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分人主義の解説と考察

分人主義は小説家、平野啓一郎が提唱する、
個人主義の対義となる主義である。

分人とは個人の対義で、
個人を更に細分化した概念だ。
個人という言葉の意味は、
社会の対義で、それ以上、分けられない、
最小単位という意味を持ち、
本当の自分を想起させるが、
分人という言葉では、
個人を複数の分人に分け、
その複数の分人に主体性を認める為、
本当の自分というのはないとされる。
これを分人主義と呼ぶ。

分人主義は一見して、ペルソナと似ている。
ペルソナとは人の前で被る仮面、
場面に応じた、演じるキャラ(人間性)であり、
人は多くのペルソナを持つ。

個人主義におけるペルソナでは、
ただ1つの本当の自分と、
その他、たくさんあるペルソナで
人間は構成されているとされるが、
分人主義におけるペルソナでは、
本当の自分は存在しなく、
ただ、たくさんのペルソナが
存在するとされる。
そして、そのたくさんの
ペルソナの合計が本当の自分だと言うのだ。

分人主義者は個人主義者の、
ペルソナの解釈をこう批判する。
「ペルソナを統合する様な、
メタ的な位置にある本当の自分はあるのか?」
「ペルソナを被っている状態同士での会話は
演じている者同士の
化かし合いに過ぎないのか?」
「ペルソナを被ってない状態を
本当の自分と定義できそうだが、
他者との関わりの中で、
完全にペルソナを被らない事は想像しにくい」

そして、この批判を乗り越えるのが
分人主義の、ペルソナの解釈なのだ。

分人主義としては、
個人主義的な自分がいるという認識は、
分人の1つを本当の自分と解釈しているか、
自身を構成する分人の比率を
本当の自分と解釈しているかに
過ぎないとされる。

分人には分人化の段階が3つある。
まず、汎用性の高い分人、社会的な分人。
これは不特定多数の人と意思疎通が可能な、
未分化状態の分人である。
知らない人に話しかけられたり、
逆にそうする場合は、この分人を使用する。

次に特定集団に向けた分人、環境的な分人。
職場、学校、SNS上など、
特定のグループ内に特化した分人だ。
youtuber、芸能人など、
メディアで活動する人間も、
そのメディア向けの分人を
使用しているとされる。

最後に特定の相手に向けた分人、
関係的な分人。
相手の性格に合わせた分人で、
相手によってはこの分人が形成されない。

そして、分人主義は人間関係の解釈や、
人間関係に伴う感情の解釈についても、
従来の解釈と異なる解釈をする。
次に「孤独」「罪悪感」「嫉妬」「自傷行為」
「愛と恋」「人間の死」の、
それぞれの分人主義的解釈を述べる。

孤独の苦しみは、一般的には、
「人間との関わりが減少した事による疎外感」
「外部刺激が減った事による退屈感」とし、
個人と外部の関係に苦しみの原因を求めるが、
分人主義では、
「人間との関わりが減った事により、
対応した分人が機能しない苦しみ」
「人には適正な、機能する分人の量があり、
丁度いい分人の数、丁度いい環境の数で
なくなった事による苦しみ」
「いつも同じ分人に
監禁されている苦しみ」とし、
自分の中に苦しみの原因を求める。

罪悪感は、一般的な解釈では、
「個である自分に対する
嫌悪感、罪悪感、後悔」とし、
「どうしてこういう自分なのか?」
と絶対的な主体を責めるが、
分人主義では、
「そもそも責めるべき確固たる主体はない」
「そういう分人があるという事実でしかない」
「分人の性質の半分は他者が原因だから、
罪悪感もその半分で良い」とする。

そして、自分と他者の関わりで、
他者と関われるのは、他者にある、
自分向けの分人に過ぎないとされ、
それを理由に、
分人主義は嫉妬を勘違いとする。

例えば、友人Aが自分の嫌いな人物Bと
親しくしている時、
Aに絶対的な主体を想定すると、
整合性がある筈の個人において、
友人Aに嫉妬を抱いてしまうが、
分人主義的に考えると、
Bに対応するAの分人には介入できないし、
自分に対応するAの分人と
Bに対応するAの分人は
別だから責任を求める主体はないとされる。

分人には、好きな分人と嫌いな分人がいて、
自傷行為は、自分の中にある、
特定の分人を消去し、
新しい分人比率の中で
生きていきたいという
願望の現れと解釈される。

恋は「特定の他者の事を好んでいる状態」
「対象は性的志向に紐づいた人間」とし
愛は「特定の誰かに
対応した分人を好んでいる状態」
「対象は性的志向や人間に限定されない」
「ある分人といる時の
自分(分人)が好きだという感覚」
「他者を経由した自己肯定の状態」
「相手が自分を愛しているかは無関係」
としている。

