灰色が身を起こした。

「灰色!」

「良かった!」

「安心している場合か?」

 私達三者は、女店主の足元に優雅に控えている白い猫を見た。今の言葉は、その猫から発せられたものだ。そういえば、と私は思う。確か、菓子商店で会ったことがある、と。あの時は、灰色が私を止めてくれて――。

「次の獲物は、お前ぞ。逃げなくて良いのか、人間」

 黒曜石のような瞳で、まばたきもせずに白猫は言った。灰色と朽葉の視線が私に集まる。

「私?」

 その短い私の問いとも言えぬ言葉が終わるよりも早く、またも沼から激しく大きな水柱が上がった。だが、水柱の立てる音よりも大きく、地の底にも響きそうな声音で、女店主が一言、告げた。命ずるように。

「待て」

 するとたちまち水柱は勢いをなくし、沼に吸収されるかのように高さもなくして行く。瞬く間に水の柱は消え失せ、沼には波紋一つ無くなった。

「あまり脅してやるな」

「寛大ですね。この町の暗黙の決め事を幾つも破った、この三者。店主はお怒りかと存じました」

「それは確かにあるがな。最早、隠し立てすることも無かろう。どの道、此処までだ。この人間は此処には似つかわしくない。他の魂の為にも、お帰り願おう」

「御意」

 静かな場所に、女店主と白猫の言葉が響く。

「人間」

 女店主が、私を見た。そして、黙り込む。その目は強く鋭く、逸らすことは叶わなかった。だが、元より逸らすつもりなど無かった。女店主は明らかに、あの猩々緋しょうじょうひの化け物だ。春野華を喰った化け物。許さない、絶対に。その思いをぶつけようと、私は口を開いた。

「春野華は、どうなったんだ」

 すると、女店主は呆れたように笑った。

「お前は此処まで来て、他人の心配をするのか。いや、他人というのもおかしな話か」

「どういうことだ」

 私の問いに、女店主は腕を組んで、ふむ、と唸った。

「やはり、気が付いてはいないか。これ程までにこの町を引っ掻き回した奴は、お前が初めてだからな。もしやとは思ったが。期待が過ぎたか。まあ良い、答えてやろう。お前は、私が春野華とやらを喰ったと思っているようだが――まあ、あながち間違いでは無い。しかし、私としてはそのように恨まれるのは心外だな。あの娘は、私の菓子商店の元、売り子。店主の私が、どう采配を取ろうと何ら文句はあるまい?」

「そんな言葉では誤魔化されない。もう一度、聞く。春野華を、どうしたんだ」

「どう、とは? そうさね、喰ったというのは語弊がある。だが、あれはもう魂のかすれがひどく滲んでいた。遅かれ早かれ、消滅するのが定め。私が自ら最後を決めてやっただけさ」

「消滅?」

「定着しない魂は、消滅するのが定め。あれは現世に心残りが多々、あった。物語を書き留め、いつか出版すると夢を語る。まるで人間のように」

「彼女が人間じゃないとでも言うような口振りだな」

「形だけなら人の子さね。それを言うなら私もだが」

「彼女と、お前が一緒なものか!」

 私が感情的に叫ぶと、白猫が口を開いた。

「人間。度が過ぎるぞ。店主自ら問答してくれること、その身に余ると知れ。これ以上、失礼を働くならば容赦はしない」

 白猫は立ち上がり、長い尻尾を一振りして見せた。それに、女店主が言葉を続ける。

「まあ、これで最後になる。大目に見よう」

「御意」

 白猫は姿勢を戻した。だが、黒い両の目はしかと此方を睨んでいる。


第十章【惜別】2



「――もう、頃合いか。そうさね、人間は最後の別れというものがあるのだろう?」

 女店主は腕を組み直し、私を――私達、三者を――改めて見た。

「時間をやろう。人間、灰色、朽葉。別れの時だ。最後の言葉を交わすんだな」

 私は思わず、灰色と朽葉を振り返った。灰色は珍しくその瞳を開いており、以前に白い猫と似ていると告げたら不快さを滲ませた闇夜を其処に静かに湛えていた。朽葉はその名前と同じ色の瞳で、私を何処か不安そうに見つめていた。私はというと、まだ女店主の言葉の指す所が分かり兼ねていて、ただ、はっきりと聞き取れた「別れ」「最後」という単語が、ゆっくりと頭の中で回転灯篭かいてんどうろうのように廻っていた。

