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いのちのなかの生きる力。

わたしは元々の「暮らし」というものの立ち上げ方が、とても原始的なんだろうなーと、ふとおもう。

小さなころ、わたしが夢中でやったのは、森のなかで全ての流れを観察しながら在ること。

それから、人の営みの中にある水の流れを通じて、どうすれば濁った水が澄むのかを、ひたすら体験として、実践し、観察することだった。

その他、イタズラみたいなことも、大人から隠れてする子どもたちだけの遊びも、わたしだけの空間のひとり遊びも、神さまとの時間をすごす時間をとることも、本を読んだり、友だちと遊んだり、学校へ行ったり、病に倒れてそこからみえる景色を観察したりするなかで、たくさんしてきたのだけれど。

幼稚園の頃には、もう、動物のお医者さんになりたかったから、夢を叶えられるように人間界ならではのお勉強もがんばろうと思って取り組んではいたのだけれど。

そちらはやればやるほどアレルギーが生まれて、わたしは大好きな動物たちと離れなくてはいけなくなり、けれどそのおかげで、わたしは人間として生きる時の、彼ら、愛する自然界の家族たちとの、ソーシャルディスタンスを、長い時間をかけて学んでいった。

彼らはいつもわたしを懐に入れて、優しく育ててくれたけど、わたしには人間として生きる世界が在ることを、絶対に、忘れさせはしなかった。

それだから、わたしは人間界独特のお勉強の世界も、時にはやりすぎて倒れながらも楽しんで実践してきたのだけど(*^^*)

そんな風に生きてきたわたしの中で、今、わたしのいのちの生きる力がいちばん立ちあがるとしたら、

「どうしたら、みんなに綺麗なお水を届けられるか」

なんだろうなーと、そんなことを思った。

子どもの頃、夢中で実験したことがある。

綺麗な水をドロドロに濁らせるためにはどうしたらいいのか。

そしてそれが再び綺麗に澄んだ水になる時、どうのように世界は在るのか。

子どもの実験なので、phとか、生体にとっての毒物のこととか、水という液状態に含まれる含有物まで調べていたわけじゃなく、あくまで"見た目"の透明度ではあったのだけれど。

簡単に言うと、水は土(水に含まれるミネラルのよりも粒子が荒いミネラル)で汚れて濁り、砂利(結晶状に変質したミネラル)の間を流れてゆくことで、透明な、澄んだ水になった。

浄水の仕組みを知っている人たちは、"当たり前じゃないか"というかもしれないんだけど、わたしがしたのは、「浄水場」、という実験ではなくて、「川」、という実験だ。

この遊びを、「文明」と名付けた。

正確にいうと、自然図鑑や歴史漫画のなかでみてきた"文明"というものの起こりを、自分のなかに観たかったんだとおもう。
(人間界で発行されている自然図鑑とか、地球図鑑とか、宇宙図鑑のなかだと、人間は、その流れの一部として登場するんだよ♪知ってた??)

プロセスのなかで、家主のおばあちゃんに怒られたり、何度も何度も、掘り進めてつくりあげた川の仕組みを埋めたてられたりしながら、わたしは生活の中の蛇口から出てくる水道の水を、「無駄遣い」だと、完全に人間界からはそう呼ばれてしまうであろう量をこの実験のための投資としてつぎ込んで、自分が完全に満足するまで、「文明」の実験を続けたの(*^^*)

この頃のわたしは体重も走り方も考え方も生き方もなにもかも軽かったけど(軽すぎてよく召されそうになっていた。笑)、反面、力がとても非力だったので、深く穴を掘ったり、砂利を集めて運んできてくれたりする力のいるお仕事は、元気印100の体力を誇っていた弟がサポートしてくれた。

毎日毎日、掘った仕組みを埋められてしまうと、仕組みがゼロにかえってしまって充分な観察が出来なかったから、わたしはおばあちゃんに交渉して、4日間だけ、そこを触らずに、そのままにしてもらえないかを頼んだ。