では、分人主義を一通り、
解説し終えたので、
ここから分人主義の批判と
疑問の提示をする。

まず、自分と他者の関係と、
同じ人物内の分人同士の関係は何が違うのか?
これを説明しないと、
多重人格と分人を区別できない。

次に、ある分人が悪事をしても、
その分人だけが悪く、
自分という絶対的な主体に罪はないのか?
罪悪感に対する分人の解釈は、
それを肯定する様に思える。
(「そもそも責めるべき確固たる主体はない」
「そういう分人があるという事実でしかない」
「分人の性質の半分は他者が原因だから、
罪悪感もその半分で良い」)

次に、浮気は悪でないのか?
浮気相手に対応するパートナーの分人と
自分に対応するパートナーの分人が
「別人」だと言うのなら、
そもそも、よくある浮気は
浮気ではない事になる。
嫉妬の分人主義的解釈は
それを肯定している様に思える。
(「B(浮気相手)に対応する、
A(パートナー)の分人には介入できないし、
自分に対応するA(パートナー)の分人と
B(浮気相手)に対応するA(パートナー)の分人は
別だから責任を求める主体はない」)

次に、人によって、
自分の対応が異なるからと言って、
それぞれの対応ごとに、
自分が別人だというのは
根拠がないのではないか?
所詮、分人などというのは
妄想に過ぎないのではないか?

単純に、相手に合わせて、
自分を見せる範囲を変えたり、
自分を元とした、
社会的な役を演じたり、
相手からの印象を操作する為、
自分を元にアレンジした役を
演じているだけではないか?

次に、1人でいる時、それは誰なのか?
どういう分人なのか?
分人が人や人の集合に合わせて
作られるのなら、
1人の時、分人は存在しないのか?
それなら、分人はただの、
人に見せる仮面に過ぎなく、
本当の自分は1人の時の自分、
他人に見せる事を考えてない時の
自分ではないだろうか?

次に、孤独の原因を分人で説明する際、
「分人が機能しない苦しみがある」
「人には適正な、機能する分人の量がある」
「いつも同じ分人に監禁されている
苦しみがある」と書いていたが、
そもそも、そんな苦しみが
存在する根拠は何か?

次に分人主義者による、
個人主義者のペルソナの解釈への
反論を更に反論する。

「ペルソナを統合する様な、
メタ的な位置にある本当の自分はあるのか?」
ペルソナは他人に「自分」を
何処まで見せるかであるか、
社会的な役職を「自分」を元に
演じているに過ぎないのだから、
その「自分」が本当の自分だろう。
どう演じるか、どんなペルソナでいるか、
どこまで自分を見せるかなど
考える主体が本当の自分ではないのか?

「ペルソナを被っている状態同士での
会話は演じている者同士の
化かし合いに過ぎないのか?」
ペルソナは他人に「自分」を
何処まで見せるかと、
社会的な役職を「自分」を軸に
演じているに過ぎないのだから、
前者なら、一部だけ見せてるだけで、
騙してはいないし、
後者も、その役職についているなら、
騙す事にはならない。
店員は客に寄り添ったペルソナだが、
店員は店員である間、
そのペルソナに行動も伴っているのだから、
そこに偽りはない。
人間は表面だけなら、
自分がどういう人間か選べるのだ。

「ペルソナを被ってない状態を
本当の自分と定義できそうだが
他者との関わりの中で、
完全にペルソナを
被らない事は想像しにくい」
ペルソナはそれぞれが、
まるっきり別の性格ではなく、
ある軸を元にしていて、
その軸が「本当の自分」だろう。
自分を見せる範囲の調節と
自分を社会的な役職で
アレンジする事でペルソナは
形成されるのだから、
そもそも、その「自分」がなければ、
ペルソナは存在しえない。

また、ペルソナを被ってない状態に
なる事が起こり得なくても、
ペルソナを被ってない状態が
存在しないとはならないし、
全てのペルソナに共通する、
核の様な存在を否定する事にもならない。

他者に対し完全に、
ペルソナを被らない事は考えにくいが、
ペルソナが薄まれば、薄まる程、
ある1つの性格に近付く筈で、
それこそが本当の自分だろう。

0.9があり、0.99があり、0.999があり、
それがずっと続くのなら、1がある筈だ。

次に、分人が変わっても、
共有される欲求があるが、
その欲求を持つ主体が、
絶対的な主体ではないか?
その共有される欲求で行われた悪事は、
その欲求を持つ主体が
責められるべきであり、
「悪事に対し責められるべき、
絶対的な主体はいない」と矛盾する。

分人とは人に対応する事を軸に
存在する性格なのだから、
他者と無関係な、対人的でない欲求とは、
無関係な筈であり、
人に対する意識がない時や、
人でない物に対する意識は、
分人とは別な筈だ。
それを本当の自分と言うのではないか?

次に、自傷行為は分人を消去し、
分人の比率を変えたいという願望によって、
行なわれると言うが、その根拠は何か?

自傷行為はそもそも、
自己への嫌悪だけを原因としないし、
分人を消去する願望と言うが、
どの分人の事だ?

次に恋と愛の分人主義的解釈を批判する。
分人主義的とは言えない
解釈の部分には異論がない。

愛とは「ある分人といる時の
自分(分人)が好きだという感覚」とあるが、
単にある人が好きで、
その人と一緒にいるのが
心地いいと言うだけで、
ある人を好きな自分が好きと
思うかは人によるのでは?

