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いとくず(二)

20240202

余談ですが。指名手配犯の桐島聡を名乗る男が病院で病死をしたニュースに接して、やはりなにかいろいろな思いをちぢに抱かされてしまっている。その桐島を名乗る男の世を忍ぶ仮のすがた、内田洋として過ごした五〇年にも及ぶ年月のことを考えると、とても複雑な思いにとらわれる。さらに、その間のうっちーこと内田洋の生活ぶりなどが事件の報道を通じて少しずつ明らかになってゆくにつれて、本当にさまざまなことを思わずにはいられなくなってくる。うっちーは長年に渡り潜伏していた藤沢界隈の飲み屋にちょくちょく顔を出す、気のいい感じの音楽好きのおじさんであったという。そんなおじさん、そこらにいくらでもいたではないか。
もうかなり前になる、九〇年代の中央線沿線や下北沢のあたり、夜になると演劇関係者やらバンドマンたちでひしめいている一杯飲み屋や居酒屋、狭っ苦しい音楽バーがたくさんあった。そして、その店内をのぞけば、どの店にもあまりよく素性はわからないがいつだって楽しげに飲んでいるちょっと変なおじさんはいた。あの当時で年齢は四〇代ぐらい。うっちーもそのころ四〇代ぐらいで、たぶんああいうおじさんたちとはほぼ同年代であっただろう。というか、ああいうおじさんの中にまぎれてうっちーがどこかの音楽バーで楽しく音楽に身を揺らしながら飲んでいたとしても何もおかしくなかったのではないだろうか。本当に夜の街のどこかでわたしも至近距離ですれ違っていたのではないかとさえ思えるのである。
今から思うと、ああいった飲み屋街にいっぱいいたよくわからないおじさんたちというのは、やはり世代的にいうと学生運動がさかんに行われていた時代に学生時代をすごした人たちであったのだろう。そんな気が今さらながらとても強くしている。どちらかというとうっちーは学生運動の世代というよりもそれより少し遅れてきた世代だけれど、九〇年代のよくわからないおじさんたちというのは、程度の差こそあれ学生時代に学生運動にかかわったりして学校をドロップアウトしてその流れのまま二〇年ぐらいの時間が経過して、ああいった場末の飲み屋に吹き溜まっていた人々であったような気がする、のである。あの当時は、そんなこと気づきもしないで、なんかへんてこだけど気のいい感じの音楽好きのおじさんたちだなぐらいにしか思っていなかったけれど。でも、たいていは音楽の趣味には結構うるさくて、ちょっと面倒臭い雰囲気はなきにしもあらずであったが。
九〇年代にちょっとの間だけ某BI社で仕事をしていたことがあったのだけど、その関係で新宿のパークタワーで行われていたブルース・フェスティバルを見にゆくこともあった。今から思うと、ブルースが好きだったといううっちーのことだから、もしかするとあの会場に来ていたのではないかという気がしてならないのである。新宿という場所柄もあり、あのブルース・フェスティバルには中央線や小田急線沿線のブルース好きのおじさんたちが集まってきているような雰囲気がすごくあった。だから、あの聴衆の中にビールを飲んでちょっといい気分になったうっちーがいて、いなたいブルースをゆらゆら体を揺らしながら聴いていたとしてもちっともおかしくはなかったような気がするのである。
また、二〇代前半のころに働いていた会社にいた、自分よりも倍ぐらいの年齢だったおじさんのことを、こういった九〇年代のさまざまなことを思いかえしていたらふと思いだした。たぶん、うっちーよりも少し上の世代ぐらいだったのではないだろうか。当時の感覚ではものすごく年上のような気はしていた。高橋源一郎がすごく好きで、いつも「源ちゃん、源ちゃん」といいながら本の話をしていた。きっと、世代的にとても強くシンパシーを感じる作家だったのだと思われる。しかし、当の本人からはほとんど学生運動の名残りのような匂いはちっともしていなかったけれど。
その勤め先のおじさんMさんが、音楽好きのわたしに対してちょっと自慢気に語ったことがある。たぶん、夏に伊豆の下田あたりだったかにゆく社員旅行があって、その際に泊まった貸別荘のようなところで宴会がありそのまま夜通し飲み続けた後の朝方のことだったのではないかと記憶している。文学や音楽についていろいろなことを話し合って、その流れで「ぼくはN響の定期公演いつも聴きにいっているからね」とMさんがいったのだ。こちらとしては、まだとても若かったし内心はあそうですかぐらいにしか思わなかったのだけど、よくよく聞いてみると「仕事帰りだから疲れていて、聴きにいってもほとんど寝てる」というなかば笑い話のような話であった。わたしは、伊豆の朝のすがすがしい空気の中でせっかく聴きにいっても寝てるんじゃ意味ないじゃんと思っていた。
だが、今になって考えてみると、あの当時のN響の定期公演というのは、岩城宏之や外山雄三、そしてサヴァリッシュやブロムシュテットといった巨匠たちの指揮による演奏をごく普通に聴くことができるものであったわけだから、そこにわざわざ眠りにいっていただなんて、そんな贅沢なことがあるのかという気はする。九〇年代、なかなかすごい時代だったのだなと、今になってあらためて思う。うっちーやMさんや高橋源一郎の世代(の一部の人々)は、若いころにはいろいろと大変なことや過酷なこともあったのだろうが、あの九〇年代をよくわからない変なおじさんとして過ごせたことはなんだかちょっと羨ましかったりもする。わたしたちはまだ若すぎて、それでもやっぱりあの時代を生き抜いてゆくことに対してすごく必死で、あんまり余裕なんてものはなかったから(いまだにわたしには余裕なんていうものはさっぱりないが‥‥)。
昨日、起きたらとても目が痛かった。横向きに寝ていることが多いので、まくらに眼球が擦れてしまったのか、それとももうすでに飛散している花粉のせいだろうか、とても目が痛かった。特に左目が。よく晴れていて、窓から差し込んでくる日ざしがレースのカーテン越しでもとてもまぶしい。特に左目は、もう痛いくらいにまぶしい。少しでも目を守ろうと、以前に百均で買った紫外線だかブルーライトだかをカットするというみるからに安っぽい眼鏡をかけてみた。それでもまだちょっとかなりまぶしくて、花粉かなにかでごろごろしているようで涙まで出てきていて、あまり目を開けていられないような感じになってきた。かなり目が痛くて、これはもしかするとひどく充血しているのではないかと思い、鏡で確認してみようと思い立った。そして、鏡の前までいってみると、そこにはどこかで見たことがあるような人がいた。見るからに、気のいい感じの音楽好きのおじさんだった。こちらからにっこりと微笑みかけてみた。するとどうだろう、髪型は違うし髭面でもないけれど、見たところそれはうっちーだった。しらないうちに、いつの間にかわたしもうっちーになってしまっていたようである。

