連載小説【フリーランス】#23:口に出されなかった言葉たち

 それでも時は正しく流れる。CLOSETは蔵石さんの家から運び込まれてきたものたちに着々と侵食されて、ピアノを中心にステージが設営されつつあった。床にはフェイクの畳を六枚敷き、中央に堂々と構えるグランドピアノの回りを、折りたたみ式のちゃぶ台や本棚で飾り込んでいく。本棚の中身も蔵石さんのもので、私物の文庫本や漫画が並べられた。

 セット作りには幸代もミヤちゃんも参加した。取り外し用の壁となるパネルは内側に壁紙のシートを貼り、蔵石さんが撮ってきた部屋の写真からイメージを膨らませて、ミヤちゃんが絵を描いた。窓となる部分は四角く切り抜いて穴を開け、外側にモニターを設置して、蔵石さんが自宅の窓から撮ったタイムラプスの映像を流す。昼夜の時間の流れに合わせて照明もデザインし、朝時間は朝の光、夜時間は夜の光をセッティングした。

 「#playground」と銘打った演奏会は、予定通り、三部構成の第一部からスタートした。ステージ上の照明が徐々に明るくなり、裾のほうをグランドピアノの下に突っ込むようにして敷かれた布団の上で蔵石さんがむくりと起き上がる。ここでは蔵石さんがこの部屋で過ごす一日を、朝起きてから寝るまでのダイジェストで実演し、その中でピアノの練習や作曲をする姿を見せていく。同時に蔵石さんの心の声やキャプションをテロップにして上部のプロジェクターに流し、ギャラリーはそれをYouTubeに転がっている日々の生活ルーティン動画のように見守った。パジャマ姿にメガネをかけた蔵石さんがピアノの蓋を開け、練習曲で指のウォーミングアップをする。それが終わると、音楽制作ソフトを使って、ピアノで鳴らした音をパソコンに取り込んでプレイバックしながら曲を作っていく。作曲に行き詰まって漫画を読んだり、ちょうど軌道に乗ってきたところで宅配便が届いてイラッとしたり、ちょっとした寸劇のような演出も蔵石さんが自作自演で披露した。

 蔵石さんはピアノで弾き語るシンガーソングライターなので、仮歌を口ずさみながら歌詞を書くところも再現され、作詞中の言葉はプロジェクターにリアルタイムで投影された。蔵石さんの書く歌詞の世界は、基本的にはラブソングなのだが、俗に言うメンヘラ女子の心の内をまざまざとしたためたようなもので、依存、束縛、妄想、ストーカーまがいの片思い、失恋からの執着など、とにかく重い女たちの独白をこれでもかと綴る。それも鋭利な言葉の毒矢で正確に急所を貫く。それで傷ついている彼女たちを慰めようものなら、にっこりと笑って、私っておかしいですよね、でも好きなんです(だから邪魔しないでください)。異性からしたらホラーとしか思えないかもしれない。ただ、曲調や歌い方があまりにも陽気なので、聴いていると妙に気持ちが高揚して中毒性がある。彼女たちが恋人や思い人に面と向かって言えない言葉たち、したがって陽の目を見ることのできない言葉たちは、口に出されなかったからといって、その感情がなかったことにはならない。誰に届くことも消化されることもできず、体内で行き場を失い、腐っていくしかなかったそれらの運命を、蔵石さんは文字通り救う。そのせいか、蔵石さんのファンは圧倒的に女性が多かった。今日も客席は八割が女性だ。女の子たちのワナビーとはちょっと違うかもしれないけれど、ガールクラッシュとはいってもいいだろう。

 第二部では照明をライブ仕様にチェンジし、第一部で作っていた曲をはじめ、これまでにリリースされているインディーズ盤の楽曲で組んだセットリストを弾いていく。裸足のままで左右が白と黒に分かれたツートンカラーのセットアップドレスに衣装替えし、高く結い上げた髪にも黒と白の羽飾りをあしらっていた。合間にMCを挟みながら、パフォーマンスから会場の雰囲気づくりまですべてをソロで力強くリードするステージはまさに蔵石さんの独壇場だった。グランドピアノの前に一人座った蔵石さんは無双状態で、十本の指は白鳥のように二色の鍵盤の上を軽やかに飛び回り、でもその片羽が真っ黒に染まって見えるほど、鳴る音は激しく響いていた。

 そしていよいよ第三部。インターバルを挟んで再び舞台に戻ってきた蔵石さんはボヘミアン調のワンピースをまとって、大きなバンダナをリボンのように頭に巻いていた。今度はすぐにピアノの椅子には座らず、客席に向かって、今宵のメインイベントを明かす。すなわち新曲の生創作だ。蔵石さんはフリースタイルラップのお題のように客席からワードを募った。ランダムに声をかけるとそれぞれに脈絡のない単語やフレーズがあちこちから挙がり、その中から使えそうなものをいくつかセレクトして、ようやくピアノの前にスタンバイした。

 ここから先は完全なリアリティショーだ。どんな曲ができるのか、そもそも曲は出来上がるのか、未完成に終わってしまうのか、それともどちらでもない何かが起こるのか、幸代たちスタッフもお客さんも、蔵石さんでさえも、その結末を知らない。だが幕は上がった。もう後戻りはできない。