「どうした、人間。別れの言葉は無いのか?」

 畳み掛けるように、女店主が私に問い掛ける。

「いや、言っている意味が……別れとは何だ?」

 ――否。私は、本当は分かっていた。

「お前を帰してやろうというのだよ。私の負けさ。最小の完全トーティエント数を越えること無く、お前は私に勝ったのだ。魂のかすれに、完全に惹かれることも無く」

 ふ、と女店主が笑んだ。

「お前は見込みがあると思ったんだがねえ」

「……帰す、とは」

「お前を現世に帰してやろう。今日で十三日目を迎えるお前に、もう用は無いさ。これ以上、此方を引っ掻き回されても私も困るのでね」

 ――帰す。帰れる?

「……どうやって」

「簡単な話さ。其処の沼に身一つで飛び込めば良い。すぐに導きが現れる」

「……灰色が、飲まれたのは?」

「奴は現世に未だ未練があるようだな。この沼は魂の未練を感じ取る。また、魂も沼を感じ取る。そういう意味でも、春野華はもう限界だったのさ。気にすることは無い。お前が元の場所に帰れば、全て分かること。それを記憶していられるかは、お前次第だがね」

「……そうか」

 私は、完全に納得したわけでは無かった。それでも、女店主の言葉には真実味があった。全てを語ってはいないだろう。だが、偽りは述べていないと。私は――少なくとも私は、そう感じたのだ。

「灰色」

 最早、彼の代名詞となった色の名前を私は呼ぶ。先程の水柱に飲み込まれたことからは回復したのか、灰色は開いた両目でしかと私を見て、何だ、と感情の読み取れない声で言った。

 ――ああ、そうだったなと思う。灰色は、いつも私の近くにいてくれた。その身を危険に晒しながら私を守り、振り返れ、という言葉で私を導いてくれた。ただ、その声と瞳からはなかなか感情が読み取れることは無かったように思う。それでもいつも私のことを考え、思っていてくれることは良く、分かった。

「どうやら、これで最後らしい」

「そのようだな。奴の言葉を信じるならば、だが」

「お前は最後まで不遜だな。一応は、女主人の、何て言うんだ」

「言いたいことは分かるが、私は私だ。誰の物にもならない」

「――そうだな。」

 少し、沈黙が流れた。

「これで最後なんだ。名前、教えてくれないか」

 私は、残酷かもしれない問いをした。

「無い」

 やはり感情の読み取れない声で、灰色は告げた。

「そうか」

「ああ。私も名前は忘れてしまった。それは遠く昔のことにも思えるし、そう遠くない、最近のことのようにも思う。此処にいると、時間の流れが良く分からなくなる。早いのか、遅いのか。ただ流れの中に身を置いて、揺蕩たゆたうしか無くなる。幸福も不幸も無いように思う。

 けれど、私は。もう知られているから正直に話そう。私は、帰れるものならば、帰りたい。自分が元にいた場所に。其処で帰りを待つ人が、もしも、もう誰一人いないとしてもだ。私は、もう思い出せないが故郷と呼ぶべき場所があった筈だ。其処に戻りたいと願って、誰が笑うだろう。いや、誰に笑われても良い、私は帰りたかった。お前に少なからず手を貸したのは、女店主の言うように、きっと自分とお前を重ねていたんだろうな。重ねていたんだ。そして、お前を助けることで、自分が助かった気になりたかったのかもしれない」

