見出し画像

映画『ジョーカー』このジョークは誰にも理解出来ない。

【「あの停電は、俺たちを食い物にしてきたヤツらを退治するチャンスだったんだ。あの一日半で行なわれたことは、政府に対して『あんた方は、ゲットーに住む人たちと深刻な問題を抱えている』ってことを表明していたのさ」】(ジェフ・チャン『ヒップホップ・ジェネレーション』より引用)

 『ジョーカー』の舞台である1981年のゴッサム・シティは、貧富の差の拡大により、貧困と暴力が溢れている設定の“架空都市”だ。しかし「主人公アーサーの生活拠点をサウス・ブロンクスで撮影することに決めた」という監督の発言からもわかる通り、そこには70年代後期~80年代前半のニューヨークの風景が重ねられている。その当時のサウス・ブロンクスは貧困の象徴であり、行政に見捨てられた地域だった。市民の怒りは1977年7月13日に発生した「ニューヨーク大停電」の時に爆発し、暗闇の街では略奪と破壊行為が繰り広げられたーー暴動だ。

 そんな混沌としたサウス・ブロンクスではヒップホップ・カルチャーも産声を上げていたが、大停電はそのムーヴメントも後押しした。音楽機材を盗んだ多くの若者たちがDJを始めたからだ(※1)。今も私たちはあの暴動の中で踊っている。行政に見棄てられた地域とヒップホップの関係性を、本作のゴッサム・シティに当てはめれば、そこには現在まで脈々と連なる「破壊と再生」のイメージが見えてくる。

(※1)冒頭、アーサーが楽器屋の閉店セールの看板を持って踊っているのも示唆的である。

画像1

 80年代に発表されたアラン・ムーア原作のコミック作品には『Vフォー・ヴェンデッタ』に登場する革命家“V”や、『ウォッチメン』で政府の汚れ仕事をするヒーロー“コメディアン”、そして『バットマン : キリングジョーク』のジョーカーなど、「世界の“真の姿”を知ってしまった」人物が共通して登場する。アラン・ムーアの80年代(20世紀)に対する批評と皮肉が、強く反映されたキャラクターたちと言えるだろう。レーガン政権、冷戦、チェルノブイリ原発事故(※2)ーーそんな80年代の混沌の中で、アラン・ムーア(とブライアン・ボランド)がジョーカーというキャラクターに目をつけたのは必然だったように思える。

 【とある精神病院に2人の男がいたーー】と始まる『バットマン : キリングジョーク』は、バットマンとジョーカーが互いに狂人であり、共依存関係にあること、さらに最初と最後が同じコマ = ループであることから、2人が“終わらない物語”の中にいることが暗示される。この“終わらない物語”は現代のエンタメシーンを語る上で重要なキーワードだ。マーベル・シネマティック・ユニバースや『ゲーム・オブ・スローンズ』などに代表される2010年代のドラマシーンの盛り上がりは、その延長戦上にあるのだが、今回の『ジョーカー』は、そのループを断ち切るようにバットマンが登場しない。今年完結したシャマラン・シネマティック・ユニバースの2作目『スプリット』(2017年)も、ヴィランの誕生譚であり、ラストは優性思想的なものが登場人物たちの「救い」になる歪なバランスの作品だったが、『ジョーカー』もヒーロー無き世界の「救い」がキケンな形で提示される。

(※2)『ジョーカー』の音楽を担当しているのは、ドラマ『チェルノブイリ』(2019年)のスコアを担当したヒルドゥル・グーナドッティル。

 『ジョーカー』はアメコミ映画の文脈で言えば『バットマン リターンズ』(1992年)や『スパイダーマン2』(2004年)のように街と人々を描き、映画史への接続を試みている作品である。時代背景や「1人の人間の狂気が社会に認められてしまう」作品としては、スコセッシ監督の『タクシードライバー』(1976年)や『キング・オブ・コメディ』(1982年)からの引用も見られるが、画面から受ける印象は全く異なる。もし、撮影形式ごと引用するなら、タランティーノやポール・トーマス・アンダーソン、デヴィッド・ロウリー作品のように、1981年のゴッサム・シティ = ニューヨークをフィルム撮影で……という方法もあったはずだが、本作は違うアプローチを採用している。

