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9月29日の手紙 満月で中秋の名月

拝啓

帰宅時に空を見上げると丸く大きな月が輝いていました。
ちょうど目の前に、明るく輝いています。
今夜は満月で中秋の名月だそうです。
大きさはいつも見る月より少しだけ大きいくらいですが、いつもよりずっと眩しく感じます。強い、黄金色の光を放っています。
惹きつけられるような光です。
月が美しく見られる場所を探して、いつも通らない道の方を進んでしまうほどでした。
月を目で追って、美しく見える方、見える方へ進むと、いつもの道から逸れてしまったのです。
息が漏れるほどの月だったので、スマホで写真に収めようとしたのですが、うまくいきません。
白くぼやけてしまったり、ただの白い点になってしまったりします。
あの輝きは全く写真に撮れません。

ネットでスマホの操作の仕方を検索すると、設定を調整すると美しく撮れるらしいという情報が上がってきました。
暗闇の中、道路の端によって、その情報を読みます。そして、設定を変えてみます。次こそと思って、スマホを構えてシャッターボタンを押すのですが、イメージするような写真にはなりません。どうしてでしょう。書いてある通りにやっているはずなのですが…。
住宅街でスマホを月に向かって無言でかざしては首を傾げ、また月にかざす人間は不審人物だったでしょう。注意されても、通報されても不思議はなかったように思います。
しかし、街の中は、いつもの夜よりのんびりして穏やかでした。お風呂上がりのような、昼寝のあとのような、緊張が抜けた、まるい雰囲気です。
犬の散歩をしている人も、夜を味わっているようです。
小さな料理屋から客と見られる初老の男性が、戸口へ出てきました。月を眺めてすぐ、店内へ戻ります。「月がすごいよ」という声が聞こえます。店員がエプロン姿のまま、男性と共に出てきて、空を眺めます。2人してしばらく、月を眺めていました。会話はありません。初老の男性が月を出したわけでもないだろうに、どこか得意げな様子でした。
別の歩道では、就学前くらいの男の子とその保護者と思われる女性が、2人で月を眺めていました。女性は月の方をへ首を伸ばしうっとりとした雰囲気です。男の子は少し退屈しているようでしたが、騒いだらせず、おとなしく女性のそばにいました。会話はありません。
美しい月には言葉をなくさせる力があるのだと感じます。
500年前も1200年前もこういう月の夜はあり、その度に人間は言葉をなくして、ぽかんと空を見上げていたのでしょう。静かなため息や感嘆の囁き声は虫の声と同じくらいささやかです。
黙っているからといって、何もしていないわけではありません。月の美しさを何とか捕まえよう、何とか止めようと、身体の感覚や頭は必死に働いています。それでも美しさは光とともにすり抜けていくのです。写真のない時代、それはもっと難しく、もっと切実だったことでしょう。どうやって、あの美しさを誰かに伝えられるものか、どうやってあの美しさをとどめられるものか、と頭を悩ませたことでしょう。
その結果が、和歌や俳句を詠むこと、絵を描くこと、唄を歌うこと、舞い踊ることなのだろうと思います。捕まえられぬ体験を捕まえようとする試みこそ、人間らしい営みと言えます。
過去、こういう月の下であったありとあらゆる出来事が、永久に会うことのない人々が、今、自分と共にあるように感じます。善悪、喜怒哀楽、全ての出来事が起こったことがあったでしょう。今日この瞬間は2度となく、その一方で、同質の夜は幾千とあり、ゆるく繋がっているのです。
下手くそな写真を撮りながら、そんなことを思いました。
結局、満足のいく写真は撮れず、30分ほど、寄り道を食ってしまいました。寄り道をするのは久しぶりです。たまにはこういうことが必要です、多分。

そうそう、月見団子を買って帰ろうと思っていたのですが、月の光に当てられて忘れてしまいました。
その代わり、シャインマスカットを食べました。
丸いのは同じだからいいと信じています。
あなたは、月を見ましたか?
お団子を食べたでしょうか?
それとも?




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