20240207

余談ですが。大河ドラマ「光る君へ」の第三話「五節の舞姫」で、急に盗賊がでてくるシーンがありました。いきなり暗い夜の場面になり、見るからに盗賊らしいいでたちをした盗賊の一団が貴族の館の高い塀を乗り越えて内部へと忍び込み鍵を破って倉に貯め込まれていた金目の物や宝物をごっそり盗み出してゆく。その実に手際のよい仕事ぶりが画面に映し出された。時間にして、ほんの一分にも満たないようなシーンだったが、それまでのちょっと雅でまったりほのぼのとしていたドラマの空気感とは、まったく異質なものが突然さしはさまれたような感じがして、強く印象に残った。まるで、大河ドラマをやっているチャンネルが、そこだけ「雲霧仁左衛門」に切り替わってしまったような感じだった。昨年の秋に放送されていた「雲霧仁左衛門」の第六シリーズで、雲霧仁左衛門が率いる盗賊団が京都の公家の屋敷に忍び込んで横領された御用金をごっそりと盗み出してゆく場面をさんざん見ていたせいもあったのだろう。あのシーンは「光る君へ」のはずなのにあまりにも「雲霧仁左衛門」的だった。だがしかし、雲霧仁左衛門が活躍をしたのは江戸時代のことであり、「光る君へ」の舞台は平安時代であるからして、そもそも時代が大きく違っている。平安京に雲霧仁左衛門などいるはずがないのだ。どうやら、あの盗賊の正体は京の町の往来で軽業や舞を披露していた散楽舞の人たちのようである。ということは、あの謎の男の直秀とは、もしかすると雲霧仁左衛門の祖先なのかもしれない。てっきり、京野菜を作っている人だとばかり思っていたのに。となると、安倍式部の祖先は安倍晴明だろうか。そうなると、藤原道長とは因果小僧六之助の祖先ということになるのか。まさに因果な世の中である。

