荒唐無稽な物語(ショートショート)
1月4日、午前7時
正月休みも終わり、今日から仕事始め。
とはいっても、ここ最近の感染拡大のためにぼくは自宅勤務だ。
今日は10時からZOOMで、社長の念頭訓示の予定があるぐらいで、あとは自分のペースで仕事ができそうで助かる。
そもそも、職場に出ていたって、初日はそれなりにしか仕事をしないのだから、今日はパソコンの前でのんびりと過ごそう。
そんなことを思いながら、朝食を終えたぼくは、自宅の書斎(納戸の端)の準備のため、リビングのノートパソコンの電源を抜いた。
すると妻が不思議そうな表情で声をかけてくる。
「え?ノートパソコン持ってどこ行くの」
「書斎だよ。今日も自宅勤務だから」
「自宅勤務?いつからそんな制度できたの?しかも今日から?」
「いや、去年から何回もしてるけど」
「何回も?いや、一回もしてないよ。え?まさか、私が会社行っている間、家にいたの?」
妻が突然何を言っているのか全くわからない。去年、緊急事態宣言が出たあたりから、ぼくの会社では自宅勤務が当たり前になり、週の半分は自宅勤務になっている。
確かに、妻の会社は自宅勤務をしていないけど、交代で作るお弁当もぼくは家で食べているのでお皿に盛るようになったし、スーツも着ないようになったので、毎年買い換える冬物のスーツはを去年は買わず、妻の洋服代に消えた。そもそも、去年の夫婦の会話の3割ぐらいはその話だったのに、知らないわけがない。
「いや、去年、緊急事態宣言が出てから」
「緊急事態!!なんの?」
「え、もちろんコロナのだよ。コロナウィルス」
「コロナ?何それ」
「え、ちょっと待って。どうしたの」
妻の発言が明らかにおかしい。
「どうしたって、そっちこそ。なに、緊急事態って。戦争でも起こったの」
「ちょっとまって、若年性認知症かもしれない。病院行こう」
「何言ってるの。認知症はそっちじゃないの」
「いや、だから、何度も自宅勤務してるじゃないか。去年からずっと、日本中大変な状況なんだから!」
「訳わからないこと言わないで!大変って何よ」
全く理解できない。いったい何が起こったのだろう。昨日も二人で普通に話をしていたのに。お正月も実家に帰ったりとバタバタしたせいで、少し疲れているのかもしれない。
「ちょっと待って」
とにかく妻を静止して、手元にあったiPadを開く。これでニュースを見せて、それでもこの言動をくりかえすなら、今日、病院に連れて行ったほうがいい。ストレスで一時的に記憶喪失になるという話は聞いたことがある。
まず、Yahooニュースを開く。確かここに「新型コロナ」のタブがあったはずだ。
「あれ、ない」
毎日にように見ていた「新型コロナ」のタブがない。消してしまったのだろうか。ニュース一覧を開くと最新のニュースが表示されている。
”Uターンラッシュ”
”民泊トラブル”
「なんだこれ」
つい、声に出てしまった。妻は引き続き怪訝な表情で見ている。おかしいと思いいくつかの記事を読んでいくと、最後にこうある。
“【共同2020年1月3日】”
おかしい、どの記事もクレジットが2020年1月のものだ。いったいどういうことだ。
「どうしたの」
混乱する僕を見て、妻が心配そうに声をかけてくる。
「いや、コロナの記事を探してるんだけど、去年のニュースばっかり出てきて」
「去年?2019年の記事?」
「いや、もう年が明けたんだから去年は2020年だよ」
「え、何言ってるの?」
「何って、よくあるだろ。『今年の紅白見た?』って間違った質問。年が明けてるから、実は去年の紅白ってやつ。それと同じで、今の去年は2020年だよ」
「ちょっとまって。今日が何年何月何日かわかってる」
「え、何言ってるの。2021年1月4日だよ」
「・・・・」
妻がこれまで見たことがないくらい目を見開いた。結婚して10年以上経つけど、こんな顔をするのは初めてだ。
「どうした・・・」
ぼくが声を出しかけた時、妻がぼくのiPadを奪い取り、Yahooのトップ画面を指差しながら言った。
「今日は2020年1月4日!しっかりして!」