 本作の美術や照明、画面全体のカラーリング、構図などはグラフィカルで、ALEXA 65をメインとした撮影も的確である。アメコミ映画の文脈から、このグラフィカルな画面にコミック的な印象も受けるのだが、カメラの動きや編集のリズムよりも優先された「静的な画面」の中で、全ての「動的な要素(アクション)」は、アーサー = ホアキン・フェニックスの挙動に集約されている。「ホアキン・フェニックスの演技がスゴい!」という感想は、彼の演技自体の凄さはもちろんのこと、この映画の生理がホアキンを中心に成り立っているから当然とも言える。

 階段やエレベーターでの上昇と下降のイメージ、バスや電車での移動、それらのシーンの「場所と瞬間を撮る」のではなく「アーサーのいる空間を撮る」という意識が全編を通して徹底されているため、「アーサーの主観」で世界が動いているように見える。アーサーにカメラのピントが合うとき、背景はとても美しくボヤけ、私たちは彼の実像が浮かび上がるように錯覚するーーそれがジョーカーの企みとも知らずに。

【ホアキン・フェニックス「僕は、観客に道徳を教えたり、善悪の違いを伝えたりする責任がフィルムメーカーにあるとは思わない。僕にとっては言うまでもないことです。」】(IGNのインタビューより引用)

 『アス』、『パラサイト 半地下の家族』、『万引き家族』、『アトランタ 略奪の季節』など、貧困や移民をテーマにした作品が各国で製作され、グレタ・トゥーンベリが気候変動への働きかけを訴え、香港ではガイ・フォークスの仮面を被った人々がデモをしているーーそんな2019年に『ジョーカー』は公開された。タイトルとは裏腹に、本作はアーサーという1人の人間の物語で、彼は全編を通して巨大な“?(ハテナ)”であり、疑問や問いかけの的として機能する。何を考えているかもわからなければ、アイデンティティーも不確かで、ジョークの意味もわからない。その結果、彼は「どんな風にも解釈出来る」人物なのだが、こういう人物の描き方は最近の(この規模で公開される)映画の中では珍しい。キャラクターの性格や行動原理を箇条書きでまとめられるレベルに制限した方が、観客は混乱しないし、それぞれのクラウドで盛り上がれるからだ。

 人間は多面性を持っているが、そのことに対する想像力は、ソーシャルメディアの中では簡単に欠落してしまう。誰もがヴィジランテとして、正義のために声を挙げる。これはジョークだろうか?現代において、アーサーは人間の多面性のカリカチュアとしてスクリーンに現れる。しかし、彼の名前はどこかに消え、劇場には『ジョーカー』というタイトルが並ぶ。「犯罪や暴力を誘発するかも知れない」と警察や軍隊が警戒態勢を敷き、人々は様々な解釈を巡って争う。この混沌を眺めながら、ジョーカーは笑っているに違いない。私たちは『ジョーカー』という不道徳な物語を語り継いできた。その意味が2019年に改めてわかるだろう。

画像2

 ラストのアーカム精神病院の“白い部屋”のシーンで、ホアキン・フェニックスが演じているのはアーサーではなく、私たちがよく知る“ジョーカー”だろう。ジョーカーのテーマカラーである白と緑を部屋と画面の色彩に託し、素顔でジョーカーを演じるこのシーンはホアキン・ジョーカー最大の白眉だろう。ジョーカーは目の前の“不誠実な聴き手”であるソーシャルワーカーを殺して部屋から出ていく。そう考えると、この部屋に至るまでの話はジョーカーのキリング・ジョークであり、ソーシャル・ワーカーである彼女が、もしくは観客である我々が都合よく解釈した、ジョーカーの混濁した脳内にある過去の断片だったのではないだろうか?その後、映画『モダンタイムス』のラストを引用し、チャップリン同様、ジョーカーは画面の奥へと(おそらく笑顔で)歩いていく。足が血塗られたチャップリンは、明らかにコメディに振り切った追いかけっこを披露する。アーカム精神病院をジョーカーが逃げ出す理由はひとつ。最高のジョークを持って、バットマンに混沌を届けるのだ。その時、私たちはどうなるのか?今の状況を見ればわかるだろうーー暴動だ。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?