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J・M・ケインズ『私は自由党員か?』(1925)翻訳

 思い立ってケインズの自由党員向けの講演"Am I a Liberal?(1925)"を「みんなの自動翻訳」(https://mt-auto-minhon-mlt.ucri.jgn-x.jp)の力を借りて夜な夜な訳してみました。ケインズといえば『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936)が有名ですが、この講演でも「支持したい政党がない」「右も左も過激で困る」「中道政党の不人気」「政治とジェンダー」「独立行政法人のようなエージェンシー制と行政のあり方」「自由放任に代わる経済政策と金融政策の重要性」のような、現代にも通じる問題を論じていて、その先見性には驚かされます。参議院選挙前までに訳し終わるといいな、と思って訳していたのですが、まさか公開する日にこんな事が起こるとは。
 前提知識は特に必要ないと思いますが、ケインズが熱心な自由党支持者であったこと、3年前までは政権与党だった自由党が、派閥抗争と労働党の勃興の影響で615議席中僅か40議席まで凋落していたこと、保守党が与党で労働党が野党第一党(基本的に保守・労働&自由(自民)の2.5大政党制は2010年頃まで続いています)ということを頭の片隅に入れておくと読みやすいんじゃないかと思います。「ケインズ読破したぜ!」って威張れるので是非読んでね。
(ちなみに、訳し始めた時はこの講演未邦訳なんじゃないかと思ってテンションが上がってたのですが、当然そんなことはありませんでした。『私は自由主義者か?』というタイトルもあるようですが、明らかに大文字のLiberal=自由党について語っているので、当タイトルの方が妥当だと思います。) 

I


 もしあなたが政治的動物として生まれた人間であるのならば、政党に所属しないことは不愉快極まりないはずです。無所属というのは残酷で孤独で無益です。あなたの政党が強く、その政策と哲学に共感できて、社交的で実際的で知的な本能をすべて同時に満足させるなら、それは何と心地よいことでしょう!あまりの心地よさに、政党の出版物を大量に購読し、余暇全てを政治活動に突っ込むことになるでしょう。政治的動物は、このように振る舞うのです。
 だから、「支持する政党はない」という情けない言葉を口が裂けても言えない政治的動物は、無所属というよりもむしろ全政党に所属していると言えるでしょう。もし彼が政党の魅力という引力の観点から「家」となる所属政党を見つけられないなら、無所属という寒空の下にいる代わりに、彼は斥力の観点から、最も嫌いではない政党を見つけなければなりません。

 さて、私の場合を考えてみましょう。この消極的な家探しを通じて、私の着地地点はどこになるのでしょうか?保守党員なんかになれですって?保守党は、知性の面でも気持ちの面でも、気休めにすらなりません。保守党の哲学を楽しんだり、それに興奮したり、教化されたりすることもないでしょう。保守党の雰囲気、メンタリティー、人生観は―一々具体例は挙げませんが―私の自己の利益にも公共の利益にもならないでしょう。目的もなく、理想に向かうものでもなく、知的に納得できるものでもなく、そして安全ですらない―私たちの文明水準を略奪者から守ってくれさえしないでしょう。

 それでは、私は労働党に参加すべきでしょうか?ぱっと見たところでは、保守党より魅力的です。しかし考えてみると、大きな困難にぶつかります。第一に、労働党は階級政党であり、彼らが代表する階級は私の階級と違います。部分的な利益を追求するなら、私も自分自身の個別利益を追求するのが筋でしょう。階級闘争そのものに関しても、私の局所的および個人的な愛着は、他の人たちと同様、ある種の不快で狂信的なものを除いて、私の周囲の環境と結びついています。私は私なりに正義と良識の影響を受けてきましたが、階級闘争ではブルジョワ知識人の立場に立つことになるでしょう。
 しかし、何よりも、私は、労働党が知的に物事を決定できているとは信じられません。自分自身が理解もできていない事を口走るような人たちによって、多くのことが決定されてきましたし、万が一労働党がこんな人たちの専制支配下におかれるようになれば、カタストロフィー派としか形容できないような極左の利益のためにその支配権は行使されるようになるでしょう。

