トム・ヒドルストン『Betrayal(背信)』観劇録

 脚が長い。二メートルある。

 舞台を観に来た感想としては非常に不適格だが、幕が開いた瞬間のわたしの感想はそれだった。ハロルド・ピンターによる戯曲『背信(原題: Betrayal)』を、わたしが一二番に好きな俳優トム・ヒドルストン(以降トムヒ)が主演すると聞いて、卒業旅行も兼ねてイギリスまでそれを観に来たのだ。

 『背信』は、トムヒ演じるロバートとその妻エマ、そしてロバートの親友でありエマと不倫しているジェリーの三人を軸にした短めの劇で、大きな特徴として物語が現在から過去に逆行して進む。

 誰が、誰に対して、どんな「裏切り」をしたのか。話の要はそこにあるのだが、これは観客一人一人解釈が変わる。最も分かりやすいところから始めれば、エマとジェリーはそれぞれロバートの愛情や友情に対し不倫という形で裏切っており、ロバートの方もエマに対しては別の女性たちとの不倫、そしてジェリーにはエマとの不貞を知りながらも素知らぬ顔をしていた不実の裏切りを働いている。

 しかし、ロバートは本当に不倫していたのだろうか? 脚の長さなど忘れて、トムヒの演技に没頭した後では、わたしはそう感じざるを得なかった。
 お互いの存在が明確なエマとジェリーと違い、ロバートの不倫相手は劇中で名前すら明かされない。そればかりか、彼の不倫の根拠はロバート自らそう話したという事実以外には何もないのである。
 何より、七幕で逢瀬を楽しむエマとジェリーの周りを、時計回りに回転するステージ上の椅子に座りながら、壊れてしまいそうな表情で娘を抱え込み、その頭に頬を寄せるロバートの姿を見たら、彼が同じ仕打ちをエマやジェリーに強いるとは到底思えなかったのだ。

 これは原作には表記がない、本公演オリジナルの演出だと推測されるが、どことなく繊細で謂わばフェミニンな印象を与えるトムヒの特徴を活かした結果だろうと思う。前時代的な作品であれば、夫の不倫を知りながらも子どもに拠り所を見つけるステレオタイプな妻・母親像として女性に割り振られていそうな役どころである。
 そもそも、ロバートは不倫する役柄と聞いた時、わたしを含む一部のファンは「トムヒが不倫する男を演じるのか」と意外に思ったものだ。そんな観客が彼から受けるイメージを、不倫していると言ったロバートの言葉そのものこそが嘘で「背信」だと提示する材料に利用したのではなかろうか。

 もちろん、これはわたし個人の解釈でただの深読みに過ぎないかもしれない。一緒に観に行った友人は、ロバートとジェリーが”できて”おり、それがエマに対する背信であると主張して譲らなかった。観る人めいめいが受け取る裏切りの形から、個々人の人生観や道徳観をあぶり出す本公演は、流行りの俳優を起用したキャッチーさとは裏腹の恐ろしさを内包している。

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