見出し画像

始まりがあるものはいつか終わるという、当たり前の現実

どんな偉人であれ、有名人であれ、命あるものとして生まれた以上、いつの日か命を還す日がやってくる。

このことを理解したのは何歳ごろのことだっただろう。

幼い子どもに“死”を理解させるのは難しい。そのことを実感したのは小三の終わり頃、祖父が他界したあとのこと。

当時幼稚園年少だった従弟が、葬儀に参列した祖父の死をまったく理解していなくて、四十九日法要でやってきたときに、「じいちゃんは?」と尋ねたときのことだ。

周りの大人たちに「お葬式来たでしょ?」とつっこまれても、きょとんとしていた姿を今でも憶えている。


“死”というものがあるらしいと人が把握するのはきっとずっと幼い頃なのだろうけれど、“人生”という意味で命を捉えることは、個人差はあれどもっと成長したあとなのだと思う。

わたし個人の話でいえば、“人はいずれ死ぬこと”をわたしに教えてくれたのは大河ドラマかもしれない。大河ドラマをきっかけにした、“歴史上の人物”というべきかな。


父が考古学を仕事にしているくらい歴史好きな人物だということもあり、わたしは幼い頃から家族で大河ドラマを見るのが日曜夜の恒例だった。

一年の始まりと終わりを大河ドラマで感じていたくらい、物語にどっぷり浸かっていたのだと思う。

今の息子のように、現実とドラマがごちゃ混ぜになってはいなかったけれど、子どもだからこそ、今よりもどっぷりと物語に入り込め、“主役の視点”で見れていたのかもしれない。(ちなみに息子は今でも殿様やお侍さんがいるのだと思っているようです)

幼少期から青年期を経て、何かを成しえ、そして必ず最後にはその命の終わりがやってくる。物語によっては、息子や家臣など、“継ぐもの”の存在も描かれる。こうして脈々と現代へ繋がってきたのだと、毎年のように思わされてきた。


どんな人にだって、等しく終わりはやってくるんだ。

この当たり前の現実が、幼き頃からわたしの眼前に横たわっている。

そのことを悲観したり、何か悪影響を受けたわけではない。むしろ、だからこそ生きるものが放つエネルギーはどんなものであっても輝いて見えるのだと思えた。儚さのようなものを小さい頃から感じていたようにも思う。


この世に生まれて三十年が経過した。訃報の中に、わたしが昔から知っている著名人の方が含まれることも多くなってきた。(先日お亡くなりになった星野仙一さんは、父が大ファンで馴染みがあったこともあり、わたしもショックを受けた)

どんな人であっても、身体に携えた光を空へ還す日がやってくる。

大河ドラマ「せごどん」の初回放映日。「ここからが人生の始まりだ!」と言わんばかりの放送開始から、すでに来たる最期を思い、さまざまな人の人生に思いを馳せている。



#エッセイ #日記 #ブログ #考えていること #心 #思っていること

お読みいただきありがとうございます。サポートいただけました暁には、金銭に直結しない創作・書きたいことを書き続ける励みにさせていただきます。