見出し画像

人間を語るときに白黒思考から距離を取る

バイバイバイナリ思考

たとえば、「向いていない」を「〇〇の習熟に平均より時間がかかる」くらいに言い換えてみる。
たとえば、「孤独主義」を「一人の時間を大切にしている」くらいに言い換えてみる。
たとえば、「相容れない」を「合わないところがある」くらいに言い換えてみる。

言い換えたことによって実態により近い表現になるだろうか。
言い換えたことによって実態が誤魔化され、覆い隠されることもあるのだろうか。

多くの場合、人間の性質や能力はバイナリ(白黒)ではない。グラデーションだ。また、個々のケースや評価方法によって、人間の性質や能力などというものは、どのようにも表出するし解釈される。見る人のさじ加減次第だったりする。
だから、「向いている/向いていない」、「孤独主義/共同体主義」といった一見バイナリっぽい言葉は、人間の特性を捉える上ではバイアスになりやすい。
たしかに単純化して物事を考えることが必要な場面もあるが、具体的な人間を言い表す上では、一度バイナリっぽい言葉を意識的に遠ざけてみてもよいように思う。
これは他者について語るときだけでなく、自分自身を評価するときも同様だ。

バイナリ思考の有害性

人間をバイナリ的に見ることでどんな害があるか。

まず、不要な分断や他者への蔑視につながることがある。
私自身、「〇〇な人とはどうしても分かり合えないなあ(交わらないなあ)」と思うことがよくあるし、それを口にしてしまうこともある。
でも、よく考えてみれば「分かり合えない」は会話上の誇張表現だったりする。せいぜいある場面や事柄についての考え方や行動が自分とは全然違うなあというのが実態なのだ。当たり前のように人間は一人ひとり違って、そのたくさんある違いの中のある部分が特に気になっているだけなのだ。
「〇〇な人とは分かり合えないなあ」と言うとまるでそれ以外の人とは分かり合えるようなニュアンスだが、そんなことはなく、多くの場面で感覚が自分と似ている人と、あまり似ていない人がグラデーションで存在しているだけだ。
このことは冷静に考えれば当たり前のことだが、どうしても自分と一部の他者との間に明確に線が引かれるような言葉づかいをしてしまう。そして、人間のグラデーションな性質をありのまま受け入れるゆとりがだんだんと失われていくのだ。
バイナリ思考に基づく言葉づかいは、場合によってはとても深刻な分断や蔑視につながることを、多少なりとも意識しておく必要があると思う。

そして、上記とも関連するが、バイナリ思考は安易な諦めや切り捨てにつながることがある。
「向いていないならさっさとやめた方がいい」と言われたら、私は生きることに向いていないしもう生きるのをやめたほうがいいように思えてくる。
でもそんなバカバカしい話は受け付けたくない。
「向いていない」ってなんだ? そこをもっともっともっと細分化して、定量化して、言語化して、ケース分けしなければならない、と思う。そのモノサシは誰のもので、何を測っていて、どれぐらい信用に足るのだろう。
ぼやっとまるっと低い解像度で言い切って、それで何になるのか。現実を直視すればするほど、物事は、人間は複雑であり、確かに言い切れることの少なさを感じる。
だからといってなんでもかんでも曖昧なままにしようとか、相対化しようとか、評価や解釈を諦めようとか、そういう話でもない。
なるべく解像度を高めて、物事を細部まで正しく観察・評価する努力をしていきたいという話だ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?