20240210

余談ですが。新しい年になって、数え年でいうと、またひとつ歳をとった。いわゆる数えで勘定すると、今年の誕生日がきてなる実際の年齢よりもひとつ多い年齢になるので、もう四捨五入すれば還暦である。いったい、いつの間にそんなに時間が過ぎてしまったのだろう。学校を卒業したのは、ほんの昨日のことだったような気がするのに。なにもかもがわからなさすぎて、うろうろ歩き回っていたころの自分と、まだちっとも変わっていない気がするのに。ずっとずっと、まったく大人になれていない気がしていて、そのままうっかりここまできてしまった。わたしはちっとも成長していないのではないか。いや、はっきりいって、わたしはちっとも成長していない。なにをどうすれば大人になるのかが、いまだにちっともよくわからない。
あのよく晴れた寒い冬の日に、のんびり歩いてかつてランドセルを背負って通っていた通学路を使い小学校の前の市民会館まで行って、時間がきたら二階の座席に座って、舞台のうえの式典らしきものを上の方から見下ろしていたのだが、それを見にいったからといって、特になにかが変わったわけでもなかった。だがしかし、大人になるということは、あれを見るということだったのだろうか。現代の社会では、ほんの形だけのものになってしまった少年が成人するための通過儀礼として、そのためにしばらく席に座ってやり過ごさなくてはならない式典があの場で執り行われていたのだろうか。いや、たぶん違うだろう。そんなにたいそうなことは舞台でしていなかったように記憶している。それに会場内は舞台上でなにをしているのかがわからないくらい、ざわざわと騒がしかった。
あの日は、それぞれの居住地区ごとに行われる式典が終わったあとに高校の同級生が集まる会があるという話を誰かから聞いたので、一旦帰ってからまた夕方に駅の西口の踏切のところの十字路の角のコンビニのある雑居ビルの二階の喫茶店までのこのこと出かけていった。喫茶店の奥の少し大きめのテーブルに何人か同級生が集まってきていたが、まだちらほらときている程度にしかなっていなかった。誰かが、そのうちみんな来るだろうといっていたので、ずっとそこでだらだらと待ち続けていたが、集まりというほどの集まりにもならず、夜も遅くなってきたので、そのままなんとなく店を出て家に戻った。よく考えてみると、あの大人になるはずの日の第一歩目の時点でわたしは思いきり躓いてしまっていたのかもしれない。そのままずっと躓きの連続で、すっかり大人になりきれずにここまできてしまった。
ちゃんとした大人になるには、なにをどうすればいいのだろうか。この世の中でちゃんとした大人だと認められるようなことをして、たとえばちゃんとした仕事をするだとかちゃんと結婚して所帯というか家庭をもつだとかちゃんと大人らしく大人の会話をするだとか、そういうことをしてある程度の周囲の人々から大人だと認められればそれで大人だということになるのだろうか。おそらく、そういうことは自分ひとりでは決められないことであろうから、他の誰かになんらかの形で認められるというパターンをとることはおおいに考えられる。ほかになにか決まったなんらかの決まりごとのようなものがあるのだろうか。
ここまで生きてきて、自分はなにも自分が生きた証のようなものを残せていない気がすごくしている。ほとんどの人は、そんなものを残さずに死ぬものなのだろうか。だが、結婚して子供でもいれば、死んだのちにも自分のなにか(たとえばDNAとかか)を受け継いだ次の世代が生き続け、そのまま末代までいつまでもいつまでも自分のなにかをずっと生かし続けてくれるだろう。世代が進むにつれて、だんだん受け継がれる自分のなにかは薄れていってしまうかもしれないが。それでも、たぶんずっとなにかは残る。だが、わたしにはそういう自分のなにかを残しておいておけるようなものが(今のところ)なにもない。わたしが息をしなくなったら、その途端にもうわたしというものにまつわるものはなにも残ることなくすっかり消えてなくなってしまうのであろう。
大人になれば、なにかそういう生きた証のようなものを残せるようになるということなのだろうか。なにかちゃんと生きた証を残せるくらいの人間になったならば、そこではじめて大人になったと認めてもらえるということなのだろうか。今のところわたしはそのどちらもできていない。よって、わたしにはなにかを残す権利すらないということなのかもしれない。さらにいえば、今のわたしにはこの先にもそういうことができるようになるとはとうてい思えない。それは今のわたしにはまだまだとても遠い。
はたして、わたしをのぞくたくさんの人たちはみんなちゃんと大人になれているのだろうか。そんなことは誰にとってもそんなに難しいことではないのであろうか。ちゃんと仕事をして働いてそれなりの暮らしをする。簡単にいえば、それが大人になるということなのか。そんなの誰にだってできる簡単なことだという人もいるだろう。たぶんきっと、この世の中においては、ある意味ではそれはそういうことなのだろう。そういったすべてのことがらが、このわたしにはちっともできていないことだから、ことさらにそうなのだろうと思う。
これまでに本当に腐るほど長い長い時間があったのに、なにもなすことができなかったのだから、これからもそう簡単にはなにかをなすようなことはないであろう。そして、なにも後に残すことなく、わたしはどこかに消えてなくなってしまうのだろう。忘れられる以前に誰にも知られてもいないし覚えてもらってもいないから、わたしが忘れられることもない。わたしがこの世界に生きていたことを確認することのできる小さな痕跡もそのうちに時間とともに埋もれてゆき、誰からも引っ張り出されることはないのだろう。遅かれ早かれ、わたしなど最初からいなかったも同然となる。いや、遅くはなりはしないであろうから、早かれ早かれ、か。
もしかしたら、こんなわたしにもなにかを残せるのではないかと思い、ひょんなことから思い立って、短歌を一〇〇〇〇首ほど詠んでみることにした。それだけの数を詠めば、もしかしたらその中のひとつぐらいは一〇〇年後の人がなにかの拍子に見つけだして読んだりするんじゃないかと思って。どんな形であれ、なにかが残るならば、今ここにわたしが生きていることにもなんらかの意味があったといえるようになるのではないかと思って。まあ、一〇〇年後の誰がそんなことをいうのかなんてことは今のわたしには皆目見当もつかないけれど。
でも、それでも、確かにこの時代にわたしというひとりの人間が生きていたということを、誰かよくわからない誰かに(たとえ遠く隔たっていたり、あからさまに間接的にであっても)伝えるために、わたしは今日も明日も明後日もうたを詠むのである。今のこの時代の人がさっぱり読んでくれなくたってちっとも構わない。わたしは一〇〇年後もしくは二〇〇年後の人に向けて今ここでこうしてうたを詠んでいるのだから。と、今のこの時代の人に向けては、悔しいけれど負け惜しみをいっておくことにする。もし、わたしみたいなものに勝ってしまってなんかちょっとやましい気分に少しでもなってくれたりなんかするのだとしたら、わたしとしてはそういう人に今わたしのうたを読んでみてくれてもまったく構わないよとゆいたいと思います。
余談ですが。これを書いたのは、まだ年が明けて間もないころだった。世の中はまだお正月をしているころだった。だが、いろいろこのあとに書いたものを、ずらずらと先に出したりしているうちに、すっかり後回しになって、早い話がちょっと忘れかけてしまっていて、世に出すタイミングをまるっきり逸してしまった。しかし、旧正月にかこつけて出せばなんとかなるのではないかと思い立ち、ここにこうしてようやく日の目を見ることとなった。危ないとこだった。この機をのがすと、あえなくお蔵入りとなってしまっていたかもしれない。ただ、世に出してもたぶんほとんど読む人はいないであろうから、たいしてそのあたりの差はないのかもしれないが。
正月から旧正月までの間に誕生日がきて、満でいってもひとつ歳をとった。しかし、こちらの年齢でいうと、四捨五入してもまだ還暦にまでは到達していない。まだまだ若いつもりではいるが、ただまあ冷静に考えると、もうかなりのおじさんである。あとどれくらい寿命が残っているのか、そういうことを、最近よく考える。本当に明日にはもう死んでいるのではないかと考えてしまったりしても、いやいやまだそんなことないよと強く否定できなくなっている自分がはっきりと自分の中にいる。このままひっそりと誰にもかなしまれずに死ぬのはとてもかなしいことだなと、とても思う。