2020年1月4日、午前7時半
机に座り、ノートパソコンと向かい合いながら、頭を抱えるぼくを、向かいの席から妻が心配そうに見ている。
少なくとも、Yahooも日経新聞、毎日、読売とどのサイトを開いても、今日は2020年1月4日と表示されている。トップページには「オリンピックイヤー」という言葉も。
「そんなに嫌なんだったら、会社辞めてもいいんだよ」
向かいから妻が優しく話しかけてくる。どうやら妻は、ぼくが会社に行くのが嫌になりすぎて、記憶がおかしくなったのだと思ったようだ。でも、今は職場にそんなにストレスはない。
まてよ、確かに、去年の今頃は部下との関係がうまくいかず悩んでいた。そのことを妻が言っているのであれば、完全に辻褄があう。
「いや、そういうんじゃないんだ。でも本当に今日は2020年なのかな」
「テレビつけようか」
妻が病人に諭すように、テレビをつけてくれた。
テレビには”1月4日(日)”と表示されている。確かに、2020年だ。
今日が日曜日なら、そもそも仕事をする必要はない。
リモコンを受け取り、チャンネルをザッピングする。
”東京オリンピック アスリートに直撃”
”品川プリンスホテル バイキング特集”
そこには、マウスガードをつけた出演者も透明のアクリル板もない。
いつもの、いや、正確には「コロナ前までのいつもの風景」が広がっていた。だれもマスクなんてしていない。リポーターも取材相手もみんな位置が近い。いわゆる三密状態。
「どういうことなんだろう」
テレビを見たまま僕がつぶやくように言った。
「うんうん。ゆっくりでいいし。もしかしたら、変な夢を見たのかも」
「夢?まさか、そんな。あの一年は夢だったのかな」
「よかったら、話してよ?その話?戦争?」
「いや、戦争じゃないんだけど、その。ウィルスが」
「ウィルス?」
妻の口角が少し上がった。何とか笑いを堪えている。あまりの荒唐無稽さに我慢できなかったようだ。確かに、小説か映画みたいな話ではある。
「いや、本当に恐ろしいウィルスが世界中に蔓延して大変なことになるんだ」
「世界中?パンデミックってやつ?みんな死んじゃうの?」
「そう、最初は結構死ぬんだけど、全員って訳じゃなくて、10%くらいだったかな」
「え!10%!じゃあ、日本人も一千万人くらい死んじゃったの?」
「いや、そんなことはなくて、確か三千人くらいだったかな」
「三千人?この間ニュースでインフルエンザの死者数もそのくらいって言ってた気がするけど」
「そう、そう、そうなんだけど。その、なんて言うか日本人はかかりにくくて」
「なにそれ?日本人はそのウィルスに強いとか、そんなのあるの」
妻がついに笑い出す。妻にとったらぼくの「夢の話」だから仕方ないのだろうけど。
「本当なんだ。なぜか日本人の死亡率は低くて。でもアメリカとかは30万人とかが亡くなっていて。でも理由はわからない」
「へぇ、日本人はラッキーなんだね。じゃあ私たちも無事なわけね」
「そうなんだけど、医療崩壊が起こって大変なんだよ。飲食店とかもみんな潰れて」
「飲食店?なんで飲食店が潰れるの?食べ物から感染するとか」
「違うんだ。飲食店でしゃべることで感染して。だから飲食店の営業を自粛してもらったりしていて」
「え!話すと感染するの?それで店を閉めるの?誰が決めたの」
「緊急事態宣言っていうのがあって、それに基づいてするんだよ」
「緊急事態宣言。さっき言ってたやつ。なんかかっこいいね」
「かっこいいというか。とにかく人との接触を断つように言われて、仕事に行くな、旅行に行くなって、もうみんな大変なんだから」
「すごいね。じゃあ2020年はつまらない一年だね」
「いや、意外にそうでもなくて、ウィルスが落ち着いた時は、景気対策のためにGoToって旅行キャンペーンがされたりして、あと全員に10万円配られる」
「なにそれ。GoToってダサい名前。でも10万円すごいね!この財政難の中!ぜんぜん大変じゃないじゃん。むしろラッキーじゃん。旅行も行けて」
