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閉じ込められている家の鍵は手の中にあるのかも

お義母さんがハマっていた新聞連載小説、黄色い家を呼んだ。

https://www.amazon.co.jp/%E9%BB%84%E8%89%B2%E3%81%84%E5%AE%B6-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC-%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%9C%AA%E6%98%A0%E5%AD%90/dp/4120056287

久々の長編小説で(産後初めての長さだったかもしれない)、しかもテーマがなかなかに重いので読み終われるか心配だったが、読み始めたら賞味5日ほどで読めた。
特に、残り半分からはほぼノンストップだった。

詳細はネタバレになるので避けるが
主人公が壁を必死に登っていて
光がうっすら見えてくるたびにその手を壁から引きはがされ
最初いたところよりもっともっと深いところへ落ちていく。
そんな小説だ。

いつも「落ちるのでは」とおびえながら登り、それでもある程度の高さまでは行けてしまって、その「高いところ」から落ちるから、勢いがついてもっと下まで落ちてしまう。
そもそも「壁を登って上を目指す」という頑なな思い込みが彼女の、
いやすべての登場人物の不幸のはじまりのように思える。

思い込み、つまり思考の偏りだ。
主人公の花は「自分の家のあたりまえ」というバイアスを一度も打ち破れないでいる。
「自分の家のあたりまえ」は子どもなら誰でも持ちうるバイアスだ。
でもふつうは大人になるにつれていろんな家庭があると知り、そのバイアスをあくまで「我が家の一例」と捉えることで「あたりまえ」は自分次第で変えることができると知る。
しかし、花は「自分の家のあたりまえ」のバイアスがどんどんゆがんだまま広がっていき、それを打ち破るという発想に至らないまま閉じ込められている。

例えば、花はずっと「身分証明書もない未成年の家出少女の自分では」と可能性を狭めていくが、花の家出は母親に反対されているものではない。
母は問題を抱えた人物ではあるが、彼女なりに花を愛していて、花に寛容だ。おそらく、正規に働く道に「身分証」や「親の同意」であっても、母に言えばどうにかなっただろう。
花には、本当は「家出」でなくきちんとした形で家を出るように仕切りなおすチャンスが何度もあった。
ただ花は母と再会してもなお「家出少女」のポジションから抜け出せない。
花は自分たちが作り上げた「黄色い家」に執着する一方で、母がいる「家」の所属からは一度も抜け出せていないのである。

花は危険を顧みず、目の前の壁を必死に登る。
それが自分が生きるための唯一の手段だと思い込んでいる。
しかし実は足元には緩やかに登る道がちゃんと準備されていて
壁を登る必要はないし、そもそも「上」が正解なわけではない。
壁をぶち破って「前」に進んでもいいし、
壁のない方向だって素敵な何かがあるのかもしれない。

とはいえ、子どもから大人になる過程で誰しもこの「壁」にはぶち当たる。
そして多かれ少なかれ、みんな登ろうとして、落ちて、
初めて足元の道やそれ以外の手段に気づく。周りが見えてくる。

思考のバイアスを取り除いてみたら世界の自由度にぞっとする。
何も確かなものがなくなって、自分の中の「事実」が揺らぐ。

この本を読んでいると積み上げてきた思考の偏りから抜け出す瞬間の怖さを
生々しく追体験できる。

そして気づく。
今、こんなことを書いてる私だって、まだバイアスを持っているはずで
私の中の「事実」は何も確かじゃないこと。
人それぞれバイアスを持っているのだから
同じ現象を体験しても受け止める「事実」が一つじゃないこと。

私たちがなんとなく出られないと思っている世界は思考の中の「家」だ。
みんなそれぞれ形や色が違っていて、大きさもさまざまで
抜け出したい人も抜け出したくない人もいるだろう。

ただ一つ、共通なのは
その「家」の鍵を持っているのは自分自身だということ。

私を閉じ込めているのはいつだって私。


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