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密林に、異常あり。 【短い小説 #8】

 わたしのジャングルは、白い。

 白々と重なる何万枚もの葉を見上げる。みっちり頭上を覆う葉の輪郭線の数を想像すると圧倒されるが、白いので明るいし、閉塞感はない。
 風景を区切るように何本も垂れ下がる蔓も白。見下ろした足元の腐った落ち葉も白。その積もった葉の合間を巨大なムカデが通り過ぎる、それも白。反射的に踏みつけて自由を奪ったムカデに顔を近づけ、観察する。
 もぞもぞと動くたびに、その足や節々の陰影の斜線も動いた。何度見てもこの緻密で間違いのない線の動きには見とれてしまう。足をあげると、ムカデはほんの一瞬動きを止め、そそくさと白い落ち葉の合間に消えていった。
 かき分けて進む羊歯の葉をめくれば、裏側の胞子嚢さえ白と輪郭線と陰影の斜線で構成されている。木肌に行列を作って行き来する蟻も、そこに滲む樹液も。線だけのくっきりとした世界。白一色のオダヤカな世界。完全にリラックスできる、わたしだけの世界。

 けれど今、わたしは警戒している。
 何日か前に初めて見かけた、色付きの影。
 動物の影か人影かもはっきりしなかったが、それは確かに薄赤く色がついていた。見た瞬間、頭に血がのぼった。
 なに? あれはなに? おかしい。いやだ。ここにあんなものがあってはいけない。
 沸騰した頭で影に向かって駆け出したが、影はすぐ白の葉陰に消えた。

 その後も短いスパンで2度ほど、影を見かけた。
 2回目は透き通りそうな水色で、3回めはまた薄赤だった。
 あれはなんだ? わたしは苛立ってしまう。なぜなら、ここはわたしのジャングルなのだ。わたしのジャングルは白い。おかしな色の存在は不審者そのもので、だからわたしは警戒している。


 プルルル。プルルル。 
 モニターから響く通知音で視界の白さがすっと薄くなり、目の前にキーボードや積み重なった資料が戻ってくる。
「はーいミミヲちゃん、勤務中のトリップ禁止ー」
 同僚の菜々さんがサイドモニターの画面に現れ、口を尖らす。わたしは時計を確認する。20時だった。
「もうコアタイムは過ぎています。サービス残業中なのでご指摘は不要かと思います」
「ぐ。相変わらずの付け入るスキのない返事!」
 菜々さんがウィンドウの中で仰け反る。

 わたしたちの会話を耳にしたのか、サイドモニターにもうひとつ画面が現れる。先輩の南さんだ。
「なあに、トリップって。不穏なんだけど」
 言うほど不穏に思っていないのはその表情から伝わってくる。
「あ、南先輩。そういうんじゃないです。ミミヲちゃんはナチュラルにトリップするタイプなんで、すぐジャングルに行っちゃうんですよ」
「ジャングル?」

 外界に出て普通に仕事し生活するようになり、世の中の人達が「自分の世界」を持っていないことに、わたしは驚いた。それでどうやって自分を保つのだろう。ヘイオンを保つのだろう。
 「自分の世界」は自己を保ち修復するための、自分だけのスペースだ。そこにはわたししかいない。余計なものは立ち入ることができない。
 仕事を初めたばかりの頃、わたしに興味を持ったのか「自分の世界」について根掘り葉掘り聞いたあと菜々さんは「まあ、フツーの人は、騙し騙しやってくもんだから」と答えてくれた。
 だましだまし。それは今でも、わたしにはわからない感覚のひとつだ。

「へぇ。真っ白いジャングルなんだ。それが」
 南先輩は菜々さんの説明を、缶ビール片手に興味深そうに聞いていた。いつの間にか飲み会になっているようだ。わたしは時々自分に向けられる質問に答えながら、残っているデータ処理を片付けている。
「心の整理をするのがジャングルだなんて、おもしろいですよね。余計混沌としそう」グラスにワインを注ぎながら、菜々さんが言う。
「けど、たしかに論理的な感じはするよね。混乱した事象をぶっこんでも全部白い、っていうのは。不要な情報を取り去って、必要な情報だけで再処理するわけでしょ? なるほどね、白いジャングルか」
 南先輩があまりに白、白、と言うので、わたしは思わず返答する。
「それが、そうでもないのです」

 近頃、その自分の世界に色のついた影が現れて、警戒している。とわたしはふたりに打ち明けた。
「こんなことは初めてです。報告した方がいいでしょうか?」
「えー、ミミヲちゃん、心配しすぎじゃない? あんまり管理を介入させたくないなぁ。ろくなことにならないんだもん」
「うーん…… 菜々の言うこともわかるけど、ミミヲが不安って言うならなんとかしないと」
「不安というか、警戒はしています」
「ねえねえ、その影についてもう少し詳しく教えてくれる? もしかしたらあたしたちにも何かわかるかもしれないし」
「そうだね、まあわかる可能性の方が低そうだけど。やるだけやってみよっか」
 菜々さんたちの要望に従って、わたしは次々と繰り出される質問に答えていった。影の色カタチから、出現した日時、その影を見た時に感じたことや思ったこと、なにか連想することなど。いつのまにか仕事をする手は止まってしまっていた。