 このネガティブ・チェックを通してみると、私は自由党が―強いリーダーシップと適切な政策さえあれば―依然として将来の進歩のための最良の手段であると信じそうになります。

 しかし、支持しない理由ではなく支持する理由という積極的な方向で政党支持を考えようとすると、政策にせよ議員にせよ、その様相はどの政党においても似たり寄ったりの暗いものです。19世紀生まれの歴史的な政策は、先週ラム肉になった羊に負けず劣らず死んだ存在です。そして迫りつつある未来の様々な問題を政党は取り上げておらず、旧態依然とした政策が齟齬をきたすようになっています。

 市民的そして宗教的自由、参政権、アイルランド問題、植民地自治政府、貴族院の権力(の縮小)、急進的で累進的な所得税と財産税。「社会改良」のための歳入の潤沢な利用、具体的には病気・失業・老齢のための社会保険、教育、住宅、公衆衛生など―自由党が訴えてきたこうした理念は、成功裏に実現したか、過去の問題となったか、あるいはすべての政党に共通する政策となってしまいました。では、何が残っているのでしょう?「土地問題」という人もいるでしょうが、私はそうは思いません。伝統的に土地問題は重要な問題でしたが、デファクトの、事実上の静かな変化のつみ重ねを通じて、今や土地問題は政治的に重要でなくなってしまいました。歴史的な自由党綱領のうち、今でも重要なものはもはや飲酒の規制と自由貿易の2つしかありません。そしてこの2つの自由な売買の問題が未だ重大で生きている政治問題となっているのも、単なる偶然の産物にすぎません。自由貿易には常に2つの議論がありました。自由党の個人主義者が魅せられ、今もなお個人主義者を惹きつけているレッセ・フェールの議論と、個々の国家がその資源を比較優位の領域に投入することによる利益という経済学的な議論です。私はもはや自由貿易の教義が称揚するような「政治哲学」ゆえに自由貿易を信じているのではありません。私が自由貿易を信じるのは、長期的にそして一般的に見て、それが唯一技術的に理に適っていて、知的に明瞭な政策だからです。

 しかし、仮に最大限よくやったとして、自由党は土地問題、飲酒の規制、そして自由貿易だけで―たとえ土地とアルコールに関して統一された明瞭な政策を打ち出せたとしても―党勢を維持することができるでしょうか?自由党員であるための肯定的な論拠は、目下のところ、非常に弱いと言わざるを得ません。では他の政党は、「積極的な支持する理由」という試験をどうやって乗り越えているのでしょう?

 保守党は常にダイ・ハード派、社会変革するぐらいなら死んでやるというコテコテの守旧派にとっての居場所という役割を果たしています。しかし党の建設的な役割を見ようとすると、自由党と全くと言っていいほど同じく状況は良くありません。「保守党」とは、気質や古くからの団体といった偶然の産物に過ぎないことが多く、進歩的な若い保守党員を「平均的自由党員」ではなく保守党員たらしめているのは、政策や理想の実際の違いではないことがほとんどです。歴戦のつわものたちの鬨の声は、口をつぐまされ、沈黙させています。教会、貴族階級、地主の利益、神聖不可侵な財産権、帝国の栄光、軍人のプライド、さらには(飲酒の規制に関係する)ビールやウイスキーといった「つわもの」達が、英国政治を動かす力となっていくことは二度とないでしょう。
 保守党は、社会の漸進的変化に適応した、個人主義的な資本主義を発展させることに関心を持った方が良いでしょう。しかし話を難しくしているのは、金融街と議会の資本主義の指導者たちは、資本主義そのものを守ることにつながる進歩的な政策と、彼らが言うところのボリシェヴィズムを区別することができていないことです。伝統的な資本主義が知的に自らの制度を守ることができれば、資本主義が破壊されることは何世代にわたってもないでしょう。しかし、(資本主義打倒を望む)社会主義者たちにとっては幸いなことに、資本主義者がそのような芸当を行う可能性はほとんどありません。
 私は、個人主義的な資本主義の知的衰退の要因は、それ自体の特徴というよりも、それが先行する封建主義の社会制度から引き継いだ特徴、すなわち世襲にあると感じています。財産と産業支配層における世襲が、資本家階級のリーダーシップが弱くて愚かである理由です。資本主義はあまりにも三代目のボンボンたちによって支配されています。世襲への執着以上に確実に社会制度を衰退させるものはありません。私たちの社会でぶっちぎりで最も古い機関である教会が、常に世襲主義を遠ざけてきたことが、このことの例証となっていると思います。