 灰色は一度、言葉を切った。開いていた目を閉じ、少しの間の後、それは再び開かれ、私を見た。

「利己的で、すまない。だが、お前を助けたかったのは嘘では無い」

「分かっている。ありがとう」

 灰色は、じっと私を見て、やがて朽葉へと視線を移した。私も、それに倣うようにして朽葉を見る。

「朽葉」

 私が呼び掛けると、朽葉はふよりと浮かんで何処か遠慮がちそうに私の正面に来た。

「あの、僕、あまり力になれなくて」

「そんなことは無いさ。灰色も朽葉も、本当に良く助けてくれた。立場などがあっただろうに。すまない」

「良いんだ。僕は、もう本当はどうなっても良いと、思っていたから」

「朽葉」

 私の驚いた声に、朽葉が自分を誤魔化すかのように、ふよりと漂った。

「僕はもう、此処での暮らしに飽きていたんだ。灰色のように、戻りたい場所も無い。名前は朽葉と付いたけれど、本当の名前はもう分からない。二度と帰れない場所、戻らない時間。そういったものを思いながら暮らして行くことに、少し、疲れて来ていたんだ。長い長い時間を、此処できっと過ごして来た。希望は無かった。代わりに、絶望も無かった。

 だけど、君と出会って、僕は君の力になりたいと思った。どうしてだかは明確には分からないんだ。灰色と同じ気持ちで、君を助けたかったのかもしれない。でも、何か違う。僕はきっと、灰色とは違う、別の気持ちで君を助けたかった。それは、僕がもう忘れてしまった、人としての気持ち。困っている人がいたら、助けたいと思う気持ち。勿論、灰色のように、自分と君を重ねていた所も、ある。だけど僕は、ただ君が困っていた、だから僕で力になれるなら、助けたかった。それだけなんだ。ごめん」

 何故か朽葉は謝り、その小さな手で頬を掻いた。

「謝ることなんか何も無い。謝るのは私の方だ。灰色同様、此処での暮らしの立場などもあっただろうに」

「良いんだ、そんなものは。僕は、もうどうなっても良いと」

「朽葉」

 それまで黙って聞いていた灰色が、口を挟んだ。

「すまない」

「どうして、灰色が謝るの」

「さっきのことを気にしているのだろう」

 流れる沈黙。私は良く分からなくて、灰色の言葉を待った。

「現世に未練があったという話だ」

「……うん」

「私は確かに帰れるものなら帰りたい。それは今も昔も変わらない」

「うん」

「だが、もしも帰れる日が来るのなら。私は、朽葉、お前と一緒に帰りたい」

 其処で、灰色の方を見ていなかった朽葉が、くる、と灰色を振り返った。

「お前とは長い。確かに故郷と呼べる場所には帰りたいが、お前を此処に残してまで、帰りたいとは思わない」

 朽葉、と灰色が改めて呼び掛けた。

「これからもよろしく頼む」

 そして、灰色が小さな手を差し出した。その手を朽葉が緩やかに握る。

「うん。僕も、よろしく」

 二者の纏う雰囲気が何処かあたたかいものになったように感じた。しかし、私がその和やかさを味わういとまも無く、女店主が別れを急かす。

「もう、良いかい。私としては不穏分子は、さっさと帰すに限ると思っていてね」

 退屈そうに言い捨てる女店主に、私は、ひとつだけ、と告げた。

「ひとつだけ、お願いがあります」

 すると、女店主の足元に控えていた白猫が、人間の分際で、と言ったのが聞こえた。それを女店主は制し、私に向かって告げた。

「言ってみるが良い」

「今回のことで、灰色と朽葉を責めないで下さい。全ては、私の責任です」

「ふん、その責任を取れないだろう? 何せお前は、これから現世に帰る身なのだからな」

 黒髪を流し、女店主は言う。

「まあ、良い。私の管理不足でもある。それに元来、私は面倒事が嫌いでね。今回のことは不問とする。他の魂にも影響は少ないようだしな。だが、今後は許さない」

 ぴしゃりと言って、女店主は朱色に染められた塗下駄ぬりげたを一歩、前に踏み出す。

 私が灰色と朽葉を振り返ると、二者は神妙な面持ちで女店主を見、その後、私を見た。そして二者がそれぞれの言葉で謝辞を小さな声で私に言った。それが聞こえていたのかは分からないが、その言葉を皮切りにしたのか、女店主は懐に手を遣り、塗下駄と同じ朱色の扇面に漆黒のかなめの扇子を取り出した。そして、ばっと開く。