 蔵石さんが鍵盤に指を走らせたときはまだ曲の原型も見えない見切り発車だった。でたらめに弾いているようにしか聞こえなかった。が、しばらく流しで行ったり来たり鳴らしているうちに、なんとなく音の輪郭が浮かび上がってきた。そこに鼻歌でメロディーを投入し、さらにワードを載せていく。ベースライン、コード、ボーカル、歌詞とレイヤーを重ねるようにして、数週間前に築いた土台の上に、まさに今、音楽の家の層が積み上がっていくのを、その空間にいるみんなが肌で感じていた。

 幸代とミヤちゃんはステージ裏の両脇で待機していた。二人とも頭から黒子のマスクをかぶっている。セットの壁は蔵石さんの合図が出たタイミングで取り払うことになっていた。が、その合図がいつ出されるのかはわからない。曲の仕上がりを見計らって蔵石さんがゴーを出す。幸代は後方の暗がりからステージの成り行きをうかがいながら、いつ合図が来てもいいように、ありったけの集中力と緊張感をパネルにかけた両の手に込めながら待っていた。チャンスは一度しかない。幸代とミヤちゃんのどちらかがフライングをしても、出遅れても、ショーは台無しになってしまう。しかしその緊張すらも、目の前で生まれゆく曲の行方に前のめる期待の勢いをはばむことはできなかった。

 そしてついにそのときは来た。蔵石さんの手がサッと頭上に大きく振り上がる。幸代とミヤちゃんは蔵石さんを挟んで目を合わせ、スススと前方に移動すると、蔵石さんの手が振り降ろされるやいなや左右のパネルを外側に広げた。両開きの扉のように二枚のパネルがゴゴゴと開いて背面の壁と平行になり、蔵石さんの部屋と会場を隔てていたものはなくなって、中の空気が外に流れ出した。本当はパネルを根元からバタンと外側に倒して、立体の箱が平面の型紙に戻るみたいに派手にやりたかったのだが、スペースが足りなくてそういうふうにした。と、同時に照明も変わり、奥からギターとドラムのサポートメンバーが現れる。ソロのリサイタルは一瞬にしてトリオが即興で新曲を作り上げていくライブショーに様変わりした。

 壁が取り払われる前の#playgroundと後の#playgroundとではまるで別ものだった。昭和歌謡曲調のメロディーをジャズ風にアレンジした、“蔵石節”と呼ばれるサウンドは、ジャムセッションと相性がいい。小柄な体の一体どこから出しているのか、鋼のように力強くしなやかな声から繰り出されるファルセットはダイナミックにうねり、高音域のシャウトが脳天を突き抜ける。何かの拍子に針が飛んで壊れてしまいそうな声色はそれゆえにしびれるような快感をもたらし、ところどころで効かせた拳のドスが醸し出す凄みもまた、心地よく臓腑を刺激する。十本の指が叩き出す底抜けに明るい曲調の背景では、あえての不協和音がじわじわと不穏な響きを放ち、その上にとびきりヘヴィーな歌詞をのせて高らかに歌い上げるスタイルは、あらゆる矛盾という矛盾を抱えながらすべてがギリギリのバランスで成り立っている、危ういユートピアを作り上げていた。クライマックスが近づくにつれて転調を自在に操り、オーディエンスの心を上へ下へと翻弄しながらがっつりと鷲掴みにして、どんな闇ワードも振り切れたテンションで歌い続ける瞳孔全開の笑顔は狂気すら感じさせ、その足元では素足の裏がペダルを深く踏み込んでいる。完全に蔵石さんの色に染まった会場は、リスナーズ・ハイともいうべき異様な迫力と熱気に包まれていた。

 幸代は舞台袖で燃えていた。体の奥が熱くなり、胸の高鳴りを抑えられなかった。たぎる血が全身をかけめぐり、体幹を貫いて、瞼の裏にチカチカと火花を散らした。ステージの対岸で体を揺らしているミヤちゃんの目もキラキラ輝いている。蔵石さんは幸代に指一本触れていない。知り合ったのはほんの数ヶ月前で、プライベートで会ったことも、踏み込んだ話をしたこともない。歌詞が蔵石さんの実話なのかどうかもわからない。お客さんも個人的なつき合いのある人は一人もいない。でも今、その誰もが、この空間を揺らす音の海に身を浸している。自分と他人の境界線が滲んで一つに溶けていく感じ。自分というものの輪郭など捨てて、むしろ大きな波に溶け込んでしまいたいという衝動に突き動かされる気持ち。

 こんな瞬間が長くは続かないことは知っている。一時間後にはすっかり分離して、冷えて固まって、みんなそれぞれ自分の型に納まって家に帰る。でも今が嘘ではないこともそれ以上に知っている。この瞬間のために日々を生きているのか、日々を生きるためにこの瞬間があるのか。このニワトリタマゴレースにゴールはあるのだろうか?⏩#24


⏪#22:似ている誰か
⏪#21:同じカテゴリの男
⏪#20:食べた気がしない

#19:私だけのこけし
⏪#18:何もかも似合わない部屋
⏪#17:六畳一間のグランドピアノ
⏪#16:かろうじて戦争ではなく

⏪#15:ユエナは虹の子
⏪#14:白でも黒でもない
⏪#13:ムーンボウの娘
⏪#12:沈丁花の夜
⏪#11:ミスター模範解答
⏪#10:完璧な仏像に似た
⏪#9:割れた風船の中には
⏪#8:マッチ&デートツアー
⏪#7:人生はレディメイド
⏪#6:残されたまばたき
⏪#5:マスゲーム襲来
⏪#4:風の強い日
⏪#3:渋滞のハイウェイ
⏪#2:神々の大量虐殺
⏪#1:夜の教室

↩️最初から読む

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?