見出し画像

好きと嫌い、依存と自立

ふとひらめいたのですが、好きになることと依存することには通じるものがあり、嫌いになることと自立することには通じるものがあります…か?


だから、「好きになることは一般的には良いことで、嫌いになるのは一般的には悪い感情」と言われる(と思う)のですが、しかし良い悪いというだけでなくて、どちらにも重要な役割があるような気がしてきました。

あるものを好きになる時期があり、同じものをどういうわけか嫌いになっていく時期がある。
好きな方が心地いいだろう。嫌うのも、また嫌われるのも、寂しかったり傷ついたり辛かったりするだろう。当座はやはり、好きは良い感情だし、嫌いは嫌な感情だ。

でも、「嫌うのは悲しいけれど役に立つ」とでも言うのか、嫌うことにも役割があるのではないか。

うーーーーーーん。

大事なのは、好きだから好きになり、嫌いだから嫌いになるという自主性かな。自主性をもって、感情と行動を選び取っているという自覚かな。

「好きにならせて!」「私の好きなあなたになって!」という感情は、好きのようでもあるし、究極の自己中心でわがままでもあるし、嫌いの始まりとも言える。「私の好きなあなたになってくれないなら嫌い!」というのは、好きなんだか嫌いなんだかどっちなのだろう。
満たされるのも良し、満たされないのも良し。でも、両方ほどほどにあるといいかな。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

親子と言うのは一番親密にも疎遠にもなれる関係だ。経験しようと思えば、人間関係のあらゆる距離感を経験できるものかもしれない。


「こういう親であってほしかった(けどかなわなかった)」っていう思いが一つもない人いますか?

昔も今もパパとママがずーっと大好きなまんまっていう方もいるのかな。そういう場合、好きな気持ちについてあんまり深く考察したりしないだろうから、かえってそういう気持ちを文章で表現したりしないかな。どうなんだろ。
そういう人の経験談を読んでみたい。何が嬉しかったのだろうか。悲しかったことはなかったのだろうか。そして、それを読んだとき、健全だと感じるだろうか。健やかさに普遍性はあるかな。

結局、子にも親にも個性があるから、「親子」と一言で言っても多様性がありすぎて、何が普遍的なことなのかってのは一概に言えないんだよな。親としての語りなのか、子としての語りなのかによっても、ベースとなっている経験に幅がめちゃくちゃあるから。


あ、だからね、好きだと依存しやすいし、嫌いだと自立しやすいでしょ。居心地よすぎるのは、薬にもなるし毒にもなる。居心地悪すぎるのも、毒にもなるけど薬にもなるというか。

一緒にいるのもいいし、離れるのもいいし、離れた後に戻ってくるのもいいし、時々帰って来るだけというのもいい。まぁ、離れたまんまでも究極の所いいんではないかな。どんな形でも、学び続けていれば落ち着くところに落ち着くから。
好き一色でも嫌い一色でもなくて、いろんな感情の中でくっついたり離れたりしてグラデーションを味わうのが親子関係の妙なのかな、と。

結論を提示したいのではない。思考から思考へと移っていく際の鍵となる概念を紹介してみたいという欲求があるだけ。それが、誰かにとっても何かの役に立つこともあるかなと。

一応ね、親子って言葉を出したけど、親子に限定しなくてもいい話だとは思う。

絵を描くのが好きでした。でも嫌いになりました。でもやっぱり好きになりました、とかね。

お金が嫌いでした。でも好きになりました。でもやっぱり嫌いです、とかね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?