「さあ、お客人のお帰りだよ!」

 女店主は扇子を高く掲げ、告げた。

 すると沼の中心部からどうっと水柱が立ち、その飛沫が私達を濡らした。

「灰色! 朽葉! 世話になった!」

 私は精一杯の叫びで二者に感謝を伝えた。

「もう来るなよ!」

「元気で!」

 灰色と朽葉が口々に言った。

 ――水柱が私を襲う。私を瞬く間に包み込む、水の柱。その水の音が耳鳴りのようにして響き始めた時、もっと遠く、いや近くで、いつかに聞いた鐘の音がいつまでも響き渡っていた。


第十一章【魂】



 ――此処は、何処なのだろうか……。頭の中にかすみが懸かったようで、自分の居所が分からない。そもそも、私は何なのだろうか……此処に存在していて、良いのだろうか……。この思考をしている私は何者なのだろうか……。

 暗い。暗闇だ。私は、瞳を開けてみても深淵の闇の中にいた。私の他に、誰かいるのだろうか。何か、あるのだろうか。些細な情報も入って来ない。私は何者で、何処へ行こうとしているのだろうか?

 不意に息が苦しくなった。ごぼ、という音が聞こえた。上方へと上がって行く泡の塊。それは今、私が口から吐き出した空気であった。私は水の中にいるのだろうか。だが、寒くはなかった。不思議と、あたたかくさえあった。そんな、気がする。

 何もかもが曖昧で、混沌の中に私はいた。ただ、息苦しさは徐々に増して行く。少しずつ、体内の酸素が失われて行く。私は焦った。自分が何者であるかということよりも、酸素を取り込みたかった。

 此処が水の中であるならば上の方を目指せば良いのだろうかと思い、私は腕で水を掻いた。だが、私のものである筈の右腕は重く、気怠く、力が入らなかった。では、もう片方の、と思い、私は左腕で水を掻いてみる。しかし、結果は右腕と同じであった。どうしたことだろう。

 私は、頭上を仰ぎ見た。やはり何処までも暗闇が続いていて、終わりなど無いかのようだった。だが、目指すしかないだろう。私は力の入らない両腕で必死に上方へと水を掻いた。両足も使った。進んでいるのかいないのか、良く分からないままに私は動き続けた。ごぼごぼと吐いた泡達は、すぐに上へ上へと昇って行く。その速さに負けないように、追い付けるように、私は焦燥に焦がされて泳いだ。

 すると、真上では無く、前方に一条の光がすっと差し込んだ。細い、儚い光であった。だが、私はそれを希望と見て取り、その細い光の柱に方向を変えて泳いだ。

 懸命に泳いで行くと、光を背にして魚と思しき群れが横切って行った。小さな魚影達は、全体が一匹の魚であるかのような姿で私の前を悠々と泳ぎ去って行く。それを見て、私はふと背後が気になった。小魚がいるのならば、大魚もいるのではないかと思ったのだ。私のことを密かに喰おうと狙っているかもしれない。私は、息苦しさを堪えながら、振り向こうとした。その、矢先。

 ――振り返るな。

 誰かの声が聞こえた。振り返るな、と私を静かに制する声だった。私は、声の持ち主に心当たりは無かった。だが、何処かで聞いたことがあるような気がした。 

 其処まで考えて、ごぼ、と一際、大きな泡を私は吐いてしまい、それによって一気に胸が苦しくなった。私は振り返ることをやめて、当初の目的であった光を目指して泳ぎを進めた。光の柱には確実に近付いていた。比例して、どんどんと息が苦しくなって行く。