 保守党が常にダイ・ハード派、強硬な守旧派を抱えているのと同じように、労働党は常にカタストロフィー派―ジャコバン派、共産主義者、ボルシェヴィキ…お好きな呼び方でどうぞ―に囲まれています。この一派は、既存の制度を憎んだり軽蔑したりして、大きな公益は単に制度を転覆させることによって得られる、あるいは少なくとも既存の制度を転覆させることが公益の実現のための前段階として不可欠だと信じています。こうした連中は、社会的な抑圧の雰囲気の中か、あるいは守旧派支配時における反動としてしか活躍することができないでしょう。イギリスでは、彼らは最過激派として活動していますが、数字の上の勢力は極めて弱小です。しかし、私は思うに、カタストロフィー派の教義は希釈されて労働党全体に浸透しています。労働党指導者がどんなに穏健な意見を心中持っていたとしても、労働党はカタストロフィー派の中で育まれた、広範な情熱と嫉妬に基づくアピールをすることに選挙の成功を依存しています。私は、カタストロフィー派に対するこのひそかな共鳴は、労働党という建設的で堅牢になりうる船を食らいつくすシロアリだと感じています。悪意、嫉妬、富と権力(自らの持つ権力を含む)を持つ者に対する憎しみは、真の社会共和国を構築するための理想と誤った形で混ざり合っています。しかし、労働党指導者は、成功するためには少し冷酷になるか、あるいは少なくとも冷酷に見える必要があるでしょう。同志を愛するだけでは不十分で、時にはある同志を憎まなければなりません。

 では、私はどんな自由主義を欲するのでしょう?一方では、保守主義は明確に定義できるような集団です。保守主義内の右翼には保守主義に強さと情熱を与えるダイ・ハード派が居て、左翼には「優等生」と呼べるような、保守主義を道徳的そして知的に尊敬できるものにする、教育を受けた、人道的な、保守的自由貿易主義者がいます。他方で、労働党も明確に定義できる集団であり、労働党内の左翼には強さと情熱を与えるカタストロフィー派が居て、右翼にはこれまた「優等生」と呼べるような、労働党を道徳的そして知的に尊敬できるものにする、教育を受けた、人道的な、社会改良主義者がいます。彼らの中道に何か別の余地はあるのでしょうか?ここにいる私たち(自由党員)一人一人は、自分たちを保守主義の優等生たる保守的自由貿易主義者になるか、あるいは労働党の優等生たる社会改良主義者になるかを決めてしまえば、それでいいのではないでしょうか。
 ひょっとしたらそこが私たちの行きつく先かもしれません。しかし、私はまだ、階級闘争には無関心を保ち、両政党の優等生たちの営為を台無しにしてしまうダイ・ハード派の影響とカタストロフィー派の両派の影響を受けずに、未来を築くことができる政党の余地があると思います。そのような政党の哲学と実践であると考えるものをごく簡単に説明しましょう。

