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じぶんのきもち

自分の気持ちが分からなくなるのは何故なのだろう。自分の中の気持ちなら、分かっているのが当然のように思えるのに。

考えてみると、自分のことを客観的に知るのは難しいことだ。例えば、自分の体の中の病気は医者に指摘してもらわねば分からない。「痛い」という症状は感じることが出来ても、なんで痛いのかは診断できない。自分の体なのに、むしろ自分の体だからこそ自分では調べられない。

それと同じように、自分の気持ちも、外側の症状としてぼんやり「痛いようだ」とか「心地いいようだ」という感覚はわかる。でも、どういう理由で、仕組みで、ルーツによって、何を感じているのかを自分で理解するのは難しいのだ。

気持ちというのは、当事者は渦中に飲み込まれてしまう。橋の上から「ああ、こういう波に流されて、あの渦に飲まれているのね」と冷静に眺めることは出来ないのだ。それが出来るのは他者なのだ。

そこで、渦中の当事者と、冷静な観察者の間に掛かる橋となるのが誠実な会話ということになるのだろう。

信頼出来る上手な聞き手。無害で、献身的で、寄り添うけれども乗り越えず、純粋な関心を持って理解しようとするけれど、安易に分かったような気にならない、そんな聞き手が。

気持ちを吐き出していくと、自分の飲まれていた渦の様子が少しずつ見えていくのだ。そうして、人と自分の関係や、世界と自分の関係を落ち着いて受け入れる準備が出来るようになるのだ。たぶんそうなのだ。バカボンのパパなのだ。たまに堅い文章書くと「なのだ」使い勝ち…なのだ。

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