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シェアハウス生活で気づく、多様性との向き合い方。 #216

実録・シェアハウス生活 

アメリカ・ニューヨークの家賃は高く、学生や若者はシェアハウスに住む場合が多いそうだ。留学中の私もご多分に漏れず、シェアハウスに住んでいる。今の家に引っ越す前は韓国系アメリカ人1人とシェアをしており、今は日本人3人と暮らしている。

シェアハウスというとドラマや漫画の影響で華やかなイメージがあるかもしれないが、実際はキッチンやバス・トイレを共有で使うだけのご近所の人程度の関係性である。むしろ、他人と同じ家に住むとイライラする場面の方が多い(当社比)。

部屋、冷蔵庫、洗濯機のドアの開け閉めの音の大きさ。ドタバタと歩く音。爆発音のような唐突なくしゃみ。キッチンの排水口に残る食材のゴミ。洗わずにシンクに放置された食器。洗面所の鏡についた歯磨き粉。バスルームの排水口に溜まった髪の毛。黄ばんでいくトイレ。取り替えられないままのトイレットペーパーなどなど。パッと思いつくだけでも、これほどのイライラする要因がある(思い出してもイライラしてきたのでこの辺で切り上げることにする)。


私の「常識」は他人の「非常識」

私がイライラする理由は、大きく2つに分類できそうだ。それは生活音が大きいこと共有スペースを掃除しないことである。これらにイライラするのはなぜだろうかと考えてみると、それは自分の常識に反するからだという結論に至った。

私にとっての常識とは「他人に迷惑をかけてはいけない」であり、その常識に反していると「相手への配慮に欠けている」と感じてイライラするようだ。私は「大きな音を立てるとうるさいからドアの開け閉めや歩く音を小さくするべき」と思っているし、「共有スペースは次に使う人のために使った後は掃除するべき」とも思っている。

この2つは私が家庭や学校で守るべき「ルール」として学び、誰もが守っているものだと思っていた。でも、シェアハウスでの生活で気づいたのは、私が常識だと思っていたことは全員が守らなければならない「ルール」ではなく、あくまでも他人に迷惑をかけないための「マナー」だったようだ。まさにカルチャーショック。


シェアハウス生活での2つの学び

このようなシェアハウス生活を送ることで学んだことを抽象化すると、それは「共有地の悲劇」と「非暴力・不服従」である。

共有地の悲劇

共有地の悲劇という現象が行動経済学で指摘されている。「多数者が利用できる共有資源が乱獲されることによって資源の枯渇を招いてしまうという経済学における法則」なのだそうだ。

自分のものでないものは何も気にせず使ってもよいと思ってしまうのか、共有物のメンテナンスを気にしなくなる傾向が人にはある(私にもあると思う)。人類はこの問題を解決するために、できるだけ全ての物を私有財産に割り当てたり、共有物をメンテナンスする専属の人を配置したりといった対策をしてきた。

シェアハウスにおけるキッチンやバス・トイレは社会における最小単位の共有地であるとも言える。「誰かが掃除するだろう」と皆が思えば、誰も掃除することなくドンドン汚れていく一方である。共有スペースの綺麗さという共有資源は簡単に枯渇してしまうのだ。

こうした「名もなき家事」に気づく人は、社会に必要でありながら珍しい存在なのだ。「トイレ掃除をする人は成功する」という言葉の意味が今なら分かる。トイレを掃除するということは、共有地の悲劇を率先して防ぐ存在になるということだからだ。そんな人は社会で重宝されるに決まっている。


非暴力・不服従

非暴力・不服従とは、相手の暴力に暴力で返さず、だからといって相手の命令に服従することもないことを指す。『戦争と平和』で有名なトルストイの思想に感銘を受けたガンディーが、イギリスからのインド独立で実践したことで有名である。また、アメリカの公民権運動を率いたキング牧師はこのガンディーの教えを学び、非暴力・不服従を取り入れたそうだ。

こうした歴史に名を残す偉人が実践していたと聞くと、非暴力・不服従とは単に徳が高く見える行いに思えるがそうではない。現実的な発想に基づいている、相手に自分の要望を通すための巧妙な戦略なのだ。

まずは、非暴力について見てみよう。理不尽に思える暴力に対して暴力で返さないということは、相手との対立においてこちら側には絶対に非がないことの証明になる。これを見た部外者は暴力をする側と暴力をされる側という対立構造を見出し、非暴力を貫く側を支持するようになる。このように、非暴力とは短期的には相手からの暴力によって不利益を被るが、長期的には仲間を増やすことができるという仲間づくりの戦略なのである。

もう一つの不服従とは、相手の暴力への最大の攻撃である。自分にとって不当な法律があったら、その法律を守らずに生活をする。すると、当然のことながら警察などに捕まってしまうが、ここで非暴力で仲間を集めることが活きてくる。なぜなら、この不服従を大人数で行うと警察も全ての不法行為を取り締まることができないし、取り締まっても刑務所がいっぱいになってしまうからだ。こうして不当な法律そのものを機能させなくすることによって、自らの権利を勝ち取るのが不服従である。


多様性とは、気遣いと寛容さである。

共有地の悲劇や非暴力・不服従は、今日の多様性の世界で生きるうえで必修とも言える内容だと思う。ブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の中に、こんな親子のやりとりがある。

「でも、多様性っていいことなんでしょ? 学校でそう教わったけど?」
「うん」
「じゃあ、どうして多様性があるとややこしくなるの」
「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃないほうが楽よ」
「楽じゃないものが、どうしていいの?」
「楽ばっかりしてると、無知になるから」

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多様性を重んじる社会とは誰もが幸せなのではなく、誰もが少しずつ不幸せな社会なのかもしれない。自分は相手に気遣っていても相手は自分のことを気遣ってくれない。それでも相手のことを許す寛容さが求められるからだ。

自分の文化での「常識」が、相手にとっては「常識」ではない。そして、相手が自分の「常識」に従ってくれないことを許すということが、多様性のある社会では求められる。自らの思い込みに気づかせてくれるし、寛容な精神を養うきっかけにもなるから、多様性は大事なのかもしれない。

そんなことを思うから、私はルームメイトに生活音を静かにするように注意したり、定期的な掃除をするように促したりはしない。それは自分の「常識」を他人に押しつけないという「非暴力」だ。自分は静かに生活し、共有スペースは率先して掃除をする。それは共有地の悲劇の発生への「不服従」だ。

長々と書いてきたが、多様性で生きることを私の個人的な生活に落とし込むとこうなる。「あなたがドアを静かに閉めず、トイレ掃除をしなくても構いません。それでも、私はドアを静かに閉め、トイレ掃除をし続けます」

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