 まず第一に、もはや枯れ木となった過去の政策から、自分たち自身を解放しなければなりません。私の意見では、現在、保守党の左派以外に、19世紀の成功に大きく貢献した古風な個人主義とレッセ・フェールの厳格さに心を置いている人たちの居場所はありません。私がこう思うのは、個人主義とレッセ・フェールの教義が誕生したときから間違っていたからではなく (もし私が100年前に生まれていたら、私はこの個人主義とレッセ・フェールを訴える党に属していたでしょう)、それらが現代の状況に適用できなくなったからです。私たちの政策は歴史上の自由主義の問題を扱うのではなく、他の政党が関心を持っていようがいまいが、今日の目前の関心と緊急で重要な問題に対処しなければなりません。私たちは不人気と嘲笑というリスクを冒さねばなりません。そうすれば我々の集会は人々を引き寄せ、我々の組織は力強さを得るでしょう。

II

本日お話しする問題を5つの項目に分けてみました。

平和に関する問題。
政府に関する問題。
性と性別に関する問題。
依存症に関する問題。
経済に関する問題。

 平和に関して、我々は最大限不戦主義者でいるべきでしょう。帝国の問題に関しては、インドを除くと特に大きな問題も無いでしょう。インド以外では、政府の形態に関する限り、友好的な帝国の分解のプロセスは現在ほとんど完了しており、多数の人々に大きな利益をもたらしています。しかし、平和主義と軍備に関して、我々はスタートラインについたばかりです。これまで戦争のためにリスクを冒してきたのと同じように、私は平和の追求のためにリスクを取ってみたいと思っています。しかし、私はこのリスクを、様々な仮定の状況において参戦をするという約束の形にはしたくありません。私は同盟に反対しています。フランスの軍事的優位の中で、武装解除されたドイツをフランスの攻撃に対して我々の全ての軍事力でもって防衛すると誓うことは愚かであり、我々が西ヨーロッパでの将来のすべての戦争に参戦すると決め込むことは不必要なことです。代わりに、私は、軍事的に弱体というリスクを冒してでも、仲裁と軍縮の方向での好例を示すことを望んでいます。

 次に、政府の役割に移ります。これは退屈でしょうが重要な問題です。今後、政府は過去に避けてきた多くの役割を引き受けなければならなくなると思います。これらの新たな役割において、大臣と議会は役に立たないでしょう。我々の任務は、可能な限り権力の分散と地方分権化を行い、特に、政府の役割の新旧を問わず、それらを委任できる半独立した会社と行政機関を設立することです。ただし、民主主義の原則や議会の究極の主権を損なってはいけません。これらの問題は、今後、これまでの植民地自治政府や両議院間の関係と同様に重要で難しいものになるでしょう。

 私が「セックス・クエスチョン」として一括りにした問題は、これまで政党が扱ってきた問題ではありませんでした。なぜなら公の場での議論の対象となったことが皆無だったか、あったとしてもめったになかったからです。今日ではこれがガラッと変わりました。一般大衆がこれより関心を持ったり、より幅広く議論の対象としたりしているトピックはほとんどありません。これは社会的に最も重要な問題で、現実で真剣な意見の相違を引き起こさざるを得ません。それらの中には、特定の経済問題の解決に深く関与しているものもあります。性と性別にかかわる問題が政界に進出しようとしていることは疑いの余地がありません。参政権運動に代表される未熟な形での問題の顕在化は、水面下のより深く重要な問題の兆候でしかありませんでした。
 避妊と避妊具の使用、婚姻法、性犯罪と性的異常の取り扱い、女性の経済的地位、家庭の経済的扱い、こうしたすべての事柄において、法律と通念は中世のまま止まっていて、開明的な意見と慣行から遠ざけられています。教育の程度に関わらず、ある人が他の人に個人的に密かに考えを打ち明ける、という程度にとどまっているのです。少数のインテリの過激派だけがこうした性と性別に関わる意見の影響を受けると思い込んだり、避妊や離婚法改革に働く女性がショックを受けるなどと考えたりするのはやめましょう。女性にとって、これらは全く容認できない専制政治からの解放、新しい自由を意味しているのです。これらを党の会合で率直かつ賢明に議論する政党は、有権者が持つ新しい生きた関心を発見することになるでしょう。なぜなら、すべての人が知りたがり、すべての人の人生に深く影響するような事柄を、再び政治が扱うことになるからです。
 これらの問題はまた、避けて通ることができない経済問題とも連動しています。避妊や産児制限は一方では女性の自由の問題であり、他方では軍隊の規模や予算の規模と同じように、国家が関心を持ち義務を負う人口の問題です。働く女性の地位と個人単位ではなく家族を考慮した生活給の概念は、女性の有給の仕事の成果と無償の仕事の成果の双方を通じて女性の地位に影響を与えるだけでなく、賃金は自由放任主義の正統的理論に従って需要と供給によって決定されるべきか、あるいはすべての状況を考慮した「平等」で「合理的」なものとするべく需要と供給の力関係の自由を制限し始めるべきなのか、という問題を提起しています。

