読書記録『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー/ブレイディみかこ』
今年26冊目。
ずっと気になっていた本をやっと購入し、一瞬で読み終わった。
一言で感想をいうなら、、、
「日本人全員に読んで欲しい。とくに親と子ども、教師たちに。」
あとイギリスの教育が非常に興味深い。文化の違いとはいえ、日本とはタブーも教育スタイルも全然違って面白かった。
あくまで一親子のストーリーを本にしているから、様々な階級層や思想の過程があるのは重々承知だけど、読む価値しかない本にまた、出会えた。
本の紹介
著者のブレイディみかこさんと12歳の息子、彼が通っている中学校、個性豊かな彼の友だちや先生たちとの日常について書かれたもの。
アイルランド人と日本人から生まれた少年の日常に起きる様々な問題を通して、「12歳でそういう考え方ができるのか!」「人と人のその向き合い方は素敵だなあ」「自分だったらどうするかな?」と考えさせられる作品。
(あらすじ)
優等生の「ぼく」が通い始めたのは、人種も貧富もごちゃまぜのイカした「元・底辺中学校」だった。ただでさえ思春期ってやつなのに、毎日が事件の連続だ。人種差別丸出しの美少年、ジェンダーに悩むサッカー小僧。時には貧富の差でギスギスしたり、アイデンティティに悩んだり……。何が正しいのか。正しければ何でもいいのか。生きていくうえで本当に大切なことは何か。世界の縮図のような日常を、思春期真っ只中の息子と パンクな母ちゃんの著者は、ともに考え悩み乗り越えていく。連載中から熱狂的な感想が飛び交った、私的で普遍的な「親子の成長物語」。
(本文引用)
「でも、多様性っていいことなんでしょ? 学校でそう教わったけど?」 「うん」
「じゃあ、どうして多様性があるとややこしくなるの」
「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃないほうが楽よ」
「楽じゃないものが、どうしていいの?」
「楽ばっかりしてると、無知になるから」 とわたしが答えると、
「また無知の問題か」と息子が言った。
以前、息子が道端でレイシズム的な罵倒を受けたときにも、そういうことをする人々は無知なのだとわたしが言ったからだ。
「多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」
人種、宗教、性、文化、慣習など様々な多様性が出てくる。
日本じゃまずここまでダイレクトに向き合う機会がないけど、イギリスでは自然と学ぶ仕組みになってるみたい。
「なんでその先生は喧嘩両成敗にしたんだろうね」
「差別はいけないと教えることが大事なのはもちろんなんだけど、あの先生はちょっと違ってた。どの差別がいけない、っていう前に、人を傷つけることはどんなことでもよくないっていつも言っていた。だから2人を平等に叱ったんだと思う。
人種の差別発言と、住んでいる場所・階級層の差別発言でどっちの方が悪いかではない。というシーンの話。
「EU離脱や、テロリズムの問題や、世界中で起きているいろんな混乱を僕らが乗り越えていくには、自分とは違う立場の人々や、自分と違う意見を持つ人々の気持ちを想像してみることが大事なんだって。つまり、他人の靴を履いてみること。これからは『エンパシーの時代』、って先生がホワイトボードにでっかく書いたから、これは試験に出るなってピンと来た」
こういうことを学校で学べるってこと自体がすごい。しかも11、12歳の子どもたちが。日本と全然違う。
エンパシーと混同されがちな言葉にシンパシーがある。 オックスフォード英英辞典のサイト(oxfordlearnersdictionaries.com) によれば、
シンパシー(sympathy) は「1.誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと」「2.ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す行為」「3.同じような意見や関心を持っている人々の間の友情や理解」と書かれている。
一方、エンパシー(empathy) は、「他人の感情や経験などを理解する能力」とシンプルに書かれている。
つまり、シンパシーのほうは「感情や行為や理解」なのだが、エンパシーのほうは「能力」なのである。前者はふつうに同情したり、共感したりすることのようだが、後者はどうもそうではなさそうである。
ケンブリッジ英英辞典のサイト(dictionary.cambridge.org) に行くと、エンパシーの意味は「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」と書かれている。
つまり、シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業とも言えるかもしれない。
これは勉強になった。
他人の靴を履いてみる努力を人間にさせるもの。そのひとふんばりをさせる原動力。それこそが善意、いや善意に近い何かではないのかな、
親の所得格差が、そのまま子どものスポーツ能力格差になってしまっているのだ。
「でも、この言葉が『ニガー』みたいなタブー語かと言えばそれは違う。英国人は親密な感情を込めてこの言葉を使うこともある。
「それは違うよー。その言い方はあまりに乱暴」
「そんなことないよ。例えば、パキスタン人経営の雑貨屋が僕たちのフラットの前にあるんだけど、僕らは『パキ・ショップ』とそれを呼んでいる。別に差別的な気持ちじゃなくて、行きつけの、店員とも親しくなった馴染みの店、ぐらいの感覚でね」