観察するのに、どうしても必要だから、と。

"ちゃんと元に戻して綺麗にする"ことと、すごく広い、田舎の一軒家の廊下の拭き掃除を条件に、毎日、キチッと同じ動線で動きたいおばあちゃんの生活の流れを、一生懸命お願いして、4日間だけ、そこを触らない動きに変えてもらった。

それで、小学生だったわたしは川の実験ができる環境を手に入れたの。

この実験をした九州の祖父母の家は、近くに川とお山もあって、お山の方に神さまが祀られ、川には河童の伝説があり、そこに広がる昔ながらの集落(農業と農耕、そして繁華街には温泉とな宿も♪)があったから、わたしはこの、小さな箱庭のなかでやった実験に、息吹が吹き込まれるのを感じながら、全ての流れを観ていた。

それでね、話を現代に戻すんだけど、尊敬する友人が、わたしが今暮らす街の8万年前の地層を見せてくれた時に、お話してくれたんです。

この土地には、石が無かったって。
石じゃなく、砂だった。
だから製鉄に繋がっていったんだ、と。

もちろん、わたしの暮らす街よりも下流にある集落も、そうでしょう。
(製鉄は知らないけど、石の方ね)

つまり、山間部の水の流れと違って、関東平野には大きな石、結晶したcrystalによる水の浄化槽は、なかったんだよね。

砂はあるけど、細かな粒子のミネラルは水に混じるから、水質浄化には、繋がりにくい。

じゃあ、代わりに何があるのかな?って言ったら、たとえばわたしの暮らす街には、沼がめっちゃある。

沼は湿地なので、何を呼ぶかというと、鳥と昆虫、小さな草花、彼らが運んだ樹々、そして、目立つものとして、例えばわたしの街なら、葦や真菰が生えてる。

ここからは、全国を旅してみてと、鉱物と、植物と動物と生態系と生命のオタクをやり続けてきた単なるわたしの推測なんだけど、植物の中のcrystalと、沈殿、という物理的法則が、沼、という、自然界の汚水槽となるはずの、自然界としてはとても流れのゆっくりな溜め水を、長い時間をかけて、浄化しながら存在している可能性がある。

もちろん、地下水脈と、そこから湧き出てくる湧き水の存在はあるわけなのだけど、石がなかったわたしの街には、植物、という形で鉱物たちのその働きが、存在していたかもしれない。

そんなことを思ったら、なぜ、湿地が鳥の楽園で、また、虫たちの楽園でもあるのかが、なんだか仕組みとして腑に落ちたきがした。

動物たちは、必ず、水場を持って暮らす。

種によって、ほとんど水が必要ない種もいるけれど、少なくとも人間は、長い時間、水場を持って暮らしてきたと、そうおもう。

それは、人間という生命体もまた、肉体としての体が水を必要としていたから、それそのものもあったと思うけれど、もっと根本的に、水がある場所には、生命が育まれる場が形成するのだと、記憶のどこかで知っているから、なのじゃないのかな、とわたしはおもうんです。

そしてその水は、例えばみためには留まっているようでも、時には淀んでいるように見える時でさえ、その本質は必ず細かく、精妙なほどに振動し、流れ続けている。

今、経済の流れのことが、表にいっぱい、情報として出てきていて、資本主義も、新しい資本主義も、資本じゃない主義も、共産主義も、自然からもらう主義も、全ての在り方をね、「なるほどなー、人間界はそんな感じなのかー。」と、わたしはそう思いながら、眺めていたのだけど(*^^*)

"みんながしあわせ"の"みんな"のなかに、人間だけって、わたしの世界では最初からありえない(不自然だ)から。

見つめながら、STAYして、考えてた。

自然界が当たり前に与えてくれる全てを、ただ、資源として受け取り、使う、消費するやり方から、わたしという人間が進化する方法。

アレもコレも、人間界の物質に形を変えて、わたし共にある全ての"生命の流れ"というものを、搾取し、消費し、使い捨てる循環から、完全に進化を遂げる、その方法。

どうせなら、そこ、生きたいじゃん?

