見出し画像

四十八文字の話『ヘ』②「平安時代」から遥かに時代が下った明治、昭和時代の日本。この時に藤原道長の末裔である「四兄弟」がいた事、ご存知ですか?

古代から天皇のお側近くに仕え、日本発展のために政治や軍事に尽力してきた勢力、のちに「貴族」と呼ばれる人々。
その中で「平安時代」に栄華を極めたのが「藤原一族」。
代表的な人物は何と言っても「藤原道長」( ふじわらみちなが ) でしょうか。

藤原一族の歴史は古く、始祖は神話の時代まで遡ります。
「天岩戸隠れ」( あまのいわとかくれ ) の際に登場する「天児屋命」 ( あめのこやねのみこと ) とされています。

図の左上で岩戸にお隠れになった天照大御神を表に出すため
岩戸を開けようとする神。
その神の側で「祝詞」( のりと ) を奏上しているのが「天児屋命」。

その後の日本において、宮廷の世界で中心的な存在となり牽引して行った事は皆さんもご存知でしょう。こんなにも悠久の昔からの名族ですから、政治、文学、歌などの各分野において輩出した優秀な人材は実に豊富です。

⚪マスコミの取り上げ方

ですがどうも「藤原氏」とか「平安絵巻の世界」などを題材にしたTV番組などでは、やたら男女の「恋愛沙汰の話」が多くなり、

「一体【貴族】って何者なの?」
「そもそもその時代に必要な存在だったの?」
などなどの疑問を持つ人がいても、何ら不思議な事ではないかと思います。

確かにマスコミの描き方は少しワンパターンの傾向が有り、「【何とか】の一つ覚え」的な気がしてます。

そういう面も有ったのは事実でしょうが、それだけで「平安時代」はもとよりそれ以前、それ以後の日本を牽引する勢力となった事実を説明するには無理が有るとは思いませんか?

ドラマには描かれない逸話は沢山有る様に思います。
ましてや、この藤原一族が古代から引き継いでいる色々な「文化遺産」は大変貴重な物で、これらを現代に継承しているご子孫の方々は、相当なご苦労がある事だと思います。

今回はこういった現代にまで継承している「藤原一族」の末裔の方々、特に「藤原道長」の直系子孫の方々の話を取り上げさせて頂きます。

⚪「近衛家」……「藤原道長」北家の子孫

藤原一族の一つの流れ、つまり「家」の一つに「北家」( ほっけ ) が有ります。
その北家の流れを現代に継いでいるのが「近衛家」 ( このえけ )。
近衛家は同じ藤原一族でも「藤原北家」の流れで、平安時代後期に作られました。
藤原の他の家 ( 南家、式家、京家 ) の流れを汲む家々よりも家格は上、藤原一門の代表です。

江戸時代は皆さんもご存知の通り幕府の圧力も有ってあまり表舞台には立てず ( この時代の貴族はどの家もそうでしたが ) 世の中に知られる様な有名な方はあまりいませんが、世の中が再び天皇中心とする近代の「明治時代」なると再び頭角を表しはじめます。

その中で明治二十三年 ( 1890 ) に議会に「貴族院」が開設されると、この近衛家の当主は「貴族院議員」となり、まだ創成期の議会政治で活躍を始めます。

🌸古代から平安時代、江戸時代に至るまでの間、朝廷の「政治の世界」を運営し司ってきたそのDNA、「実力」が再び発揮されてきたのかな、と思います。

そして第二十九代近衛家当主で貴族院議長を務めたのが「近衛篤麿」( このえあつまろ ) 。
この方には四人の息子がいました。

( 以下、敬称は略させて頂きます🙇 )

長男
○近衛文麿 (このえふみまろ)
……政治家  内閣総理大臣

日本政治史上、総理大臣を三回も務めた方はこの方だけです。


次男
○近衛 秀麿 (このえひでまろ)
……指揮者  作曲家  貴族院議員

日本の「オーケストラの父」
高名な音楽家ですが、ヨーロッパ滞在中はナチスの迫害から多くのユダヤ人音楽家を救い出しました。


三男
○近衛  直麿 ( このえなおまろ )
……詩人  雅楽研究者  ホルン奏者

数十にのぼる雅楽曲の五線譜化を完成させ
更にそれをオーケストラ楽器への編曲を試みた方です。
次男「秀麿」の良き理解者。


この方はひょっとしたら音楽における「東洋」と「西洋」に着目し、それらを融合した新しい「芸術」を創ろうと思っていたのかもしれません。
が、残念な事に昭和七年 ( 1932 ) に三十一才の若さでお亡くなりになりました。


四男
○水谷川  忠麿 ( みやがわただまろ ) 
……旧姓「近衛」。同じ藤原一族の「水谷川家」 ( みやがわけ ) への養子となります。

戦前戦中……
内務大臣、大蔵大臣の秘書官
戦後になると……
奈良県奈良市「春日大社」( 主祭神:春日神 ) 宮司
奈良県桜井市「談山神社」( 主祭神:藤原鎌足 ) 宮司