20240219

余談ですが。少し前に春風亭昇太師匠の高座が猛烈につまらなかったなんていうことが巷で話題になったりしました。もうほとんどの人は忘れてしまっているかもしれませんが、あのときはたして昇太師匠の落語はおもしろいのかおもしろくないのかということが論争になりました。確かに昇太師匠の落語にはものすごくつまらない時もあるのかもしれません。だけど、やっぱり昇太作の「悲しみにてやんでい」なんていう噺を思い出すと、そう簡単におもしろくないとも言えないのではないかと思えてきたりもする。だからまあ、なんというか師匠の落語は決しておもしろくなくはない、のではないでしょうか。
今から思うと「悲しみにてやんでい」は、あの当時の東京という街の笑いのようなものを非常によく捉えていたのではないかと思う。八〇年代に勃興した小劇場演劇の独特のニューウェイヴ的な笑いの空気感のようなものを、上手に落語の話芸の中に落とし込んでいたように思われるのだ。多少ばたばたしている落語ではあったが、あの当時の東京の街の空気や街の笑いの感覚のようなものを「悲しみにてやんでい」にははっきりと聞くことができた。それは大阪の吉本興業の笑いとは明らかに違う系統のものである。今ではすっかり鳴りを潜めてしまった、常に語尾になーんちゃってをつけてるようなぎこちなくも徒っぽい笑いである。
そう考えると春風亭昇太師匠の「悲しみにてやんでい」なんていう新作落語は、もうすでに作られてから軽く三〇年以上もの年月が経っている噺なのだから、もはや古典落語といってしまっても差し支えはちっともないのかもしれない。昭和の終わりのころの東京の街の風を感じられる噺として、昭和の新作落語の古典的傑作のひとつ、つまり新作古典落語とか古典的新作落語などと称されていたりなんかしていたとしても、なんの不思議もない、とわたしは思う。が、誰もがそう思うかどうかは、わたしにはちょっとわからない。
その先日の春風亭昇太師匠の落語はおもしろいのかおもしろくないのか論争が起きていたころに、ちらっと書いていた落語についてのメモ書きがあった。それを、ここに公表しておくことにします。たまには落語についてしちめんどうくさいことを考えてみるのも決して悪いことではないのではないかと思いますが、どうなんでしょう。本当にしちめんどうくさかったら、こんなものは読まずに、ユーチューブで「悲しみにてやんでい」を検索してさくっと見てみてください。なにかがわかるかもしれません。
古典落語がおもしろいかおもしろくないかというのは人それぞれではあることなのでそういうことはまあ人それぞれにそれぞれの人の人としての裁量というかそれこそ人それぞれの料簡であれすればいいだけのものなのではないかと思うので特にこれといってそれについてああだこうだいっても仕方がないような気がするっちゃあするわけであったりするわけなのであるからしてあんまりそういうことをうだうだといっていてもなんの意味もないのではないだろうか。なんてことをいいながらもうすでにうだうだとくだらないことをうだうだと書き連ねている。まるで古典落語のように。なーんちゃって。
ずどどんと階段を落っこちてきた小僧さんに対して、店の旦那がもしや一番上から落ちたのかとたずねて、小僧さんが「七段目です」と答えるのが、はたしておもしろいのかおもしろくないのか。階段から落ちた人が、どの段から落ちたかなんてことは、そんなの後になってから聞けばいいことだろう。まずは、落ちた人の体を心配してどこも痛いところはないかどうかをたずねるのが常識的に考えれば先のはずではないか。留守にしていた間に屋敷の厩が火事になり可愛がっていた愛馬もろとも焼けてしまったとき、帰宅して真っ先に家の使用人たちの無事をたずねたもろこしの偉い学者、孔子のように。
しかし、もしも体のことや怪我のことを心配してたずねたとしても、芝居ごっこにすっかり入り込んでお軽になりきっている小僧さんは、目をまわしながらも普通の受け答えをすることはない。ゆえに、それでもやっぱり(本当はどこか体がとても痛かったとしても)芝居と現実を混同させて「七段目です」と答えてしまうのだ。そんな小僧さんのことばを、おもしろおかしいと思うのが古典落語なのである。そんなのは全然おもしろくないと思うような人は、きっと古典落語のことをずっとおもしろくもなんともないと思いつづけることであろう。古典落語なんてのは、あんなのは猿の殿様だよとかいいながら。
御題目を唱えて川に飛び込むと、なぜかこれが必ず助かってしまって絶対に死ぬことはない。これを、せっかくお経を唱えて飛び込んだんだから、ちゃんと死んで成仏すればいいのに、ちっともおもしろくないと思う人にとっては、きっといつまで経っても古典落語はちっともおもしろくないままだろう。だがしかし、それはそれであり、そういう料簡でも全然いいのである。古典落語なんてちっともおもしろくないと思う人のほうが、ある意味では感覚的にとても正しい部分をもっていたりするのだ。おそらく、古典落語をおもしろがる人のほうが、感覚的にはちょっとどうかしている。これは間違いない。
だがしかし、古典落語の世界というのは、多くの人が被災して生活に困難が生じてしまうような大きな天災などが起こったときに、必ずといっていいほど、いいってことよ困ったときはお互いさまよぅなどといって困っている人に率先して救いの手を差し伸べたり、困っている人同士で助け合ったり支え合ったりするような、そんなあったかい世界であるということは、それをおもしろいと思うかおもしろくないと思うかに関係なくしっておいて損はないことであるだろう。
ただし古典落語の世界にも、そういうみんなが助け合わなくてはいけない大変なときにわざわざ火事場泥棒をするような悪人もいないわけでは決してない。だが、そういう悪人には後で必ず(神仏の)ばちが避けようもなく当たるものだし、被害に遭った人のところには必ず困ったときはお互いさまよぅと助け舟を出してくれる人が現れる。そんなのは古典落語というフィクションの中だけの話だろうと思う人もいるだろう。だがしかし、そういう世界というのは、ほんの今から二世紀ぐらい前までは実際に誰の身近にもあったものなのである。
古典落語は、そういう今では失われてしまった世界に生きていた人々の料簡というものを今に伝える歴史的な資料としても聞くことができるものである。それをおもしろいと思うかおもしろくないと思うかは人それぞれでいいだろう。困っている人は困ったままにしておくのがいいと思うような猿の殿様タイプの人も、きっと多くいるような世界なのであろうから。だが、古典落語には、この世界を生きてゆくうえで知っておいて損はないあれやこれやのことがらがふんだんに含まれているということは、頭の片隅にでもいいので記憶しておいてもらいたいと思うのである。
おもしろくないと思う人はおもしろくないと思っていて全然構わないのです。そのうちにきっと(今はまだ辛うじて残っている)伝統芸能なんてものはどんどんどんどん下火になっていっていつかは消えてなくなってしまうものなのでしょうから。だから、ことさらに今ここでおもしろくないおもしろくないといいたてなくたって大丈夫なのですよ。逆に噺家のような臍の曲がったへんな人たちはおもしろくないといわれればいわれるほど変に発奮して頑張ってしまったりするものなので、かえって逆効果だったりします。そのうちすっかり消えていなくなりますから大丈夫ですよ。記憶が曖昧でも大丈夫ですよ。間違っていても大丈夫ですよ。すべての業は肯定されます。

