社会不適合者
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現代ほど気軽に「オタクです」と発言できる時代はなかろう。若者らは抵抗なくカジュアルにオタクであることを打ち明ける。「私は怪しい者ではありません」という風に。しかしそうはいっても、かかるカミングアウトは自虐的かつ消極的態度のうちになされることが多い。自慢げに言う人にはなかなかお目にかかれない。
オタクをどう定義付けるかは困難を伴うものの、漫画、アニメ、ゲーム、アイドル、コンカフェ、鉄道等々一般的な理解としてその対象は広いようである。
さて、ドールはどうであろう。私はドールオーナーであるが、「ドールオタク」という言葉は聞かれない。オタクというよりマニアに近いからであろうか。
精神科医である斎藤環はオタクとマニアは別物であるとする。マニアは実利的ではないものの実体的なものに価値を認める(昆虫の標本、オーディオ機器など)。したがって、彼らにとってはどれだけ実物を所有(コレクション)しているかが重要となる。他方、オタクはこのような実体的志向に乏しく、提示されている虚構を「自分だけの虚構」へと昇華させる「所有の儀式」(自作のショートストーリーやサイドストーリーその他評論など)によって観念的に「所有」する(1)。
ドールはいうまでもなく有体物=実体あるものなのでドールオーナーはマニアに類すると判断できる。しかし、ドールオーナーはそこまで実物を所有することに拘っているのだろうか。コレクションというより自分の理想のオリジナルなドールを欲望するのがドールオーナーではないか。確かに、たくさんのドールを所有しているオーナーもおられるようだが、コレクションというよりは自分好みのドールをお迎えして気づいたら増えていたというほうが正しいだろう。
また、ドールはその造形上、好きな衣装、ウィッグ、ポーズが選択できるように企図され、ドールオーナーは自由裁量でその選択に従い、背景とともに写真を撮る。そして、撮った写真をTwitterなどSNSにあげ、ドールオーナー同士で共有する。写真を撮る(シャッターを押す)という行為は「かつてあった」(発端)そして「すでに終わった」(結末)という二面性、すなわち「物語」を撮ると解されることから(2)、出来上がったドール写真も物語として虚構性を帯びる。実体の有無は虚構性の条件ではない。これがドールオーナーの「所有の儀式」なのであって、オタクのそれと何ら変わらないのである。以上からいえることは、ドールオーナーの精神構造はオタクのそれに近いものがあるということである。
ところでドールおじさん(ドールを一体以上所有しているドール愛好家の中年男性)という蔑称がある。専ら自虐をこめた一人称として用いられる。わたしを含めドールおじさんは別に悪事を働いているわけではないし、後ろ指を指されるようなこともしていない。堂々としていればよいはずだが何となく後ろめたいのだ。ドールの存在がまだ多くの人々に認知されていないこともあいまって、人の往来がわずかにでもあるような場所での撮影が心理的に憚れるのもその証左である。実際わたしなどは撮影に夢中になっていて気づいたら後ろにギャラリーができており、衆目に晒されていたということが何度かある。
この後ろめたさの原因は「人形は少女が持つもの」という先行したイメージに由来するということもあろうが(3)、それだけではない。とりわけマイノリティな趣味であるドールをお迎えするおじさん自身にもオタク特有の劣等感や生きづらさが起因しているのではなかろうか。
ここからオタクの特性について思いを致すと、オタクは社会的「弱者」なのではないかという疑義が生じる。オタクの弱者性についてはこれまでも議論されており、賛否あるがわたしの言う「弱者」とは消極的な意味ではないことに留意されたい。ここでわたしの「推し」哲学者であるエリック・ホッファーの言葉を引用する。やや長い引用になるが、お気に入りなので載せておく。
現状に満足している安定した人間がわざわざ苦労して新天地へ人生を賭けた冒険などしない。オーストラリアやアメリカ大陸など未開の荒野の開拓者も破産者、貧民、飲んだくれ、ギャンブラー、女たらし、逃亡者、元囚人など世間から見放された弱者、ホッファーの言葉を借りれば「ミスフィット」(社会不適合者)であった。
確かに、すべてのオタクが酒やギャンブルで生活が破綻しているわけではないし、むしろオタクは社会的に問題を起こさず慎ましく生きている者が殆どであろう。この点、ホッファーが言うミスフィットとは大きくかけ離れている。
しかし、上記の引用元書籍が執筆された1930年台の合衆国の気質と現代の日本のそれとを同列に扱うことはできない。時代や地域、文化の相違により「弱者」の内容も異なる。生活破綻者でなくとも、現代の日本のオタク固有の「生きづらさ」は存するだろう。
オタクたちの熱意が集結されたコミケを見ればよくわかるように、オタクにもホッファーの言う新たな創造の可能性を有している。たとえ赤字でも「薄い本」を創作し、これを発表したいのである。
ドールオーナーについてみれば、彼らはドールに対する「情念」がある(4)。彼らは顔の造形から衣装のコーディネート、ウィッグ、アイ(瞳)、ポージングまで拘り理想の美少女の創造を目指す。また、彼らは必ずといってよいほどお迎えしたドールに名前をつける。命名はそれ自体強烈な個性の付与行為であって、さらにTwitterなどSNSの場では先述のドール写真を掲載し、ドールに台詞をつけて喋らせる。これこそ人形に「人格」を与えたいというピュグマリオンコンプレックスの発露である。まさに情念のなせる「業」(わざ)、そして、まさに「業」(ごう)が深いといえよう。
オタクの創造性然り、ドールオーナーも現代の「ミスフィット」なのかもしれない。
2 脚注
(1)斎藤環 「せんとうびしょうじょのせいしんぶんせき」 株式会社太田出版 2000.4.27 p30~
(2)西村清和 「視線の物語・写真の哲学」 株式会社講談社 1997.6.10 p43~
(3)増渕宗一 「少女人形論 禁断の百年王国」 株式会社講談社 1995.7.27 p22~ 外
増渕によると、少女に人形を持たせるのは着せ替え、裁縫、洗濯、ままごと、お客様ごっこ等を通じて家事育児の疑似体験をさせるためであると言う。人形を媒介として明治政府の男尊女卑思想に基づく良妻賢母観の教育的実践がなされた。人形は少女が持っているというイメージはここから生じていると指摘する。
(4)増渕宗一 「人形と情念」 株式会社勁草書房 1982.9.30 p5〜
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