戦前戦中は兄「文麿」の密使として度々中国へ渡り、
影の外交活動をしていた様です。
戦後、藤原一族の氏社「春日大社」の宮司に奉仕。

🌸この方のこの経歴、凄い❗とは思いませんか?
とても一般人は体験出来ない❗、と思います。


「春日大社」

全国約一千社「春日神社」の総本社


🌸毎年八月に催される長野県内最大規模の夏祭りである松本市の「松本ぼんぼん」。
この祭りの楽曲を作曲したのは作曲家「水谷川忠俊」( みやがわただとし ) 氏。
この方は、近衛四兄弟の次男「近衛秀麿」の実の息子であり、後に四男「水谷川忠麿」の養子となった方です。


⚪日本文化の継承者


「春日大社」神楽  巫 ( みこ ) の舞い

大河ドラマ「光る君へ」は勿論のこと、平安時代を描くドラマや映画を見ていると分かりますが、宮廷内で催される数々の「催し物」は当時の貴族達にとっては「政治的」にも「権威的」にも、とても重要な「出し物」だったと思われます。
そしてこれらの「出し物」、つまり「音楽」「歌」「踊り」などは、実はその時の重要な要素 ( =力の象徴 ) だった事でしょうね。
つまり「出し物」の企画、演出などを自分たちが進行し催す事は、「宮中を支配する」ための一つの手段だったのではないでしょうか。

そんな事もあり、藤原一族を始めとした当時の貴族達はそれら「出し物」、言葉の表現上品にすれば😄「文化芸能」を積極的に取り入れて発展させ、「一族の宝物」として大事にし、時には自ら技術の継承者として、時には経済的なパトロンとして、子々孫々に伝えて来たのだと思います。
ですので先程記した近衛家の方々に「音楽」や「神社」の関係者がおられるのはその影響もあってかと推察されます。

ですが結局はこういった方々達のお蔭で日本文化は発展し継承され、現代の我々にも直に膚で感じる事が出来るんですよね。


⚪「日本オーケストラ界の杉原千畝 ( すぎはらちうね )」

近衛家は五摂家 ( ごせっけ : 貴族の最高家柄 ) であり、更にその中でも筆頭の家柄です。また皇室内で「雅楽を統括する家柄」でもあって、次男の秀麿、三男の直麿はその影響で音楽に興味を持つようになった様です。

特に次男秀麿は、当時まだ日本に存在すらしていなかった「オーケストラ」の世界に進みます。
後にこの方が昭和二十六年 (1951) に結成され現在までに至る「NHK交響楽団 」( N響 ) の母体を作る事となります。

1930年代から欧米諸国を訪問しオーケストラ結成のために学び、アメリカ、ドイツなどでは指揮者としての技術を磨きます。
昭和十四年 (1939 ) 年、ヨーロッパを舞台にした「第二次世界大戦」が始まっても何と❗ドイツに留まったまま、指揮者としての活動を続けます。

昭和十七年 ( 1942 )  ドイツでの勇姿



更にこの方の凄い所は、音楽活動も然る事乍ら、ドイツ国内にいた多くのユダヤ人音楽家の命を救った事です。

ドイツで学んでいれば地元の多くの音楽家の知己を得ますよね。その中には当然ユダヤ人達も居た事でしょう。

大戦の前期、破竹の勢いのドイツはヨーロッパ一帯を制圧しました。
そしてドイツ当局は、地元から遠く離れて各地に駐留する将兵のために、慰問を目的とした「交響楽団」を結成されす。
当時日本はドイツの同盟国であり、その同盟を結んだ時の日本総理大臣が実の兄 ( 文麿 ) ですから、当然秀麿にも慰問団への参加要請が届きます。
外国人 ( 日本人 ) が修業している国 ( ドイツ ) の慰問団に呼ばれる、これは大変な「名誉な事」だと思います。
秀麿は喜んで参加したことでしょう。
ですが秀麿はその喜びの中でも普段から持っていたある思いがあったのではないでしょうか?
それはドイツに来て知り合った多くのユダヤ人音楽家たち。ナチスはたとえ音楽家だろうとユダヤ人である以上「収容所送り」、仮に才能のある人物なら収容所に送られなかったとしても、かなり不当な扱いを受けていたでしょうね。

これらの現状を普段から見ていた秀麿。
やはり何とかしたい気持ちは当然有ったと思います。
ですが自分だけでは何も出来ません。
そんな時に来た「慰問団参加」の依頼。
その知らせが届いた時秀麿はハッ、とあることに気がつきます。


そして一考を案じてそれを実行します。


それは………

慰問団にナチスによる迫害に苦しんでいるユダヤ人音楽家をまぎれ込ませ、その慰問先や慰問先からドイツに戻る途中の国 、例えば中立国のスイスなどに亡命させて、そのままアメリカへ逃がす方法、です。