20240229

余談ですが。世の中には、ささるうたとささらないうたがあるという。ささるうたというのは、それを読んだ人の心にそのうたが弓矢の矢のように飛んできてぐさりとささるのでささるうたといわれるようである。ぐさりとささるとまではゆかなくとも、そのうたを読んでみて、うんうんわかるとか、ああそれなとなる、実感をもって共感のできるうたも、いわゆるささるうただとされているようだ。正直な話が、ちっともささるうたの専門家ではないので、あまりよくそこのところはわからない。のだけど、つまりちっともささらないうた以外は、基本的にみなささるうたということなのだろう。
ささるうたとは共感のうたのことである。共感のうたは、ささる人の分母が(比較的に)大きいところではじめて大きな共感をよぶうたとしてあらわれでてくる。たくさんの人が、うんうんわかるとか、ああそれなとならなければ、多くの人にささるうたとして認知されないし、大きな共感の輪を土台とした、いわゆる共感のうたともならないのである。ささらないうたには、大きな共感なんていうものはさっぱりない。だがしかし、うんうんわかるとか、ああそれなとならないうたに、ちっとも存在意義がないわけではない。共感がなかろうともうたはうただから。
この世の中でこの世の中のあり方にちゃんとフィットするようにちゃんと生きることのできている人のうたは、これまたちゃんと生きている人にささりやすい。ちゃんとしている人に、ちっともちゃんとしていない人の詠むうたが、うんうんわかるとか、ああそれなという反応をされて、大きな共感をよぶなんてことは、あんまりあるとは思えない。まあ、さっぱりないとはいえないだろうが、今のこの世の中に風潮では、それはなかなかないことだろう。
ちゃんとしていない人やちゃんとできていない人というのは、もはやそのちゃんとしないないという時点で、ちゃんと生きている人にとっての評価の対象からは外されてしまう。さっぱりだめな人のいっていることに耳をかたむけても、なんのプラスにもならないことをちゃんとしている人は過去の経験からちゃんと判断する。今のこの世の中でちゃんと生きてゆくということは、常に自分にとってプラスになるものを選択してそれを取り入れ実践しなくてはならないことと、ほぼ同義である。ちゃんとしている人というのは、あえてマイナスに飛び込むようなへまは決してしないものなのである。
しかし、かつてはちゃんとしてないちっともちゃんと生きることができない人のうたこそが、よくささった時代というのもたぶんあったはずなのである。目まぐるしく動きつづける世の中からあぶれてしまった人たちが共感を寄せた、ちゃんとしていない人のうたというものがあった。しかしながら、いつしか、この世の中はちゃんとしている人たちばかりの世の中になってしまったようである。ちゃんとしていない人のうたは、もはやさっぱり時代遅れなのである。
ささるうたかささらないうたかの違いには、今のこの時代に遅れているか間に合っているかという部分の差もいくらかは関係している。もしそうだとしても時代に間に合っていないちっともささらないうたも、今のこの世の中においてちゃんと生きることができていない人によって今もまだひっそりと詠じられているのである。そのほとんどは、ちゃんとしている人たちがちゃんと生きている社会の外側のもはやぺんぺん草すらも生えなくなっているところで。ささるうたがささる人たちにはちっとも見向きをされることがなく。
あれこれうたを詠んでいるが、それがささっている感じはちっともない。ささった人からささりましたという報告もない。当たり前だろう、きっとどれもこれもささらないうたなのだろうから。自分でも(どれもこれも)ささらないうたなのだということは(うすうすは)わかっている。こんなちゃんとしていない人のうたに共感することのできる人などはさっぱりいないのだろうし、そんなうたのなにかしらをわかってしまうこと自体がちゃんとしている人の感覚からすればなにか許しがたいことなのではなかろうか。
この世の中においては、やはりちっともささらないうたはちっともささらないままでいなくてはならないのである。だが、ちゃんとしている人たちがちゃんと生きている社会の外側に、こんなどうしようもないだめな人もひっそりと生きていたのだということのひとつの記録を残しておくために、うたを詠んでは虚空に向かって弓矢の矢のようにぽんぽんと放ってはいる。
来る日も来る日もうたを詠んでいる。しかしながら、それはさっぱりささらないうたであるがために、どれもみな放って置かれてつまるところ放置されたままにされる。それをひろうような奇特な人も、ほとんどいない。はたして、そんなものが、なにかの記録になったりするのだろうか。そこは、とても、あやしいといわざるをえない。
できれば、わたしもちゃんとささるうたというものを詠んでみたいのだが、これがなかなかむずかしい。ちゃんと生きている人たちのくらす世の中の外側にいると見えているものもなにか違ってきてしまうのだろうか。そこそこ普通のうたのように装った感じにしてみても、反応はちっともいつもとかわらないのだ。もしかするとこちらの言葉がもうあちらの今の世の中では通じなくなってしまっているのではないか、などという疑念すら湧いてきてしまう。
普通にちゃんと生きて普通に普通の言葉を使う人ではないと、もう普通に普通のうたを詠むこともできないということなのであろう。たぶん。極言すれば。だから、そういう普通の社会の外側にいる人のうたは、なにをどうしたってちっともささらないのである。きっと、わたしのようなものとは真逆のタイプの人ではないと、そういうことは最初からだめなのだ。きっと、そういうことなのだろう。
つまり、それがどういうタイプの人なのかというと、とてもたくさんの友だちがいたりしてわいわいいつもにぎやかにたのしく日々の生活を豊かに営んでいて基本的にとても活発で活動的で幅ひろく人づきあいがありどんな人からももてもてで好感をいだかれがちなちゃんと仕事らしい仕事をしているいろいろな面で余裕のある人というのがおそらくそれである。ただし、これは、あくまでも個人的な見解である。
たぶん、そういう人(平たくえいば、ちゃんと生きることができているごく普通の人)が、ごく平然と普通にささるうたなどというものを詠むのだろう。日常的におこなわれている人づきあいの中でいろいろな人を見ているから自然にそういう(幅広いタイプの人にすぱっとささる)うたが詠めるようになるのだろう。きっと。そうなのだろう。真逆なタイプのわたしには、それがとてもよくわかる。
普通の世の中では普通なものほど普通に共感され普通に受け入れられるということは、普通にあたり前のことである。最初からそこから排除されてしまっているものは、そのままずっと(普通の世の中の内部には混じることがなく)排除されたままで、最初からそういうさだめにあったようなささることがないうたしか詠むことができない。のか。それはずっとずっとささることはないのだろうし、そのまま放っておかれて忘れ去られてゆく。だとしても、それでもわたしは懲りずにうたをうたうだろう。

