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幸せはいつだって過去にある

次男の年少時最後の参観が終わった。

年少には担任がふたりつく。通常は新任と先輩・ベテランのバディなのだけれど、今年度は新任が年少クラスの数よりも多かったからか、次男のクラスは新任の先生がふたりだった。

参観後の挨拶で、ひとりの先生がボロ泣きする。つられて目の裏が熱くなった。彼女は見るからに新任の先生だなという感じ。小柄で童顔、見た目もキャラクターもかわいらしい先生だ。

もうひとりの先生は、快活でしっかり者といった感じで、初々しさもあまりない落ち着いたタイプ。「泣かないって決めてきました」といいながらも、最後には役員さんの挨拶で泣かされてしまっていた。


いつの間にか過ぎてしまった一年。わたしは子どもに何をしてやれただろう。そう思いながら、「いやいや、がんばったよ、一年」と思い直す。

息子ふたりの一年間の幼稚園代、月約七万円×12ヶ月。これを払うのが、わたしが今の仕事を始めた理由のひとつだった。無事にその一年を乗り越える。最後の振込も、もう終わった。


目頭が熱くなるとき、わたしは「今」や「これから」を想っていない。想うのは、いつだって過去だ。

そこに至るまでの過去が、わたしの涙腺を刺激する。成長に涙するとき、わたしは目の前の子どもと脳裏の過去とを見比べている。

これまでの子どもとの諸々を思い返すからこそ、無事、今に至れたことに泣けるのだ。

時には、誇張ではなく文字通り血反吐を吐く思いもしてきたはずなのに、思い浮かぶ「これまで」には、必ず幸せが息づいている。思い出補正もかけられているけれど、その幸せは輝いて見える。

でも、そこはもう二度と戻れない場所だ。同時に、今わたしの手にあるはずの幸せも、いつかあんなに輝いて見える日がくるのだという思いを抱く。「今」と「過去」が交錯して、わたしの目頭は熱くなる。


幸せは見えづらいものだ。目の前にあるときは、自然にその場に溶け込んでいるものだから、当たり前の日常に紛れてしまって、特に認識しづらい。

当たり前にしてしまわぬよう、「幸せなんだな」「恵まれているんだな」とあえて言葉にしてみることもあるけれど、今しか見えていないとき、その幸せが本当に幸せなものであることを、わたしはきっとわかっていない。


通りすぎた過去、そこにあったものが幸せであったことに気づくとき、わたしははじめて今の幸せも認識できるようになる。

「あの頃はよかった」といいたいわけではない。でも、「あの頃は幸せだった」と気づけることで、わたしは今も幸せなのだと思えるのだ。


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