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負け犬の遠吠え 大東亜戦争51 硫黄島の戦い①死ぬために掘った穴

硫黄島は東京の南方1000キロの位置にあり、東京とサイパンの中間地点にある小笠原諸島に属する火山島です。

面積は東京都品川区とほぼ同じ21㎢で、島の表面は硫黄で覆われ、飲料水は塩辛い井戸水しかありませんでした。

しかしここにはサトウキビなどを栽培して生活をしていた日本人が1000名ほど住んでいました。

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日本軍は開戦後、この島を南方との中継地点として重視し、飛行場を建設して兵力を配備していました。

マリアナ諸島が米軍の手に落ちてB-29による日本本土への爆撃が開始されると、硫黄島は無線電信による早期警戒システムの中枢となり、本土上空でB-29を迎撃するための重要な通信拠点となっていきます。

マリアナ諸島からB-29を片道2000kmの日本本土まで飛ばすことは可能であっても、可載燃料の少ない護衛戦闘機を随伴させることはできず、B-29は度々、日本軍の迎撃にあって大きな損害を出していたのです。

米軍としても、「故障したB-29の退避基地」「護衛戦闘機の基地」になる硫黄島を。重要な戦略拠点として認識していきました。

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1944年5月に小笠原諸島の父島に赴任した小笠原兵団長・栗林忠道中将は兵団司令部を米軍の攻撃対象になるであろう硫黄島に移し、直々に指揮をとりました。

米軍の上陸を防ぐことは困難であると考えていた栗林中将は、7月までに軍関係者以外の住民を疎開させた後、島内で持久戦を行うための作戦に着手します。

その計画とは、島の地下に坑道を張り巡らせ、硫黄島そのものを地下要塞にし、米軍を内陸部まで引き込んでゲリラ戦を展開しようというものでした。

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海軍はこの計画に猛反発し、水際での陣地構築や、飛行場陣地の構築に固執しましたが、栗林中将は全兵員に工事への参加を命じます。

工事中は敬礼を禁止するなどの効率化をはかりますが、硫黄ガスが噴出し、50度の地熱に晒される掘削作業は5分しか継続できず、しかも水分補給は塩辛く硫黄臭の強い井戸水か雨水にしか頼ることができなかったため、下痢に悩まされる者が続出しました。

この過酷な作業において栗林中将は島内を巡回し全将兵と顔を合わせ、現場の士気を鼓舞、「一堀の土は一滴の血を守る」が合言葉となりましたが、それでも病死、脱走、自殺者が相次ぎました。

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米国駐在大使を務めたこともある栗林中将は、アメリカが「敵にしてはいけない国」だという事をよく理解していました。

小笠原諸島への赴任が決まった時には、妻に「骨も残らないかもしれない」と告げたそうです。

指揮官でありながらも、自ら工事現場の指揮を周り、本土から送られてきた貴重な野菜や水をみんなに分けました。

「師団長の食事は◯皿用意すべし」という決まりがあったため、栗林中将は空の皿を並べて他の将兵たちと同じ食事をとり、1日にコップ一杯の水を口にしました。

栗林中将は、自分が将兵たちに要求している事があまりにも残酷、過酷である事がわかっていたのです。

生きて祖国の地を踏むことを許さず、あっさりと潔く戦死する事も許さず、暑い壕の中で飢えと乾きに耐えて最後まで持久戦をする事を要求し、爪が剥がれても手作業でトンネルを掘らせたのです。

しかし硫黄島が米軍の手に落ちれば、日本本土へは、護衛戦闘機を伴ったB-29の爆撃が開始され、B-29の迎撃が非常に困難になり、日本全土の都市が蹂躙される事になるのです。

栗林中将の目的はただ一つ、「硫黄島を1日でも長く守り、本土の女子供達を1日でも長く生きながらえさせる」事でした。

そのために、血の涙を流して将兵たちに、死ぬための穴を掘らせたのです。

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米軍の空襲などの妨害を受けながらも、なんとか18kmにも及ぶ坑道を完成させた守備隊に対し、本土からは多くの輸送船団を失いながらも兵力の増強が続けられていました。

その中には、ロサンゼルスオリンピック馬術金メダリストの「バロン西」こと西竹一中佐もいました。

最終的に硫黄島の兵力は2万1千名にまで増強されます。

1944年12月頃になると、毎晩のように米軍機による爆撃が行われましたが、地下陣地はほとんど無傷でした。

1945年1月5日、硫黄島の最高指揮官である市丸利之助海軍少将は、海軍上級将校を集めて「連合艦隊はすでに壊滅している事」「米軍がまもなく硫黄島へ侵攻してくる事」を伝えます。

2月13日、海軍の偵察機が硫黄島へ向かう170隻もの米軍大艦隊を発見するのでした。

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