20240303

余談ですが。いつもいつもへんてこなネット広告を見させられつづけているわたしたちにいいかげん賃金を支払え。そういうふうにすべてのネット広告で収益をえているものたちに対してゆいたいです。誰がわたしたちにどれくらい支払うべきなのかはそっちでちゃんと考えろ。胸に手をあててよおく考えてみればいい。胸の奥にずっと抱え込んでいた良心の呵責に心当たりのあるものはきっと少なからずいるはずである。
ネットで誰でもいつでも自由にタダで閲覧できるはずの記事を読むために若しくは動画を見るために、何秒かのくだらない広告を強制的に見させられる、またはそれが終わるまでじっとおとなしく待たされる、という極めて過酷で非常に大きな精神的負担となる労働に勤しむことを日常的にわたしたちは強いられている。このわたしたちに負わされている実に由々しき無賃労働に対して、あなたがたはそれに相応する対価としての賃金を今すぐにでも支払うべきなのである。

20240305

余談ですが。最近、ダウンタウンが話題になっていました。いや、ダウンタウンの松本人志だけが話題になっていたということだったのでしょうか。事実無根のことで世間を騒がせていたらしいが、どうやら事実無根ではないという噂もある。どうもよくわからない。どこに世間の誤解を招くようなことがあったのか、そしてそれがほんとに誤解だったのか誤解ではなかったのかも、よくわからない。でも、ほとんどの人は直感的にたぶん事実無根ではないのをほぼ事実だと思っているというのがほんとのとこなのではないだろうか。
ダウンタウンというと、その昔、関東のテレビでもちらほらとその姿を見かけるようになってきたころに、ひとりが「あー」とか「えー」としか喋らない漫才をやっているのを見て、ちょっと衝撃を受けたことを今でも憶えている。漫才ブームのネアカな芸がまだ時代を席巻していたころに、あえて時代に反してなのかわからないがまったく喋らない芸をテレビで堂々とやっているコンビを見て、この人たちなかなかやるなと思った。
それが「あ研究家」というネタであったということを、実はつい最近になってしった次第である。例の松本人志の問題が話題になって、SNSで松本人志はおもしろいおもしろくない論争が起きたりしているのを見て、そこであの大昔にテレビで見たおもしろかったあれはいったいなんだったんだろうと思って調べてみたのである。それまでは、ずっと「あー」とか「えー」しかいわない漫才としてうっすら記憶しているだけだった。
その奇抜な漫才を見て、それからしばらくの間はダウンタウンのことを注目してみていたことを記憶している。だが、あの「あ研究家」を越えるようなものすごいネタに出会うことはなかった。そのうちに、あまりダウンタウンに注目をしないようになっていってしまった。ダウンタウンも急激に東京でも売れっ子になったのか、いつしかテレビで漫才のネタをすることもなくなってしまっているようだった。
ダウンタウンが司会をしているテレビ番組やダウンタウンの名を冠した冠番組には、ちっとも興味がなかった。どちらかというと、テレビなのにぜんぜん喋らないダウンタウンに興味があったほうだったので、普通に喋っていたりするとちょっとがっかりだったのだ。ダウンタウンが普通に喋るダウンタウンがメインのテレビ番組に出演しているダウンタウンというのは、あまりわたしが見たいと思うようなダウンタウンではなかったのである。
しかし、今から思うとあの「あ研究家」のネタも落語の根問ものの噺を漫才に置き換えただけのものだったのだという見当もつくので、それほど衝撃的というほどのものではなかったようにも感じられるのである。根問ものの噺では、無学者が学者を質問攻めにしたり、愚者が隠居にあれこれ聞いて生半可に知識を聞き齧っていったりするところを、ダウンタウンの漫才では、客席の観客を愚者に見立てて、その愚者の代わりに相方が司会者役となって研究家に扮する松本人志にいろいろなことを聞いてゆくという形式になっていたのである。
ことほどさように「あ研究家」という漫才は、かなりどっぷりと古典落語的な様式にのっとったものであったということなのである。それが意図的なものであったのか、たまたまそうなっていただけだったのかはあまりよくしらない。ただし、ここでそれはきっと意図的であったのだと言い張ったとしても所属事務所によって当該事実は一切ないといわれてしまう可能性もなきにしもあらずなので言わないことにしておく。
いずれにせよ、「あ研究家」というネタは、特になにか新しかったわけでも革新的であったわけでもなかったということだけは確かなところだということにはなるであろう。これを裏返せば、古典落語の笑いの形とは古典でありながら常に新しいものだということにもなる。つまり、根問ものの噺は漫才という芸能が今現在の笑いの形であるかぎり、常に時代の一歩先をいっているということにもなるということなのだ。根問もの、あなどりがたし。
閑話休題。ここ最近の世間を騒がせていた松本人志の問題に話を戻そう。あくまでも余談としてですけど。あれをみていて、とてもこわいなと思った。別に週刊誌を読んでいるわけではないし、松本人志のエックスも見ていない、それに報道されていることをすべて追いかけて逐一知っているわけでもない。でも、なんだかとてもこわいのである。実際のところのことはちっともよくわかっていないのだけれど、あれを自分に置き換えて考えてみると、すごくこわくなってくる。
問題になっている事件そのものについては、まだなんだかよくわかっていないので、なんともいえない。それに、わたしのようなものになにかいえるはずもない。いわゆる合コンといわれるものにすらいったことがないのだから。だがしかし、個人的には、松本人志はかなり濃い灰色なのではないかと、今の時点では思っている。そして、ここでわたしがすごくこわいなと思っているのは、そういったたぶんきっとそこでなにかがあったんだろうなということに対するあくまでも憶測からの思いを踏まえたものでもあることをお断りしておく。
今回の件をみていて、もしかしたら自分もああなっていた可能性がないことはないのではないかということを思い、そしてまたそういう風に思わずにはいられないところが、とてもこわく感じられるのである。もしも、ああいった立場に自分がいたら、たぶんきっと同じようなことをしていたかもしれないと思ってしまう。その可能性がないことはないだろうし、たぶん絶対にないとは言い切れない。幸運にもというか、残念なことにというか、今も昔もああいう立場とは真逆のところにいるがために、ああいったことをなさずにすんだだけではないかと思ったりもする。