ある人といる時の自分のペルソナ、
その人に対し自分が、
どう振る舞うか(どんなペルソナ(分人)か)が
大事というのは自己愛(ナルシズム)では?

次に、人の死に対する
分人主義的解釈を批判する。

「人の死は、その人に対応する、
分人の消滅を意味する」
分人は所詮、人に合わせて、
人への信頼度に応じて、
自分を何処まで見せるか、
相手から良い印象を抱かれる為に、
自分をどうアレンジして
見せるかに過ぎないのだから、
そんな、自分を何処まで見せてたかや、
どんな風に振る舞っていたかなんてのは
どうでも良い筈だ。
その意見自体は間違っていないが、
意味、価値がない。

飼い猫が死んだ時、
飼い猫の前で、メロメロになる自分が、
もう現れないと、自分のもうしない、
振る舞いに対し、
悲しみを抱くのは異常だろう。

「故人を弔い、思い出すのは、
自分の中から消滅した、
故人向けの分人を思い出す感覚」
別に故人を思い出してるだけだろう。
故人に対し、自分が
どう振る舞っていたかを思い出す訳じゃない。

次に、「分人主義は
他者を通した自己肯定であり、
ナルシズムではない」と言うが、
「他者といる時の自分が好き」を愛と呼び、
それを「生きる上で大事な足がかり」と
呼んでいるのだから、
やはり、ナルシズムだろう。

次に、分人主義の必要性は、
本当の自分とペルソナを分けると、
ペルソナは偽りの姿と、
否定的に捉えてしまうから、
本当の自分とペルソナを
同一と考えた方が良いとあるが、
そもそも、感情として良いかどうかと
事実であるかどうかは別だし、
私が既に述べたペルソナの解釈、
自分の何処を何処まで見せるか、
見せる自分の部分を
社会的な役職でアレンジした物、
相手の印象を操作する為に
見せる自分の部分を
アレンジした物という解釈なら、
まるっきりペルソナは
偽りであり演技であるという
考えよりは肯定的だし、
また、全て真実だとする、
分人主義よりも現実的である。

次に、どんな分人が生まれうるかの個人差、
人によって精神に差がある事を
分人主義では説明されていない。
相手に合わせて分人が生まれると言うが、
じゃあ、AがBと接した時に生まれる、
Aの分人と、CがBと接した時に生まれる、
Bの分人は同一だというのか?
そうではないので、分人には核があり、
分人同士は深層部分では
繋がっていると考えるべきだが、
分人主義の提唱者は、
分人同士がどう関わり合い、
分人同士で何が共通するか語っていない。

まとめると、分人主義は、
一見すると筋が通っている様に思えるが、
綺麗にまとまったフィクションに過ぎない。
また、分人主義の提唱者も、
「(分人主義の提唱する理論が
科学的に正しいかはあまり重要ではなく)
分人という用語はより良く、
世界を理解するための道具にすぎない」
とも言っている。

真偽に意味がない考え方とは、
つまる所、宗教である。

宗教には宗教としての価値はあるが、
学術として、哲学としての価値はない。
学術は真である考えのみ、
価値を認めるのだから。

分人主義は宗教である。哲学ではない。

そして、分人主義という思想は、
事実の認識を反社会的な
感情で歪めただけに思える。

作者の政治思想は左翼で、
事実の認識を醜い感情で歪める人達と
同類の発言を多くしている。

勿論、主張する理論の正しさは
政治思想で決まる訳ではないが、
無関係ではない。

分人主義の考察を書いてから、
彼の政治思想を知ったのだが、
すると、彼の分人主義という思想と
政治思想に強い関係がある事に気付いた。

分人主義は現実逃避的で、
個人に対して薄甘い。
悪事を罪とせず、嫉妬を気のせいとし、
責められる、行動に責任を負う、
自分という1つの個があるという
現実を拒絶して、
自分はたくさんいるなどという
妄想に耽っている様にしか思えない。

純粋に知的欲求だけで、
自分とは何か?個人とは何か?
を考えたならばこの様な
思想は思いつかないだろう。

主義主張、思想、意見は2種類ある。
純粋に知的欲求だけで思った事と
感情で事実の認識を歪め、
そうであったらいいなを、
そうな筈だと思う事の2種類。

後者は感情で事実の認識を
歪めてる時点で、端から正しくない。

私は分人主義を、
ポリコレやツイフェミの様な、
左翼の語るトンデモな考えとしか思わない。

純粋な知性で思った意見なら
間違っていようと非難しないが、
事実の認識を反社会的な感情で
歪めて思い至った意見は非難する。

反社会的な感情というのは、
誠実性の欠損、加害性、自己愛など、
人間関係における負の感情、悪な感情である。

ポジティブとは事実の認識を
正の感情で歪める事だから、
単に事実の認識を感情で
歪める事は良いのだが、
反社会的な感情、醜い感情で、
それをしている場合は
非難しなければいけない。

私は分人主義を非難する。



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