ここではない、どこかへ
この道をずっとまっすぐ歩いて、山を越えて、そのままどこかへ行けたら。
中学生の頃から、そう夢想している。
実家は和歌山と奈良にほど近い大阪にある。奈良へも和歌山へも、国道や府道をまっすぐ行けばたどり着ける場所だ。車でなら30分もかからずに県境を越えられる。
「ここではないどこか」に行きたかった。思春期だということもあり、鬱屈した生活を送る中で、その夢想は甘やかで魅力的だった。
共に暮らす親や祖母に愛されてはいたけれど、彼らの感情を察してしまうわたしは、家でも本音を隠しがちだった。昔から口達者な子どもだったし、言える本音と言えない本音を使い分け、本音を全部ひた隠しにしたわけでもなかったから、親はわたしに押し隠した感情があることを、きっと気づいていなかったと思う。
本音を求められる場面で、わたしはいつものどを詰まらせた。くだらないことならぺらぺら話せるのに、「言いたいことがあるなら言ってごらん」のひとことに、きちんと返せたことはない。叱られている場面でも、そうではなくても。
本音はのどの奥で絡まり、ますます外に出せなくなる。浅い呼吸をしながら黙り込むことで、何とか自分を保っていた。
親の気にいるだろう返答なら、するりと口から出せた。「正解」はわかるのに、「本音」は胸の中でごちゃごちゃになり、きちんと言語化できない。まるで、自分が二枚舌の薄っぺらい人間のように感じて、嫌悪した。自分の吐く言葉は、すべて体裁よく整えた嘘なんじゃないかという思いは、今も常にある。
「ここではないどこか」へ行きたかったのは、胸の中で肥大化した本音のひとつだった。「消えたい」「死にたい」という思いを捨て去りきれなくて、でも本当に死ぬわけにはいかないと理性が抵抗する。だから、せめてどこかへ逃げ出したかった。とにもかくにも、「ここから消える」ことで自分を取り戻したかったのかもしれない。
マンガ「ハチミツとクローバー」が好きだ。作中で、登場人物のひとり・竹本くんが、自転車であてのない旅をするエピソードがある。周りはその旅を「自分探しの旅」だと捉えていたけれど、本人にはそのつもりはまったくなく、ただ目の前の道をずっと行けばどこまで行けるだろうと考えていたに過ぎなかった。
往路ではどこか陰鬱な気持ちも抱えていた竹本くんだったけれど、道中での出来事や出会いを経て、復路では爽やかだったのが印象的だった。
目の前にある道は、どこまでも続いている。ただひたすら進んでいけば、必ずどこかへたどり着ける。今すぐに目的地が決まらなくても、歩きはじめてさえしまえれば、今の場所にあるもやを晴らすことにつながるのだと思う。
もやが晴れるのを待つのではなく、自らもやを抜け出せばいい。そのためには、何でもいいから動けばよかったんだ。夢想してばかりで実際にはそこにしゃがみ込んだままだった、昔のわたしに思う。……当時の自分も、自分なりに必死にそのときを耐えて乗り越えたわけではあるのだけれど。
それなのに、今のわたしにも、やっぱり「ここではないどこか」に行きたくなる衝動がある。それはたいてい疲れているときやメンタルが弱っているときで、だからやっぱり逃避願望なのだろう。
実際に旅に出ることはいいことだけれど、わたしのそれは、少し不健全だなとも思う。せめて、どこかへ行くならば、帰ってきたときには爽やかな心持ちになれる旅にしたい。目の前にある道を歩き続けられる力を補えなければ、結局いつまでもわたしは「ここ」からどこにも行けないのだから。
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