要するに、たぶんおそらく、わたしのようなタイプの人間は、性格的にああいう風にならないとは決して言い切れないのではないかと思うのである。人見知りが激しかったり、極度に照れ屋だったり恥ずかしがり屋だったり、ちょっと人とお喋りしたり誰か他者と特に異性の他者と親しく交流することに苦手意識があるような、どちらかというと引っ込み思案タイプの人間ほど、なにかのきっかけさえあれば簡単にたががはずれてああいうことになりやすいのではないかと思ったりもするのだ。
ただ単に、わたしももしかしたらああなったかもしれないということでしかないのだが、そうならないとは決して言い切れないところがあるような気がしてならないところは、やっぱりこわいと思うのである。あまり詳しくどういう人なのかをしらないのでまったくの憶測でしかないのだが、松本人志という人をみていると、どこか根本的にちょっと人づきあいが苦手そうなもしかすると自分と似たようなところのあるタイプの人なのではないかと思えてきてしまうのである。
だからといって、そういうタイプの人間なのだからああなってしまうのも仕方がないのだと松本人志のことやわたしのなかに生じているもやもやを擁護しようとしているわけでもなんでもない。ただ単に、それを想像してみるることすらがとてもこわいことなのだけれど、それが決して想像すらできないことではないからこそ、とてもこわいと思わざるをえなくなっているのだといわざるをえなくなっているわけなのである。
結構まだ若いころからちやほやされて、あれやこれやと煽てられ、周囲にいる人々、上の世代や同世代そして下の世代の人からもなにか神輿のようにもちあげられつづけていたら、やはりどんな人でも時間の経過とともにだんだんと勘違いしてきてしまうのではなかろうか。そのために、ちょっと人づきあいが苦手なタイプの人間であっても、自分の側からなにか実際に動かなくても周囲が自然に気遣って察してやってくれるようになったりすると、なかなかそれまでには言い出せなかった要求なども次第にずけずけといってしまえるようになっていったりするのではないかと思うのだ。
周囲の環境や人間やさまざまな力をある程度自由に使えるようになることで、それ以前までは大きくマイナスだったものが、なにかのきっかけで(大きくマイナスであったがゆえに)大きくプラス方向に振れだすというようなことは、たぶんよくあることなのではなかろうか。もしも、合コンにいったしたとしても、たぶんわたしのような初対面の人とあまりすぐ親しくお喋りすることができないタイプの人間というのは、ほとんどなにも喋らないかちょっと当たり障りのないことを喋って終わるだけなのではないかと思う。一般的な感覚からすれば、たぶんそれはちっともプラスにならない合コンである。
だからといって、松本人志もきっとそうだったのだろうと決めつけるようなことはいわないが、あまり合コン的なものをそれとしてすんなりと楽しめない(難しい、ちょっと面倒臭い)タイプの人ではあったのは当たらずといえども遠からずなのではあるまいか。そこでそんな様子を見るに見かねた周囲の人が、そういった人とのつきあいが不得意な人にもなんとかそういう場を楽しんでもらおうと、さまざまな世話を焼くということが常態化していったのかもしれない。そういうことをきっかけにして、元々は大きくマイナスであったものが一気に大きくプラス方向に振れだしたとしてもなんら不思議ではない。
周囲の手厚いサポートさえあれば、難しくてちょっと面倒臭いタイプの人間であってもあれこれ楽しめるのだということがわかってくると、それに味をしめてもっともっとということになってゆくのも目に見えている。たぶん、それまでに大きくマイナスであったようなタイプの人ほど一旦なにかおいしい(プラスになる)思いをして味をしめると、一気にそちらの方向へとどんどんどんどんエスカレートしていってしまうものなのだろう。
おそらく、もしも自分がそういう立場にいたとしたら、決してそんなことはしないなんてことは言い切れないのではないかと思うのである。自分ひとりではなにひとつうまくできなかったものが、周囲の手慣れた人々の助けを借りることでなんでもかんでもいとも簡単にできるようになってしまうのだ。もし、そんなことになったら、その状況がすごく楽しくてついついのめり込んでいってしまうのではないだろうか。
それ以上のことというか、それ以降のことというか、自分も周囲も問題なく楽しめていたレヴェルから一線を越えたさまざまなハラスメントや犯罪行為については、わたしとしてはもうなにもいうことができない。それはもう想像や憶測で語るようなことではないだろう。しかし、感覚的には松本人志はすごく濃い灰色ではないかと思う。あまり人と関わることが得意ではない人間というのは、なにかの特殊な状況においては、ちっとも人のことを慮ることがなくなるということがあったとしても決しておかしくはないような気がするからだ。
基本的に、わたしのようなタイプの人間というのは自分のことも他人のこともあまり深くは信じていないというようなところがあるし、自分のことも他人のことも深いところまではちっともわからないのだという思いが常に頭のどこかにある。そして、自分のことも他人のことも底の底まで信用していない。だからこそ、なにかのきっかけがあれば、重大な人権侵害を伴う事態を引き起こしかねないタイプであることは間違いないところであろうと思ってもしまうのである。
おそらくかなり人づきあいが苦手なタイプで、かなり難しくて面倒臭い人間なのである、わたしは。その証拠に、誰もわたしの周りには寄りつかないし、わたしもあまりよい反応があることを最初から他者に期待していないところがあるので自分から誰かに寄りついてゆくこともほとんどない。そして、それゆえになのか社会的な成功からは程遠く、おそらくは人間的な生の最低のラインよりももっと下にもぐりこんだまま、ここまできてしまった。それがよかったのかわるかったのか、自分ではよくわからない。
おそらく、人並み以下であるということは、普通に考えれば普通にまずい状況であることは間違いないところなのであろう。だから、幸いなことに、周りでちやほやしたり、周りであれこれ気を遣ってくれる人もいない。お金もないし、仕事もないし、妻子も家庭もない。それでも、それゆえに、たぶん、ああならずにすんだのである。その点にのみ絞っていえば、これはこれでよかったのかもしれない。だが、大きくマイナスに振り切れてしまっている人生というのも、それはそれでさみしいものは確実にある。そのことだけは、こんなわたしにもはっきりということができる。