ドイツ国内にいただけでは何も出来ませんでしたが、これを実行した事により多くのユダヤ人音楽家、そしてその家族達が救われました。

これは正に「命のビザ」の外交官「杉原千畝」(すぎはらちうね ) や、当時の満州国国境の街「オトポール」において約二万人ものユダヤ難民の命を救った将軍「樋口季一郎」( ひぐちきいちろう ) と同じ偉業デスネ。
日本人の誇り❗、としか言えません。

外交官「杉原千畝」


帝国陸軍中将「樋口季一朗」

🌸杉原千畝と樋口季一朗将軍のご両人は共に岐阜県大垣市にご縁が有ります。
そしてその大垣市には、このお二人に感謝した当時のイスラエル大使から贈られた「四本のオリーブの木」が植えられています。


一時期の勢いは消え失せ段々と厳しくなる戦争の中でも秀麿は華やかな演奏活動を続けました。
が、昭和二十年 (1945) 四月、ドイツが敗戦。
そんな時でも混乱のドイツ国内に滞在していた秀麿ですが、ドイツの街ライプツィヒでアメリカ軍に捕らえられ、尋問を受けます。
ですがどうにか釈放されてアメリカ経由でその年の十二月にようやく日本へ帰国出来ました。

ですが日本で待ち受けていたのは悲しい知らせ。
兄の文麿の自殺。
そしてその文麿の息子、甥にあたる文隆 ( ふみたか ) のシベリア抑留 ( 昭和三十一年:1956年、抑留地で死亡 ) 、でした。

その後の秀麿はヨーロッパで培った実力でもって、日本に「オーケストラ」を根付かせるために存分に尽力した事と思います。
そして昭和四十八年 ( 1973 ) 、七十五歳でお亡くなります。


その四年前、昭和四十四年 ( 1969 )  秀麿氏、七十一歳の時の勇姿


⚪現在までも受け継がれている系譜と文化

民謡「松本ぼんぼん」や多くのTVドラマの音楽を手掛けた音楽家「水谷川忠俊」さん ( 昭和十年:1935年~)。
近衛秀麿の息子であり、後に叔父の水谷川忠麿の養子となった方と前に説明させて頂きました。
そして、この方の娘さん、つまり近衛秀麿の孫に当たる「水谷川優子 ( みやがわゆうこ ) 」さんも、日本と外国を股に掛けるチェリスト、音楽家です。


ヴィオリストでTVタレントである高嶋ちさ子さん。
この方とは高校時代からの大親友だそうです。

秀麿さんの気持ちをしっかり引き継いでいる様ですね。

一方、近衞家の第三十二代現当主は「近衛忠煇」 (このえただてる ) さん。

近衛忠輝 氏


近衛文麿の孫になります。

日本赤十字社名誉社長であり国際赤十字・赤新月社連盟 (IFRC ) ではアジア人初の会長に就任。
また平成二十三年 ( 2011 ) の東日本大震災では、地震発生の翌々日には被災地各所に赴き、全国から集まった日本赤十字社救護班ら ( 約7000人 ) の活動がマスメディアを通じて各国赤十字・赤新月社に発信されます。それにより約100か国の赤十字・赤新月社から日本赤十字社の活動 ( 東日本被災地の救援並びに復興支援 ) へ支援が行なわれました。


そして日本の「文化遺産」、近衛家が藤原時代以来から収集してきた数多の文化財は以下の施設に納められています。

○「陽明文庫」( 以下、wikipediaより )

陽明文庫( ようめいぶんこ )は、京都市右京区宇多野上ノ谷町にある歴史資料保存施設及び公益財団法人(公益財団法人陽明文庫)。 
公家の名門で「五摂家」の筆頭である近衞家伝来の古文書( こもんじょ )、典籍、記録、日記、書状、古美術品など約10万件に及ぶ史料を保管している。
昭和13年(1938 )、当時の近衞家の当主で内閣総理大臣であった近衞文麿が京都市街地の北西、仁和寺の近くの現在地に財団法人陽明文庫を設立した。
近衞家の遠祖にあたる藤原道長(966 - 1028)の自筆日記『御堂関白記』から、20世紀の近衞文麿の関係資料まで、1,000年以上にわたる歴史資料を収蔵し、研究者に閲覧の便を図るとともに、調査研究事業、展示出陳事業、複製本の刊行などの事業を行っている。
2012年4月より公益財団法人に移行した。……

閲覧には色々と条件が有る様ですが、興味の有る方は是非とも行ってみて下さい。


今回は日本の文化遺産を引き継いでいる五摂家の中でも近衛家を取り上げさせて頂きました。
その他の摂家である、鷹司家、九条家、一条家、二条家も現在まで存続しており、近衛家と同じ様に、日本文化を引き継ぎ、国内外でご活躍されている事と思います。

これらご子孫の方々には改めてお礼を申し上げたい気持ちです。
いつまでも日本文化を直接拝見出来る様に宜しくお願いします。

今回はここいらで失礼します。
有難う御座いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?