そのためにわたし、何もかもがハーフなんだし♡

既存の全てを壊す必要は、わたしは無いと思うんです。

それはそもそも、ものすごく乱暴な、人間界のやり方だから。

ただ、長い年月を人間界だけに閉じ込めていた経済、というものを、解放して、ひとりひとりが純化して、'流れ"に返していけるかどうか。

そこは問われていると、そうおもいます。

全てを、そのために動けますか?

今日明日のためじゃなく、一年二年先のためじゃなく、あなたの、頭のなかの算段や、計画のためじゃなく。

本当の流れ、循環の本質が、人間にかえってくるために。

今、わたしがやっているのは、まだ自分の肉体レベルのことで、最近だと、足のケアを丁寧にしています。

あと、phと食物と、からだの状態と陰陽の、外側への現れ方の実験。

それで何をしているのかっていうと、これから外側の世界でやることの地図を、からだの流れと働きを通して、全てから受信しています。

そして、そうやって、今、日本に生きているわたしの全ての細胞と細やかにCommunicationをしながら、

"水の流れが澄むように働く"。

そんな、最初の、日本人としての、DOが、生まれたの(*^^*)

そして、その働きをするときに、意識してほしいことがある。

それは、人間だけで、やろうとしないで、っていうこと。

人間だけでやれるなら、最初から、鉱物も植物も動物も、生態系、という循環は。

ホメオスタシス、という循環は、世界に無いから。

地球という遊び場は、それだけで、いつだって素晴らしい魂の学び舎なんです。

大切なことは、見えにくいけど、Senseで観られる世界にちゃんと書いてある。

ダムも、浄水場も、自然界を見渡せば、同じような働きのものは存在する。

けど、それらは流れを堰き止めたり、流れそのものからハミ出ているわけじゃなくて、流れのなかにあるから、そこには"力"が働く道が存在しています。

だから、人間の世界よりも流れがずっとゆっくりだけれど、振動ば決して止まらないし、留めないから、無理が生じなくて、全ての流れとして世界に在ります。

人間のすることは、暮らしのなかにその道が存在していることを認めて、その道をできれば、いつも綺麗に掃き清めて(それすら、自然が自然のペースでゆっくりと、行うのだけれど)、その大きな繁栄の力を、その身に受けて生きていくこと。

留まり、つかの間に生じてくる様々を味わい満喫しながらも、大きな流れと共に在ることを知り、その愛を体現し、この世に在ること。

それを、自由っていいます(*^^*)
(まだ定義にはしません。人々のなかの水と火を揺らしながら生命のなかで働く日本語の質を、今は最大限に使いたいから)

わたしはずーっと、待っていました。

あなたは待てるかな?

彼らが働く道が、息吹が、人間の世界に、行き渡るのを。

土地ごとに、水の流れを澄んだものへと返すやり方は違ってくると思うし、どこかが動けば、一時的にどこかが大きく濁ったり、苦しんだりすることもあるでしょう。

その時に、げんきになったその場所が、一時的ではない、本当の助けを送れるかどうか。

本当に、全てがわたしたちの経済の細胞であり、大きな息吹がめぐるための道をつくる大切な元素であり、素粒子であり、愛、なんだって、信じられるかどうか。

人間だけ、の暮らしはこの二十年、ずっとずっとやっていたから、わたしはわたしの椅子に完全にもどります。

道がないのなら、わたしが道になればいい。

そしてそれは"生きる"とき、全ての人間が自然と成していることなのだと、わたしはそう思います。

次回からは、少しずつ、わたしの中にあるものを言葉にしていこうと思います。

まずはタイムリーなこと。

ソーシャルディスタンスから。

人間と人間の関係性で完結していたこれまでのソーシャルを超えた世界を新しいソーシャルと捉えて、その世界でのソーシャルディスタンスを、毎日の暮らしのなかで、わたしたちはどのように生きてゆけるか。

地球に暮らすコミュニケーターとして、今、どんなお仕事ができるのかを楽しみに、今日の地球誕生日記を終わります。

2020年4月20日 日本
地球に暮らす、さやかより♪

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