20240314

余談ですが。よくここで書き出しに余談ですがとか書いております。これは余談の巨匠である林家ペー師匠に対する勝手なオマージュのあらわれである。しかしながら、そういうこれもまた余談であるわけで、それをそのように額面通りに受け取ってもらっても受け取ってもらえなくても全然構わない。あくまでも余談ですから。それに、こういった末法の世の中であるのだから、もうそこらを見回してみてもみなくても、あるものといえばもう余談ばかりである。真面目な話が、真面目な話にはもうこれといった意味なんてものはあまりありはしないのである。
今や、意味があるべきところには、意味ありげな余談めいた余談やらただの余談でしかない余談があるだけなのだ。だからもう、書くことも喋ることも書かれることも喋られることもみなエキセントリックな余談のための余談なのだといってもよい。つまり、エクリチュールもパロールも一切合切が余談でしかないのである。だがしかし、これもまたどこまでも余談でしかないものであるわけだから、そのように受け取ってもらっても受け取ってもらえなくても全然構わない。
余談ですけど、余談は余談であってそれ以上でもそれ以下でもないのである。そして、もうすでに、誰ひとりとしてなにもかもが余談になる前になにがそこにあったのかなんてことをちっともおぼえてなんかいやしない。余談の前に余談なし。余談の後にも余談なし。あるのは、いつもいつも今ここにある余談だけである。つまり、余談ではないものの不在としての余談が余談のようにしていつもいつもあるというだけなのだ。お察しの通り、これもまたただの余談でしかない。ここだけの話が、余談ミネソタ。

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