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一線を越えてもいい理由

数年前に幾度となく聞いた不適切動画の投稿が、またここのところ取り沙汰されている。某回転寿司の次は、某中華系ファミレス。投稿したのはアルバイトだ。

回転寿司の件では、刑事・民事ともに訴えることにしたらしい。これに、「妥当」「当たり前」の声が寄せられるなか、「アルバイトにどこまでの倫理観を求めるの」「社員がいない労働環境のせいだろう」といった意見が混じっているのを見た。

まあ、確かに社員なしで回している店の労働環境はよいとはいえない。その間の責任者はどうするんだ?とも思う。だけど、それはそれ、これはこれ。最低賃金の時給労働者だろうがなんだろうが、ダメなことはダメだ。

バイトだけ、でいえば、わたしの初バイトは社員ひとり、準社員ひとり、あとは全員パートとバイトという書店・文具店だった。年中無休、朝7時から23時までの店だ。

書店と文具店とは二軒隣で、文具店は常時ひとりで切り盛りしていた。社員準社員は書店勤務だったから、文具店はパートとアルバイトだけで回していたという……なんとも恐ろしい回し方をしていた店だった。しかも当初のバイトの時給は710円。

それでも、責任をもって働いていたなあと思う。実際に何かことが起きたときに責任をとる義務があるわけではないけれど、それでも働いているひとりとして、当たり前のように責任感を抱いていた。だって、お客さんから見たらバイトもパートも社員も同じ店員なのだ。

件のアルバイトたちは、お客さんのことは露ほども考えなかったのだろうか。お客さんと触れ合う機会の少ない厨房スタッフだったから、想像ができなかったのだろうか。

「こんなことやったらやばいよな」ということをあえてすることに肝試し的なかっこよさを感じている人種なんだろうという意見も見かけたのだけれど、「え、何歳なんですか」と思う。精神年齢が幼いのか、単に思考力がないのかはわからないけれど。

悪ぶることにかっこよさを感じるのって、せいぜい中学生までじゃないんですか。え、違うの?むしろ悪ぶるのって黒歴史で、あとから振り返ったらダサくて過去から抹消したくなるものなんじゃないの……?

「若気の至り」とか「世間を知らない」という言葉で「仕方ないよね」とするのは、個人的には嫌いだ。自分自身の若い頃を振り返ってみても、馬鹿だったなあと思うことはあるにはある。けれども、義務教育を受け終えてもなお、越えてはならない一線がわからないのはいかがなものかと思う。

その線を越える越えないに、雇用体系や給与は関係ない。もちろん雇用主側が改善すべきところは改善してほしいけれど、だからといって無茶苦茶が許される正当な理由になんてならない。

「時給がもっと高かったらやらなかったよ」だとか、「社員の目があったらやらなかったよ」だとか言うひとは、むしろどんな仕事であっても信用ならないよね。ダメなものは何がどうあってもダメなのだから。

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