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『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という【愛】について

まず、総合しての感想としては、そもそもの絵・映像のクオリティやサウンドデザインを考えると、ドルビー上映も抑えに行きたくなる映画だった。
ただ、個人的なインパクトととして、テレビシリーズへの衝撃が強すぎたのと、題材が劇場版への衝撃を和らげた気がする。
それでもちゃんと(?)がっつり泣いた。作品初見の同行者は照明が上がったらうなだれて泣いていた。

サンキュータツオさんは、この映画のストーリーを「シリーズを見てきたファンへのご褒美」と表現なさっていた。
たしかにヴァイオレットの恋の顛末を知りたいと思っていた人にはご褒美なんだろうな。
ただ、正直にいえば個人的にはこのシリーズにおいて、ギルベルトの言った「愛している」を恋愛なのか家族愛なのかなどの思考は無粋じゃないか、明言しないままの方が美しいんじゃないか、とも思っていたので、そこは好みの違いということだろう。
そういう意味ではハイコンセプト、という言葉がしっくりくるというか。
ヴァイオレットとギルベルトの物語を、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という美の表現で描いた愛の物語、と解釈する。


物語は、振り返る形で「あのあと、どうなったの?」という思いをうまく同調させて、ファンの心もちゃんと物語の一部にしてくれる。

田園と畑仕事の姿、変わらずこの制作チームは印象画の風景をとりいれて、私たちを絵の世界につれていく
あの見慣れた家がみえてくる。
シリーズを見てきた人にとって、今までヴァイオレットがたどった道のりは、ヴァイオレットとともに心を躍らせ、震わせた道のりだ。
だから「ご褒美」。

ちなみに、この最初と最後のCG描写にははじめはちょっとがっかりした。
自分のものすごく個人的な好みとして、CG描写がはっきりしているものが好きではないので。
ただ、思えばリアルの世界と、絵の世界、そしてその境目にCGをおいたのかもしれない。


劇場作中には、なにより「水」のモチーフがこだわってあった気がする。
雨のシーンは「あんなにも背景と馴染ませることができるのか」と衝撃だった。ヴァイオレットとホッジンズが佇んだ玄関には、しっかり大粒の雨が「溜まって」いた。
”水浸し”が表現としてではなく、文字通り水浸しにみえた。
(あの感動、この日本語になっていない日本語でどう伝えろっていうんだ)
雨も、海も、すべての水が一際美しかった。

水、といえば

愛はいつも 透き通る水のよう
受け止めてはまた離れていく

陽だまりの中にある
見えなくても 触れられなくても そばにあるように

これはここに繋がっているのかもしれない。


ヴァイオレットは、シリーズを通してずっと少佐の言葉の意味を、言葉そのものを追いかけ続けていた。
ギルベルトの「あの子にも美しいものを美しいと感じて欲しい」というセリフ。ヴァイオレットは彼の願った通り、出会う人とその人たちの心からたくさんの感情と感覚を吸収して、空っぽだった人形の中にそれらを蓄積させていき、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」という魂を完成させていた。
劇場版で見られたのは、その魂の形だったとおもう。

たとえば、やっと会えるとやってきた島で、ユリス危篤の報を受けて「約束したのです!」とその島を去る選択をする。
自動書記人形のヴァイオレット・エヴァーガーデンとしての選択だ。

彼女にとって、自動書記人形であることは彼女の本質であり、ギルベルトなしで生きていけるだけの、力を手に入れたことの証明だ。
そこで、ギルベルトと会うことを選んでいたなら、彼女は本当に今までもこれからも、ギルベルト少佐という存在なくしては、この世に存在できない依存的な人物になってしまうだろう。それは、それこそ中身のない人形のようだ。

—いや、それでも、ヴァイオレットははじめから、”少佐なし”にしっかりと歩いてきた。彼女の自覚としては、もしかすると「彼なしの人生など」と思えるだろうけれど。
ヴァイオレットは自ら思考し、出した結論の一つとして「自動書記人形になる」と決めている。誰かに「愛してるって言葉が知りたい?だったら自動書記人形がいいんじゃないのかな」とか、そういうことを言われたわけではない。
自分の目で観察して、得た情報を元に結論を出している。

ギルベルトがヴァイオレットに会うことを拒んだ理由として、彼女への憂いがあるわけだけれど、そんなものは無用だった。
彼女は彼の命令を必要とせずとも生きられる人物だった。
これまでは彼女自身にその自覚と、そうしたいという望みがなかっただけで、「約束したのです」と自動書記人形であろうとする姿は、ギルベルトの憂いを晴らすものだ。

ヴァイオレットにとって、自動書記人形として歩んだ時間で大切だったのは、おそらく「愛してる」の言葉の意味を知ることや、その意味を理解するために人の心を取り戻すことではなく、
誰かの言葉やアドバイスや、命令ではない、混じりっけなしの自分の意思で歩み、形作っていく事だったのではないか。
目の前の出来事に、人の心に、まっすぐ向き合い、フォーカスしてきた歩みが、その純度を高める。

クライアントのためにドールとして、手紙を書き続けた。
この世に唯一無二のドールとして、ひとりの人物として、ヴァイオレット・エヴァーガーデンという存在が確立した。
その決定打が、「今、少佐と会うことよりも、ドールとして責務を全うすること」だったように思う。


立派な一人の少女—いや、女性となったヴァイオレット。
人形にそもそも命を吹き込んだのは、ギルベルトだ。
「愛してる」その一言は、人形に命を吹き込んだ。
そして、彼女はそこから動き出し、本物の人間になった。

「愛してる」とは?
「愛」とは?

愛というエネルギーはそもそも、とても美しい。
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』で感じる強い愛は映画『ムーラン・ルージュ』のような激情型の愛と同じだけのエネルギッシュさを感じる。
それを、見事に情熱だけそのまま、洗礼された美しさにしてあるように思う。

多分、おそらく「美」は私が思うほど重要視されていないかもしれない。
それでもこんなに美しい作品たちになっているのは、作り手たちが色々な「愛」をこめて作ったものだからだろう。
アニメーションを愛する人たち、キャラクターを愛する人たち、ストーリーを愛する人たち…。
この作品に関わる人たちが、一筆一筆、自分の中にある愛を込めて、足していった。一つ一つの筆運びは、近くで見ては何のことかわからないところもあっただろう。
でも、最後にふと顔を上げてみると、キャンバスにはそれはそれは美しい絵画が一枚出来上がっていた。
そして最後に、劇場版というサインを書き込んだ。

そのサインを見たい人はみるし、見ない人は見ない。それでも同じようにその絵の素晴らしさに感動する。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を世に出すことに、尽くした人たちの愛に感謝を。

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