「それで、その影を警戒して、ジャングルに行くタイミングをふやしているんだと」南先輩は顎を爪で引っかきながら考え込む。
「はい。見回りみたいなイメージでしょうか」
「影がいないとどうなの? 安心するの?」
 菜々さんにそう聞かれて、わたしは首を傾げてしまう。
「いえ、そう言えば…… いないとわかっても少しだけ、不安な気分になるかもしれません。いるはずなのに、と」
「ふむふむ。これはもしかすると……わかってきたぞ?」菜々さんがにやっとする。
「え? 菜々、ほんとに?」南先輩が目を見開く。
「これは素敵な事象に遭遇しちゃったなぁ。うん、だから心配ないよ」目尻を赤くした菜々さんが、ふふふと笑った。
「菜々さん、わかったなら教えてもらえますか」
「どうしよっかなー」
「菜々、意地悪しないで教えてあげなさい」
「いや、意地悪で言ってるわけじゃないんですよ。これ、あたしが教えちゃってもいいのかなって、いま自問自答してる」
「教えてほしいです」わたしはサイドモニターに迫る。
「……うん、そっか、わかった。あのね、あたしが考えるにそれは“恋愛感情”なんじゃないか、って思う」
 ……恋愛感情?
 想定外の言葉に、わたしの思考がぴたりと止まる。

「……あー」
 しばらくして、止まったわたしの代わりのように、南先輩が上を向いてそうつぶやく。
「なにが、あー。なんですか」
「なるほどね。確かに、これは解説したくはないね。野暮オブ野暮って感じ」
「でしょでしょ」
「ですが、わたしはわからないので教えていただかないと」
 少し焦ってしまう。ふたりはなにを納得しているのだろう。
「ダイジョブダイジョブ! 報告する必要もないし。追々わかってくよ」
「……ですが!」
 大きくなった声に、菜々さんと南先輩が目をみはっている。わたし自身も驚いてしまう。
「本当にね、心配すること無いんだよ。異常でもなんでもないから」
「でも……」
「うーん、わかった。じゃあ、ヒントだけあげる」
「ヒント?」
「カキザワさん」

 その名前を聞いた瞬間、わたしはモニターのカメラを切ってしまう。
「あっ、カメラ切った! どうした!」
「自覚あるんだね」
 ふたりの明るい声が聞こえてくる。自覚? なんの自覚だろう。
 深呼吸して、カメラを再びONにする。
「すみません、なぜかカメラを切ってしまいました」
「なぜでもないよ、わかるよ。大丈夫」
「それで、カキザワさんがなんなのでしょうか」
「だから、ヒント。その先は自分で考えてみたらいいよ」
 ふたりはなぜか笑っている。わたしはなぜか恥ずかしくなってくる。
「考えてもきっと、わかりません」

 カキザワさんは、先月から同じ仕事をするようになったばかりの、別のセクションの人だ。初めて打ち合わせをした時に、仕事の処理の仕方で意見が対立し、まわりのヒトに止められるまでわたしとカキザワさんは長い議論を続けた。カキザワさんの意見は新規性があって建設的だった。なぜわたしがそれに反発を覚えたのか、後から考えるとよくわからないのだった。

「わかるわからないとか、そうゆうの関係ないから。あんまり気に病まないように」
「そうそう。ヒントだけ持って、またジャングルに行ってみなよ。ね、先輩。もうお開きにしましょう」
「うん、それがいいね」
「え、ちょっと待ってください」
 だがふたりは、挨拶のことばと謎のはげましを残して、会話を切ってしまった。わたしの中には不可解と不安が残る。まさにジャングルに行くのが必要とされるような、心の状態。

 ヒントの、「カキザワさん」。
 つまりあの影が、カキザワさんということなのだろうか?
 なぜ、菜々さんはあの影を見たこともないのに、それがカキザワさんなんじゃないかと思ったのだろう。
 なぜ、わたしはなにかを恥ずかしいと思ったのだろう。
 なぜ、「わたしの世界」に、カキザワさんがいるんだろう。

 すこしこわい。自分の世界なのに。
 わたしの知らないうちにそこが、なにかが、変わってしまっていたら、一体どうすればいいのだろう。

 だいじょぶだいじょぶ、と、だましだまし、という菜々さんの言葉がふっと浮かび上がってくる。
 騙し騙しはわからないし、全然大丈夫でもないと思うのだけど、そして何かこわいのだけれど、それよりもあの影の顔かたちをどうしても確かめたくて仕方がなくなって、わたしは行くことにする。わたしの白いジャングルに。



 おわり


ライン

一日中わりとひっきりなしにオンラインで打ち合わせとかしていると「人にあっていない」という事実を忘れそうになります。それくらい、生身の感覚が画面の中やネットの中に馴染んできているんでしょうか。素子か。草薙か。

短編、といいつつ段々長くなっていることを自覚中。数時間でFIXに至るよう、つぎはうまくやりたいものだと思います。かしこ。



おかしかっていいですか。ありがとうございます。