 この国の依存症の問題は実務的には飲酒の問題に限られていますが、ギャンブルの問題も考えてみたいと思います。強度のアルコールと賭博会社の禁止が良い影響をもたらすと個人的には思います。しかしこれは問題の解決にはなりません。人類はどこまで退屈し難儀していればいいのか、たまには退屈からの脱出、興奮、刺激そして変化の可能性を許されるべきか、これが重要な問題です。認可を受けた農神祭や是認された謝肉祭といった形で、このお祭り騒ぎの人々の健康も財布も破壊することのない、アメリカでは中毒者と呼ばれる不幸な階級が抗しがたい誘惑から逃れられるような、合理的な認可制度をつくることは可能でしょうか?
私はこの答えを探しつづけるのではなしに、最も重要で、かつ私が最も語る資格がある政治的問題、経済の問題に移動しなければなりません。

 著名なアメリカの経済学者であるコモンズ教授は、3つの時代・3つの経済秩序という分類を行い、現在われわれが生きている時代はその3つ目の時代の初期に入ろうとしている、という経済移行の本質の認識を最初に行った一人であります。
 1つ目の時代は、「非効率によるものであれ、暴力、戦争、慣習、迷信によるものであれ」欠乏の時代です。このような時代においては、「個人の自由は最小であり、共産主義的な、封建的な、あるいは政府による、物理的強制を通じた統制は最大の状態」であります。これは、短い例外的な期間を除いて、15世紀あるいは16世紀までの世界の通常の経済状態でありました。
 次に来るのは豊かさの時代です。「極端な豊かさの時代には、最大限の個人の自由があり、政府による強制的統制は最小であり、個々人による交渉が配給制に取って代わり」ました。17世紀から18世紀にかけて、私たちは欠乏の束縛から豊かさの自由な空気への道筋を歩み、19世紀には、レッセ・フェールと古典的自由主義の勝利は華々しく最高潮に達しました。我が党のベテランたちが、このおおらかだった時代を振り返っているのは、驚くべきことでも信じられないことでもないでしょう。
 しかし我々は今第3の時代、コモンズ教授が「安定化の時代」と呼んでいるものに入ろうとしており、この安定化の時代はまさに「マルクスの共産主義に代わる現実選択肢」と特徴づけられるでしょう。この時代には、「一部は政府によって束縛されているものの、主として協会、企業、組合による秘密・半公開・公開・仲裁など様々な形態による経済活動や、製造業者、商人、労働者、農民、銀行家の集団活動により束縛される、個人の自由の減少がある」とコモンズ教授は述べています。
 この時代における政府の力の濫用というのは、一方ではファシズムであり、他方ではボリシェヴィズムであります。社会主義は中間の道を提供してはくれません。なぜなら、社会主義もまた、自由放任の個人主義や諸経済活動の完全な自由と同様に、「豊かさの時代」の前提から生まれたものであり、多くの人々やマスコミは個人主義や経済活動の自由の前で、血だらけで目くらましをされながらも、今でも丁重に平伏しているからです。