 もう、駄目かもしれない。そう思った時、何かが私の体全体を後ろから強く、強く押すような――同時に、私の体全体を前方から強く、強く引き上げるような――そんな感覚に包まれ、気が付くと私は光の柱の中にいた。

 私が柱の中に入った瞬間、光の輝きは見事に増し、その円周も長くなった。巨大化した光の柱――その中で、私は頭上を見上げた。何かが、見える。初めて見る筈の何かに、私はひどく郷愁を覚えた。懐かしい。

 そうだ、私は貴方に会う為に、此処までやって来たのだ――。


 

 

 ――目が覚めた時、私は一人では無かった。周囲に多くの人達がいるのが、朧気おぼろげな視界の中で分かった。彼らが、何を言っているのかまでは分からなかった。口々に発せられているのは言葉なのだろうが、私には理解が出来なかった。

 私は、ふと自分の手を見た。ひどく小さい。はて、私の手は、こんなにも小さく頼り無いものだっただろうか――そう考えていると、どうしたの? と、私の頭上から慈愛に満ちた女性の声がした。仰ぎ見ようとしても、うまく体が動かなかった。何故かは分からない。

 女性が、少し体勢を変えるように動いた。その時、私はこの女性に抱かれているのだと分かった。先程からあたたかいのは、女性の体温が伝わっているからだと理解した。此処は何処ですか、そう問いたいのに言葉にならなかった。私は――そう言おうとしても、うまく言葉が紡げない。

 私は焦った。私には記憶が無かった。自分が何者で、此処は何処なのか。これまでどうしていたのか。何も分からなかった。その上に、自分の考えを相手に伝えられないのでは絶望的だ。私は、とても悲しくなった。何処か、もう戻れない所に何か大切なものを置いて来てしまった、そんな気がした。だから私は、自分の名前も言葉も居場所も分からないのではないだろうか?

 一度、そう思うと、たちまちにそれは私にとっての真実となって行く気配がした。私は、また同じことを思う。自分の名前も、言葉も、居場所も分からない、と。

 その時、女性が言った。私は、その言葉は理解出来た。夕日が綺麗ねえ、と女性は言ったのだ。そして、続けた。

「夕日はね、一日の終わりに太陽が沈むから見ることが出来るのよ。一日、頑張った太陽に、さようなら、またね、また明日ね、って言う時間なのよ。貴方の名前は、貴方の大きな産声と、綺麗な夕日から貰ったの。ねえ、鳴日なるひ。生まれて来てくれて、ありがとうね」

 ――なるひ。それが私の名前だろうか。その女性の他にも多くの人達が近くにいて、また口々に何かを言ったが、それは私にはやはり理解出来なかった。

 ただ、なるひ、と再び女性が私を呼んだ。その声と言葉だけは私の頭の中に、すうっと入って正しく音となって言葉を形作った。

 なるひ――鳴日。これが私の名前なのだろう。そして、良く分からないが、私を抱く女性は私の存在をひどく喜んでくれているようだった。

 不意に私は、それだけで良いのではないか――と、思った。何故だろう。抗い難い、表現し難い、あたたかく強いものがその女性から感じられたからかもしれない。

 その内に、女性の体温がひどく心地好くて、私は眠りたくなった。うとうととしつつ、良く動かない首を何とか窓の方へ向けると、ビルの谷間に吸い込まれるようにして落ちて行く、赤く輝く太陽――夕日が眩しく見えた。その綺麗な赤い色に、私は既視感を覚えた。記憶の無い私に既視感などある筈が無いのに。だが、周りを良く見てみると、既視感はますます強まるものとなった。

 灰色のビルの群れに赤い太陽が落ちて行く。窓辺には、綺麗な朽葉色の葉を纏った樹木が見えた。その景色に見覚えは無い。初めて見るものだった。けれど私は、その景色をとても懐かしいと思った。

「さあ、そろそろ夕御飯にしましょうね」

 女性は私を抱いたまま立ち上がり、静かにカーテンを閉めた。


〈了〉

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