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喫茶店で本を読むなんて無駄じゃない?と思っていた

数年前に目を悪くしてから、読むことの集中力がなくなった気がする。
読書会をやってた頃は喫茶店で集中して読むことが多かったけれど、最近はほぼ喫茶店に訪れることはなかった。
喫茶店で本を読んでいた時は、イヤホンやヘッドホンでできるだけ外部の音を取り入れないようにして、端っこの席で人の動きが見えないような場所を選んでいた。
そこまでして喫茶店で読書したのは、当時の家は木造で周囲の音がなかなかやかましいうえに、猫がいたせいだ。
猫にかまけて読書できないから、本を読むときは喫茶店に出かけたのだった。

読書会をやっていた頃によく参加してくれた友田とんさんの本『先人は遅れてくる パリのガイドブックで東京の町を闊歩する3』が発売された。
わたしは板橋区にある本屋イトマイさんで買い求め、併設されている喫茶店で一気に読み、ちょっとすごいものを読んだ衝撃でコーヒー代を払わずに帰ろうとした。この場を離れてすごいを一旦手放したい、このすごいを抱え続けることはできないと思って、コーヒー代という現実を見失ってしまった。

既刊でも感じていたのだけど、誰でも見えているはずの日常だから誰でも書けるような内容だろうと思わせて、友田さんならではの人を傷つけないユーモアでバリアがはられていて、友田さんにしか書けない内容になっている。
テレビでも人を傷つけるような笑いは排除される傾向にあるみたいだけど、友田さんのユーモアは偶然性の発見によるところが大きい。

個人的にはわたしのやっているコケ観察の偶然にも似たところがあると勝手に共感している。
一定の基準をもって探しているものの、「発見」にはどうしても運や偶然が絡まざるを得ない。
たとえば、先日見つけたエビゴケは図鑑によると、

山地の岩壁や岩(特に火山岩)から垂れ下がる。[分布]北海道〜九州;極東ロシア,朝鮮,中国,フィリピン,インドネシア。

『日本の野生生物 コケ』(平凡社、P.59 )

とある。
コケ観察に行った先で「ここは火山岩かもしれない」としっかりした知識のある人なら分かるだろうけど、わたしのような素人は順番が逆で「エビゴケだ! つまりここは火山岩かも知れない」となる。

エビゴケ
近くの岩はごま塩。これが火山岩なのだろうか?

偶然発見してその背景を想像する悦び。
わたしの場合はコケ図鑑を元に地方の山に「こんなコケがいるかもしれない」と分け入り、友田さんの場合はパリのガイドブックを頼りに東京の町を
闊歩する。

本書の白眉は第3章「繰り返しの効能」。
よくIT系の会社ではメンターという言葉が使われるけれども、ここで描かれる偶然を媒介にした関係こそメンターとメンティのあるべき姿だと思う。
まさに「数奇」。
偶然のすばらしさは追い求める者にしか訪れない。
エビゴケに出会えるのは山に分け入ってコケを探す者だけだし、あるビデオテープを学校から帰って何度も見返して大人になってからも思い出せる者にしか数奇な運命は訪れない。
帯の「お玉です!」は読み終わった後に効いてくる。すごいぞ。

うまく言えないが、音楽はおれを時間の外へ連れ出してくれたんだ。いや、むしろ音楽が、おれを時間の中に引きずり込んだと言った方がいいかも知れない、だが、おれの言う時間ってのは、つまり……言ってみれば、おれたちとは何の関係もない時間なんだ

フリオ・コルタサル「追い求める男」

勝手ながらお互い「何かを求める旅」をする仲間だと思っているので、これからも彼ならではの文章を楽しみにしている。

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