こういう若者たちはほんとに何の悪気もなくワイングラスを傾けながら親愛の情をこめて「パキ」とか言ってんだろうなと、その姿がありありと目に浮かぶようだった。 「けど、『パキ』ってのはもともとタブロイド紙が元植民地出身の移民を差別心を込めてネガティヴに呼んだ言葉でしょ」 「だけどそれは 60 年代とかの、大昔の話だよ。時代とともに言葉の用法は変わるのさ」 いやいやいや、あなたたちの階級では時代はマッハの速度で前進するのかもしれないけれども、下層の街ではいまだに 60 年代とたいして変わらない意味で使われていることが多いですよ、と思ったわたしは後で給湯室 でこっそり日本人記者に言ったのだった。
これはペルーでの生活でもすごく感じた。
日系3世の子どもを含めた少年集団がサッカー中に「チーノ」と呼んでいた。でも当事者の彼は否定も反抗もしない。自分には不思議だった。
日系人の大人にその話をすると、彼が中国人ではなくて日本からきた日系人であることはみんなも知っている。でも愛称を込めたニックネームとして「チーノ」と呼ばれている。
って聞いて「はあ……?(ほんまかいな。国籍ってそんなもんなのか?)」ってなった。
いくらニックネームでもアメリカ人!とか、ドイツ人!って直接呼ばんだろ。だから自分は、彼には名前があるじゃないか!って対抗した。
仲良しグループだから悪気はないんだろうけど、名前があるじゃん!ってのが率直な意見だし、今でもモヤっとする出来事。
今後は絶対に名前で呼ばせようと思ってたのに、これは未達事項。(笑)
「僕はイングランドに住んでいるけど、よく考えたら父ちゃんはアイルランド人だし、母ちゃんは日本人だから、イングランドの血は流れてない。だから、アイルランドと日本を応援すべきだと思うけど、今回はアイルランドは出場できなかったから、僕が応援しているのは日本」
涼しい顔で言うのだが、これはちょっとヤバい兆候なのではと不安になった。
「なんかあの子、血とか言い出してるんだよね。民族主義に傾いてんのかな」 と配偶者に相談すると彼は言った。
「おめえはちょっと左翼っぽいからすぐそういうことを気にするけど、自分がどこから来たのかってことを人間が考えるのはごく自然なことだろ。そういうことをまったく気にしないで大人になるやつのほうが俺はむしろ心配」
これまた、時々登場するアイルランド人である配偶者の立ち位置や発言が渋い。
息子と仲のいい友人グループの中にはダニエルを見捨てた子もいる。が、息子にしても、(ダニエルと取っ組み合いの喧嘩をしたことのある) ティムにしても、彼からダイレクトに差別されて衝突したことのある子たちは友達として残っている。
「ダニエルからひどいことを言われた黒人の子とか、坂の上の公営団地に住んでいる子たちとかは、いじめに参加してない。やっているのはみんな、何も言われたことも、されたこともない、関係ない子たちだよ。それが一番気持ち悪い」
これは、ハッとさせられたなあ。人間って大人も子供も関係なく、気持ち悪い生き物なんだなって。
「僕は、人間は人をいじめるのが好きなんじゃないと思う。……罰するのが好きなんだと思う。」
裁きたくなるんだろうなあ。それって自分が正しい側だと認識してる証拠。学校にある特別指導を「指導」じゃなくて「罰」としてだけみる教師もそう。
このセリフを12歳の少年がいうとは…。
「日本に行けば『ガイジン』って言われるし、こっちでは『チンク』とか言われるから、僕はどっちにも属さない。だから、僕のほうでもどこかに属している気持ちになれない」
「それでいいんじゃない? どこにも属さないほうが人は自由でいられる」 「だけど、本当にそうなのかな。どこかに属している人は、属してない人のことをいじめたりする。それは悪い部分だよね。でもその反面、属している仲間のことを特別に守ったりするでしょ。生徒会長が僕に優しくしてくれるみたいに。でも、僕はどこかに属している気持ちになれないから、それがどちらもないんだ。悪い部分も、いい部分も、ない」
同じように差別された経験をもっていればもっているだけ、無意識のうちにもこの「仲間感」は強くなる。人種差別というものは、他人に嫌な思いをさせたり、悲しい思いをさせるものだが、それだけではない。「チンキー」とか「ニーハオ」とかレッテルを貼ることで、貼られた人たちを特定のグループに所属している気分にさせ、怒りや「仲間感」で帰属意識を強め、社会を分裂させることにも繫がるものなのだ。
これはマイノリティーになってみないと実感できないことなんだろうなあ。
親日のペルーだったからそんなに嫌なこと言われなかったけど、国によっては協力隊の同期なんかは結構ひどかったみたいだし…。
海外に住んだ後に読めて良かった。
〈感想〉
なんだか、とても勉強になった。12歳の少年の考え方は、明かに自分より成熟しているし、人格者だった。純粋に尊敬する。
子どもは子どもの世界のなかで大人が思う以上のことを感じたり、学んだりしてくる生き物なんだろうなと思った。あれこれ言う必要はなくて、時折手助けしてあげるくらいで十分だと。
小学生期と高校生期では人格の出来上がり具合がまた違うから、その介入の仕方は変わってくるだろうけど。
子ども社会もいろいろある。
教員としてもだけど、「人間として」非常に学びのある本だった。
自分だったらどう答えてただろうか?
ブレイディみかこさんもすごく素敵な人なんだろうなと思う。会ってみたい。
イギリスの教育も興味深かった。
「体育授業への目標や理想」だけじゃなく、もっと国際的な視点や、世界的な視野、社会問題、子どもの世界での問題など、様々なことを考えてみようと思った。
早く現場で仕事がしたい。
試し読みもできるので、ぜひ!!!
本当にオススメの一冊。読めて良かった…。
そして、タイトルが最高。
息子が国語のノートの端っこに書いてた言葉なんだって。
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