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備忘録:時代に合わせたメディアの変遷と、人間側の順応

 最近身の回りで起こっている出来事について、色々思うところがあったので、こっそり書きのこしておきます。本件の本筋からは少し離れるとおもうので、あくまでこっそり。

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 前提:とあるオンラインの音楽雑誌の編集長が書いた批評について。2022.4月に初演されたとある曲に対し、前述の編集長が大変強い言葉を使って批評を行いました。作曲者はそれをうけて反論、ステイトメントを出しました。いっぽう当該オンライン雑誌には「追記」として、この批評に対する反論を受け付けるとの記述が掲載されました。また、そこには、いついつまでにメールで送れ、その際は実名で、字数は何文字以内にしろ、等の注釈がこまかに書き添えてありました。

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 SNSが幅広い世代に利用されるようになって、メディアや広告は刻々とその姿を変え続けています。変えられているともいえるし、変わらざるを得なくなっている、ともいえるでしょう。
 何かを「書く」というシンプルな行為さえ、その手段の変遷は著しいです。今わたしはこの原稿をエレベーターの待ち時間にスマホのnoteアプリで書き始めているのですが、一昔前なら外出中に思いついたことは、メモに殴り書きしたものを帰宅してからパソコンで清書するという手間がかかりました。それがポメラやら種々のスキャンアプリやら、電子化するためのツールは進化し続け、今ではスマホのメモ機能で小説を書くひとなんて、珍しいことではなくなりました。好むと好まざるとにかかわらず、身の回りがデジタルになっていくのを、誰もが避けられない状況であります。

 でも、そんな変遷はある意味当たり前なのです。その変遷を受け入れ、時代に取り残されないようわたしたちは毎日を生きています。進化をやめると、とたんに人は老いはじめます。よりよく生きる=できるだけ老いにあらがう=進化し続けていきたい、というのがわたし自身の持論でもあります。

 いっぽう、慣れ親しんだ手段を捨てがたいと思っている層がいるのも事実です。わたしたちがコンサートのチラシを作り続けているのは、公式サイトやSNSに掲載した情報ではなく、紙を読んで得る形の情報を欲している方々が根強くいらっしゃるから。そうした方々にお届けするために、公式サイトに載せたコンサートスケジュールをまとめなおして紙のカレンダ―を発行したりもしています。――なぜ、そうした手間を惜しまないのか。それはコンサートを買ってもらうためには、買い手側にとってできるだけコンフォータブルな手段で情報を届ける必要があるだろうと思うからです。

音楽を享受する側の態度としては全く問題がないことです。ただし、同様の態度を、媒体を発行する側がとっていてはいけないだろうと思っています。

 紙で発行しているメディアは、世代によってはまだまだ根強い人気があります。だからこそわたしたちは紙の新聞や雑誌に広告を載せていますが、同時に「紙の世代」は年々少なくなっていくのも事実でしょう。
 他方、この数年でWebメディアは、量も質も飛躍的に向上してきています。みなさんがとっくにお気づきのとおり、「紙の世代」にかわって「ネットの世代」はじわじわとその勢力を増やしています。宣伝に利用するにしても、Web上の記事はリンクという強力なツールで、極力アクションの手間を購入者にかけることなく自社サイトへ誘うことができます。
 2022年現在、宣伝のことを考えるときに我々は、紙とWebのバランスをうまく考えて予算をつかっていこう…というような考え方をしているのが実情です。

 オンライン雑誌のことに話を戻しましょう。この形態は、紙よりもよほど自由度の高い媒体だと思います。印刷しないので費用を抑えられますし、「〆切」や「原稿がおちる」などのかつての常識は改変され、万が一誤植があっても修正簡単。タイアップ記事や広告収入などの方法で収入を得、紙媒体と同じくらいの権威をもって発行されているWeb媒体たち。わたしもchromeのリンクフォルダに、Webメディアのお気に入りをいくつも登録しています。

 なのに、前提でお示しした某オンライン音楽批評誌は、いまだに紙の時代のままで止まっているように思えるのです。Webメディアという自由な形態をとっているにも関わらず「発行日」を月1度設定し、自分の書いた記事に対する批判に対して(SNSで対話すれば至極簡便なのに)誌面論争をしかけています。

 紙では発行しない=金銭的&時間的リスクを背負わないのに、紙と同じ方法を取り続けるのは、なぜなのでしょう。

 執筆者陣が慣れ親しんでいるとはいえ、紙でのやり方をそのまま持ち込んでも、Webでの読者の増加にはつながらないように思えます。現在は当たり前になっているSNSを使ってのトークも、拒否されているようです。(発信には使用されているもよう)
 1990年代後半~2000年代前半のアンダーグラウンドなネット論争を見てきていらっしゃる年代の方々だとお見受けするので、どうしても抵抗があるのかもしれません。TwitterだってFacebookだって、実名でやっている方とお話するなら、そんなにびくつかなくてもよいように思えるのですが。

 わたくしごとですが、そういえばこの前、はじめて同人誌を作りました。もちろん紙です。自分で簡単にレイアウトして、表紙を作って、入稿も自分でやりました。じつは、その内容はこのnoteに書いた連載がベースでした。では、なぜ紙にしたのか。

・内容が、部活動の部室とかに置いてもらってあると便利かもしれない内容だったから。万が一データが消えたりプラットフォームが変わったりすると不都合だから。
・10代の子たちに、学校内でデジタルデバイス制限されている状況でも気軽に読んでもらえたらいいな、と思ったから。

―—のようなことが主な理由です。

 もし、メルキュール・デザールをWeb化した理由が、単にコストカットとか発行の簡便性のみであるならば、今後は紙で発行するようにしたほうがよいのではないかと思いました。そのほうが、執筆者陣がある意味「同士」として取り込みたい世代の方にきちんと読んでもらえて、自分たちの守りたい「やりかた」も守れるし、いいことづくめではないでしょうか。更新日も月一回に制限していらっしゃるようですし、決してやれないことではないように思います。紙の持つメリットやシステムはそのまま持っていたいと思っていたいのに、ネットの世界にその古い論理を持ち込もうとするのは、どうにも無理があるように思えて仕方ないのです。

 また、自分たちの作っている雑誌を同人誌であると自負していらっしゃるのであれば、自分たちがまるで公の批評媒体であるというような顔をすることなく、他の同人誌の主宰がもっているような謙虚な姿勢を身に着けた上で、今後の発信におつとめいただいたほうがよろしいかと思いました。

 責任を持たず、言いたい放題に書くと宣言している方々を、わたしは批評家だとみなすことがどうしてもできません。それはSNS上に無限に発生している、匿名で無責任に言いたい放題をする方々と、ほとんど同じだと思うからです。批評家や評論家、学者を名乗って書き物を世に出す方には、どうかそれがご自分の専門領域外のことだったとしても(ならば余計に)丁寧な事実確認や資料調査、平たく言えば「勉強」の必要性を心に刻んでいただきたいと思います。

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