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モーム「人間の絆」~ペルシア絨毯に込められたメッセージ


~「人間の絆」 “Of Human Bondage”(1915)  ※bondage=しがらみ

人生の意味とは?


「人間の絆」(1915)は、モームの自伝色が濃い成長物語です。

文庫版で1200ページ以上もの長さですが、比較的スムーズに感情移入しながら読み進められるはずです。

語り手の葛藤が等身大かつ普遍的なものであり、それが分かりやすく的を射た筆致で描かれているからでしょう。

主人公のフィリップは早くに両親を失い、牧師である叔父に引き取られます。しかし彼はこの叔父に馴染むことができず、孤独な少年時代を送ります。

また、片足の障害による劣等感にも苦しめられながら、「どう生きればいいのか」を懸命に模索します。

最初は聖職者を志すのですが、フィリップはどうしても信仰を持つことができません。次に彼は画家を目指します。しかしここでも才能の限界を知り、断念することになります。



どんな道へ進めばよいのか、フィリップは思い悩みます・・・私たちの多くと同じ様に。

物語は、ホームレスに身を落としたり、悪女に入れ上げてたぶらかされたりの、フィリップが三十才になるまでの苦悩に満ちた遍歴を辿ります。

この作品を貫くテーマは、大きく「人生の意味とは何なのか?」というストレートなものです。


不幸だらけの世界


フィリップは成長の過程で、様々な人物と邂逅します。

自由奔放なふるまいでフィリップの恋心を振り回し、苦悩に陥れる毒婦ミルドレッド。反対に、母性的な愛情で彼をいやす年上のノーラ。

決定的に才能が欠けているものの、画家への道を捨てきれず、貧困と絶望のうちに無残な末路をたどる学校の同僚ファニー。

フィリップもまた、講師のフォアネから「君は平凡な画家以上にはなれない」と宣告されて絵の道を諦めることになります。

しかしそのフォアネ自身も、若い頃にたった一枚の作品が評価されてしまったために、道を見誤った一人でした。


なぜ、何を目的に、苦難だらけのこの世界で人は生きているのか。

それぞれの挫折にまみれた様々な人々の中で、この作品のテーマを強く表す人物がいます。
生涯世に出ることのなかった老詩人、クロンショーです。

ふたつのエピソード

「人生の意味とは?」というこの物語の核心は、まずは「ペルシャ絨毯」にまつわるクロンショーとのエピソードによって描かれます。

パリの美術学校に通うことになったフィリップは、酔いどれで売れない詩人クロンショーと出会い、彼を慕うようになります。

そして、フィリップの「人生なんていったい何の意味があるのか」という問いに対し、クロンショーはある「ペルシア絨毯」に言及し、「その中に答えがある」という旨のヒントを遺します。

また、それは「自力で見つけなければ意味がない」と忠言します。

もう一つ、引き合いに出される「東方の王様の話」も重要です。

ある王様が「人間の全歴史が知りたい」と思い、賢者に歴史書の全巻を運んで来るように命じます。しかし、それは500巻に及ぶ膨大な分量です。

王様は多忙だったので、それを通読することができません。
そこでこの500巻を要約するよう賢者に命じます。

それはやがて50巻に短縮されますが、この作業には20年もの歳月がかかってしまいます。

この50巻でさえ読むには歳をとりすぎてしまった王様は、もっと縮めるよう賢者に伝えます。

それは遂に一巻になりますが、この作業にも20年かかりました。
王様の余命はあとわずかとなってしまい、読む時間がもうありません。

やむ無く賢者は、その概要を数行で表して王に伝えることになります。

「人は生まれ、苦しみ、そして死ぬ。人生に意味はなく、人は生きることで何らかの目的を達成することはない。生まれようと生まれまいと大した意味はないし、生きようが死を迎えようが意味などない。」

クロンショーの死後、フィリップはふいに「ペルシャ絨毯」についての詩人のメッセージを理解します。

(概略)
人生の意味とは何か?というフィリップの問いに対して、その絨毯に答えがあり、それは自身で発見することが必須である、とクロンショーは言いました。

今、フィリップにとって答えは明白でした。

人生に意味などないのだ。
ただ好きなように自分の模様を描けばそれでいいのだ。

それがシンプルな模様であれ複雑なものであれ、人の一生は、一人一人が自分独自のデザインを紡いで行けばよいのだ・・・

「幸福」という呪縛

彼はそれまで、「人生は一度しかないのだから成功しなければならない、幸福にならねばならない」という観念にとらわれて来ました。
そして思うようにならない自分の人生を嘆き、苦悩していました。

しかし、新たな悟性によってフィリップは重い荷から解き放たれ、視界が大きく開けていくのを実感します。

幸福への願いを捨てることによって、彼は、いわば最後の迷妄を脱ぎ捨てていたのだった。幸福という尺度で計られていたかぎり、彼の一生は、思ってもたまらないものだった。だが、いまや人の一生は、もっとほかのものによって計られてもいい、ということがわかってからは、彼は、自然勇気のわくのをおぼえた。幸福とか、苦痛とか、そんなものは、ほとんど問題でない。(中略) たとえどんなことが起ころうと、それは、ただ模様の複雑さを加える動機が一つ、新しく加わったということにすぎない。・・・フィリップは幸福だった。

ウィリアム・サマセット・モーム著、中野好夫訳「人間の絆(下)」(2007新潮社)

「人間の絆」は、第一次大戦の混乱もあって、当初はあまり話題になりませんでした。

しかし、その数年後に出した「月と六ペンス」がベストセラーとなり、モームは一躍大きな名声を得ました。

以降もモームは、大衆性に富んだ彼独特の作品群を織り出し、大小説家としての道を切り拓いて行くことになります。

ウィリアム・サマセット・モーム(1874‐1965~イギリス・小説家、劇作家)
半自伝小説「人間の絆」(1915)や画家ゴーギャンの生涯をもとにした長編「月と六ペンス」(1919)などで大きな注目を集めた。また、短編の名手としても多くの傑作を残した。読みやすい文体とストーリーの面白さで大衆の人気を獲得した。

2023.11.25
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