 経済における無政府状態から、社会正義と社会の安定の追求を目指して経済の諸分野を統制・監督すること体制への移行は、技術的にも政治的にも莫大な困難をもたらすでしょう。しかし、この解決策を模索することこそが新しい自由主義の真の宿命だと私は思います。
 今日、石炭産業の分野にて、我々は現在普及している考えとその混乱の結果の客観的な教訓を得ることができます。財務省とイングランド銀行は、需要と供給の力の自由な働きによって経済が調整され、またそうすべきであるという前提に基づいて、19世紀の頃の正統派の政策を追求しています。財務省とイングランド銀行は、自由競争と資本と労働力の自由な移動という前提の下で成り立つことが、今日の経済の中で実際に起こると今でも信じているか、少なくとも1、2週間前までは信じていました。
 他方で、事実だけでなく世論も、コモンズ教授の「安定化の時代」の方へと大きく近づいてきました。労働組合は需要と供給の力の自由な働きに干渉するのに十分な強さを持っており、世論も労働組合が危険になりつつあるという不平不満と単なる根拠のない疑い以上の懸念をもってはいるものの、炭鉱労働者が彼ら自身の影響の及ばない場所で生じた残酷な経済の力の犠牲者になるべきではない、という労働組合の主要な訴えを支持しています。

 古い世界観の政党の考え―例えば、貨幣を改鋳し、その後の調整を需要と供給の力にお任せする、といった考え―は、労働組合が無力であった50年や100年前の時代のものであり、経済という名の巨人が、障害物一つない進歩という名の高速道路にて、拍手さえされながらガンガン衝突することを許されていた時代のものです。
政治家たちが手本としている知恵の半分程は、かつては真実あるいは部分的な真実であったものの、今では日ごとにますます誤るようになっている仮定に基づいているものです。私たちは新しい時代のための、新しい知恵を発明しなければなりません。そしてその間、もし私たちが何か良いことをしようとするなら、それは私たちの親世代には非正統的で、厄介で、危険で、従順でないように見えることでしょう。
 このことは経済の分野において、まず第一に、社会の安定と社会正義のために何が適当で何が正しいについての現代的な考え方に対応する、経済の諸アクターの力を適応させ制御するための新しい政策と新しい手段を見つけなければならないことを意味します。
 長く続き、多くの異なる形態をとるであろうこの政治闘争の最初の段階において、金融政策が中心となるのは偶然ではありません。19世紀に「豊かさの時代」の哲学を十分に満足させるために行われた、安定と正義に対する最も暴力的な形の干渉は、まさしく価格水準の変化によってもたらされたものでありました。しかし、これらの変化、特に政府当局が19世紀よりもより強い「処方箋」を我々に押し付けようとするのなら、その結果は現代的な考え方や制度にとって容認できないものであるでしょう。

 私たちは、経済生活の哲学と、何が合理的で何を許容できるかという考え方を、無感覚のうちに、そして私たちの政治手法や原則を変えることなく、変えてきました。私たちの涙と苦悩の原因は、ここにあります。
 政党の政策というものは、一日一日、現実の出来事からのプレッシャーと刺激の下で、細部を作り込んでいかなければならず、最も一般的な原則を除いて、政策をあらかじめ明らかにするようなことは役に立たないでしょう。しかし、自由党がその勢力を回復するためには、自由党は態度、哲学、そして方向性を持たなければなりません。私はこの講演で自分の政治に対する態度を示そうとしてきましたが、この講演における大元の問いに関しては、私が述べたことに照らし合わせて誰か他の人に答えていただくことと致しましょう。「私は自由党員か?」、という問いにです。

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