【小説】裏庭の蜘蛛

ユヅキとボクがそのときハマっていたことといったら、アパートの裏庭に作られている蜘蛛の巣を枝先で壊すことだった。

慌てたように上によじ登っていく蜘蛛を見ながら、ユヅキは頬を紅潮させた。その横顔を見ながら、ボクの胸は高鳴った。

悪いことをしている自覚があるのかないのかと聞かれたら、よくわからなかった。いや、あったのかもしれない。共犯者としての連帯感が、ボクたちを裏庭に呼び寄せていたのかもしれないからだ。

そこには、ボクとユヅキしかいなかった。

ボクが小学六年生、ユヅキは五年生だった。ほかの子がゲームに夢中になっているなかで、ボクたちの遊びは随分と幼いものだっただろう。

制服が届いたとママがいう。そのときの気持ちこそが、憂うつ、と呼ばれるものだったのだと思う。

中学生になんて、なりたくなかった。「そう」とだけ答えて、ボクは家を出る。

アパートの裏庭には、今日もユヅキが来ていて、今日は蜘蛛の巣がないという。やっぱりボクは「そう」とだけ答えて、ユヅキの隣にしゃがみこんだ。

「もうすぐ、卒業じゃん」

ユヅキがいった。

「そうだね」

ボクは答えた。

今日の日差しはあたたかくて、すぐそこまで春がきていることを知る。

いつまでも来ないままでいいのに。近くに落ちていた枝で、地面をひっかいた。

卒業式。ボクのパンツスーツ姿を見て、ママは小さく息を吐いた。

ボクは聞こえなかったふりをして、最後の小学校へと向かう。

六年生を送るために、五年生も卒業式に参加する。それでも、やっぱり体育館にユヅキの姿は見えなかった。

それでいい。ユヅキは、そのほうがきっといい。

次々に呼ばれる同級生の名前を聞きながら、ボクはぼんやりとそう思った。

それでいい。ボクだって、それがよかった。
ボクは、学校に友達がいない。

春休み。

ボクはユヅキと裏庭で過ごした。

あたたかくなり、裏庭では小さな虫の姿をよく見かけるようになった。石をひっくり返せばダンゴムシが表れ、赤いテントウムシを緑の端っこに見つけられた。

ユヅキは少し元気がなかった。聞けば、四月から学校に行かなければならないかもしれない、という。

「行かなくていいじゃん」といいたかったけれど、いえなかった。ただ黙って、「そっか」とつぶやいた。

「あずさは?」

ユヅキが聞いた。うん、と答える。

うん、としか答えられなかった。

「うんうん、かわいい、かわいい」

ママがボクの制服姿を褒める。何にも嬉しくなんかなかった。それでも、ママの顔を曇らせたくなくて、ぴくぴく震える唇を少し上げて、「うん」と笑顔を作った。

ピンと張った心の糸を、ユヅキに切ってほしかった。蜘蛛の巣を枝で壊すみたいに。

糸の真ん中で、ボクの逃げ場所はどこにもなかった。

プリーツスカートの規則的な折り目が憎らしくて、すうすうする足元は、ボクのことを守ってくれるようには、とてもじゃないけれど思えなかった。

中学生になんて、なりたくなかった。

四月。

中学校の入学式から帰ってきたあと、制服を脱ぎ捨ててボクは裏庭へと急いだ。そこには、ユヅキがいなかった。

ユヅキは、お父さんとお母さんから逃げ出して、家を出て行ってしまったらしい。年の離れたお姉さんの元へ行ったらしいだとか、おばあちゃんの家に逃げ込んだらしいとか、いろんな話を耳にしたけれど、本当のところはわからない。

ボクは、裏庭で蜘蛛の巣を見ていた。蜘蛛の巣に引っかかってしまい、哀れ蜘蛛に捉われそうになっている小さな蝶。

ユヅキだったら、どうしただろうか。今のボクみたいに、ただ蜘蛛の様子を見守ったろうか。それとも、やっぱり蜘蛛の巣を壊しただろうか。

ユヅキは、自分で糸をぶった切って、どこかに行ってしまった。ボクは、糸の上、身動きが今も取れないまま。浅く浅く息をして、来るのか来ないのかわからない終わりを、ただ待っているだけだ。

蜘蛛が蝶に近づいていく。蝶はもう、ほとんど動かなかった。

蜘蛛が、蝶に近づいていく。


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今回のお題:「制服」「蜘蛛の巣」

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