受容と我慢と諦め
「女性の方が順応性が高い」という言葉を目にしたのは、どこでだっただろう。
真偽はともかく、今の日本では、まだまだ女性のライフスタイルの方が大きく変わりやすいのは事実だろう。女性側に意識がない限り結婚して姓が変わるのは女性だろうし、出産は女性にしかできない。否応なく体の内部も見た目も変わるし、体質の変化は出産後にも訪れる。
だから、「女性の方が順応性が高い」のだ。……と読んだ記憶がある。聞いた、のかもしれない。
しかし、実際のところ、「受け入れている」のではなく、「諦めている」「我慢している」女性も多いように思う。その本音に自ら気づいているかどうかは別として。(無意識であることも多いと思う)
先日、とある女性が描いたマンガを見た。出産で自らの趣味をあれもこれも手放していき、空っぽになってしまったという体験談だった。彼女はその後時間をかけて「自分」を取り戻せていったらしいけれど、そのマンガには多くの共感が寄せられていた。
わたしは幸い「書く」という(中身にこだわらなければ)手軽な趣味を持っていたから、「家事と育児だけの自分」にまで落ち込みはしなかったのかもしれない。
しかし、やっぱりあれもこれもできなくなったし、手放していたよなあと思う。それはたとえば映画鑑賞であったり、夜に気軽に出歩くことだったり。趣味どころか美容院にも行けなかった。今は随分身軽になったが、それでも夜の外出には制限がある。
それらのことを、果たしてわたしは「受け入れて」いたのだろうか。今になって、そう思う。「母親なんだから仕方ない」と受け入れているふりをして、実際のところは押し込めていたのではないか。だから、押し込めないでいい夫にぼんやりした不満を溜めていったのではないか。そう、今更ながら感じている。
当時のわたしは専業主婦だったし、夫に大きな不満を感じてもいなかった。さすがに土日とも留守にし続けたときはイライラしていたけれど、それは子どもと関わろうとしないことへの苛立ちで、夫と自分に与えられた自由の差に過度なストレスを感じてはいなかったように思う。
「母親だから当たり前だよね」という意識が、当たり前のように染み付いていた。よくも、悪くも。
「女性の方が順応性が高い」という言葉を元に、「だから大丈夫だよね」と変化への我慢を強いてはいけない。「女性はしなやかに生きられるから」「女性はしたたかに生き抜かなければ」という言葉は、無意識に抑圧する言葉だ。
「無理しすぎないでね」と言われても、無理をしている自覚がなければ、休む必要性に気づけない。これは、男女問わず等しくいえることだけれど。我慢している自覚がなければ、押しつぶされて消し去られようとしている欲求にも、気づけないままになってしまう。
「SOSを出してくれたら」「話してくれたら」と人はあとでいうけれど、ギリギリまで自分の状態に気づけていなければ、助けを求めることもできないまま倒れてしまうのではないかと思う。
人は変化に適応できる。そして、女性の適応力は高いといわれる。だからといって無理なく合わせられることばかりではないし、合わせることを強要されなければいけない謂れはない。
もちろん、これは女性に限ったことではないけれど。人に合わせることばかりになっている人は、それが受容か我慢か諦めなのか、自分で把握しておくだけでもできる対応が異なる気がする。
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