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競走するためのベクトルの向き

競争社会で生きていくためには、絶対評価より相対評価の方がいい。

そんな意見を見聞きしたのは、中学生頃。通知表の成績は、中二の終わり頃まで絶対評価だった。(中三からは内申点を出さねばならないために相対評価に切り替わった)

なお、わたしは中高通してテストの点数の貼り出しを経験したことがない。親は「ああいうのがあった方が励みになって伸びる成績もあるのではないか」と言っていたけれど、わたしは「いや、わたしはひっそり結果を出したいけれどなあ」と思っていた。

確かに、最終的に、この社会は競争だ。「おててつないで全員でゴール!」が話題になった幼稚園の徒競走のような平等は、あまりにも極端だし、子どもたちにとっても意味がないだろうと思う。

とはいえ、ベクトルが常に外に向いているのも、どうなのだろうと思う。すべてにおいて、それが良い成長に結びつくものばかりではないと思うのだけれど。


外向きのベクトルを持った結果、自身の成長のためになるのは、「同じ目的地」に向かっている場合だ。そして、その「誰か」との距離が、遠かろうが近かろうが、自身で測れる場合に限るのではないかと思う。

たとえば、わたしは小六の頃、100メートル走で一番速い記録を出した。それは、がんばれば追い抜けるかもしれない程度に、“わたしより速い子”と同じレースのときだった。徒競走でやることは、「とにかく前に走ること」。「速くゴールすること」が目的だ。「追い抜いてやる!」という外側ベクトルは、こうしたケースでは自分のためになるだろう。

一方で、たとえばフィギュアスケートだとか、スキーのジャンプや体操のようなものは、外側にベクトルを向けていれば結果につながるわけではないと思っている。自身の成長が他人よりも秀でた結果が順位であって、結果が出るまでは、とにかく内側にベクトルが向いているものなのではないのかな。“自分との戦い”と呼ばれるように。


「競争が苦手」という人がいる。そういう人のいう「競争」は、ベクトルが外向きのケースのみを指しているのだと思う。「他人を蹴落としてまで這い上がりたくない」という人もいた。でも、果たして“ベクトル内向き”の競走は「他人を蹴落とす」ことになるのかな?


わたしも、他人を追い抜こうという競走は得意ではない。なんというか、ベクトルを外に向け続けていると、精神が疲れてしまうのだ。(内向的・外向的は関係あるのかな?)

内側に内側にベクトルを向けて、その結果をもって“他の誰かや何か”と比較される競走の方がいい。取り組んでいるときに、余計な思考に陥ってブレることがないし、マイナスにしかならない妬みを抱きにくいから。(プラスに働く嫉妬もあるから、嫉妬=悪とはいわない)


自分がどちらのタイプなのかわかっていると、少し楽になれる気がする。

たとえば、わたしはザ・競争社会のフリーランスの世界に身を置いているけれど、いつでもベクトルは内向きだ。徒競走とは違い、働き方には同じゴールがないのだから、そもそも外側にベクトルを向けにくい性質もあるだろう。

より良い仕事ができるように、「文章力の向上」「取材力の向上」を、自分の中に軸を持ちながら課題として課している。ステップアップできているのかの判断は、クライアントさんや読み手の方に委ねられるわけだけれど。

わたしのライフワークの創作もそうだ。外側にベクトルを向けたものは、ただの二番煎じにしかならないリスクがあるしね。

市場の需要を見つめる「外向き」と、競走先として見つめる「外向き」とは、異なるものだ。

自分の成長を考えたとき、最後に測るのはやっぱり外なのだけれど、それまでに至るマインドは、内向きが適していることも多々あるよ。

「競走が苦手」だからといって、すぐに「甘いやつ」にはならない。……まあ、最後に判断される外に出すことすらできないというならば、それは「この社会では生きにくいでしょうね」ということになってしまうのだけれど。


#エッセイ #コラム #フリーランス #競走社会 #考えていること

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