「そうだよ。おかげで夢のリッツ・カールトンにも泊まりに行けたんだよ。二人で」
「なんだ。じゃあ楽しい話じゃない」
「いや、大変なんだけど、若者は重症化しないからなんていうか。でも、年末にはまた感染者が増えて大変で。あ、そうそうオリンピックは2021年になった」
「え!2021年にするの?世界中でそんないっぱい亡くなってるのに?」
「ワクチンが開発されたんだ。アメリカとかドイツとかのやつが」
「え、じゃあ、それで解決するじゃない」
「そうなんだけど、ワクチンの効果もわからないし、全国民が摂取するのは大変だし、冷凍しないといけないとか、ともかく時間がかかるんだよ」
「ふーーーん」
ここまで聞いて妻が質問をやめた。目の焦点を空中の一点に合わせている。考え事をする時はいつもこの表情になる。
あまりにもリアリティがありすぎて、ぼくの言っていることを少し信じだしたのかもしれない。
1月4日(日)、午前8時15分
妻は少し考え込んだ上で、ついに口を開いた。
「ちょっと、ストーリーに無理があるかな」
ぼくの話を散々聞いて、妻が最後に下した判断は「夢」だった。
「だってさ、まず『日本人には効かないウィルス』は設定に無理があるよ。それに、3000人しか亡くなってないのに、そんな宣言出して、意味がわからない。全員に10万円も何?そんなことするぐらいなら、病院作ればいいじゃん」
「いや、ストーリーじゃなくて・・・・」
妻はぼくの言葉を遮り、iPadで一冊の電子書籍を開いた。
「お正月、こんなの見るからだよ」
そこには”感染列島 第8巻”が開かれていた。
確かに、去年のお正月、半額キャンペーンで購入したこの漫画を一気読みしていた。でもまさか、そのせいでこんな長い夢を見たのだろうか。
「なんにしてもさ、もしも、もしも、もしもね。もしも本当にそんな1年間がこれからあったとして、私たちは旅行に行けて、10万円もらえて、生きてるわけなんでしょ。じゃあ、まあいいじゃん」
「うん、まあそうなんだけど。たくさん苦しむ人がいて、もし本当にまだ起こっていないのなら、ちょっとでもそれを防がないといけないんだ」
「それはわかったけど、あまりにも荒唐無稽すぎるし。そんな話したら、本当に病院に入れられるよ」
「それは・・・」
言い返そうかと思ったが、諦めた。確かにテレビは相変わらず、コロナ前の変わらぬ日常を映し出している。
「とにかく、今日はおやすみだよ。私大丸のセールに行きたいんだけどどう?多分普通の空気に触れたほうがいいよ」
大丸か。もし一年前ならたくさんの中国人観光客がいるはずだ。本当に2020年なのか確かめられる。でも、それが事実だとしても、ぼくの過ごした一年が夢だったなんでどうしても思えなさそうなのだが。
「わ、わかったよ。じゃあ、出かけよう」
「よかった。じゃあ、準備するね。とりあえずゆっくり座ってて」
「うん、わかった」
妻が出かける準備をしている間、再度ネットニュースをチェックしてみた。
コロナと関係ない、いろんな記事があるけど、どれも覚えているような、いないような。そもそもニュースなんてそんな真剣に見ていなかったのだから、1年も前の話がわかるわけもないのだ。
もしかしたら、本当にぼくの夢だったのかもしれない。
平和なニュースを見ているうちに、そんな思いが頭がよぎりだした。ところが、iPadでYahooニュースの国際タブを一番下までスクロールしてある見出しを見つけた瞬間、全身の血の気が引いた。
「ねえ!ちょっといい」
焦りながら呼びかけるぼくの声に驚き、妻が洗面所から戻ってくる。
「どうした?」
お化粧のために髪の毛を上げながら、心配そうな表情である。
焦って呼んだものの、妻の顔を見て、何も話しても信じてもらえないような気がして、ぼくは少し冷静になった。今は誤魔化して、タイミングを見て、後でゆっくり話してみよう。
「あ、あのさ。えっと、確か大阪のお兄さん、ボランティアの高齢者施設の慰問って今もしてるの」
「ああ、今でもたまにいってるらしいね」
「じゃあさ、今日ドラッグストア行ってもいい?」
「いいけどなんで」
「ちょっと送りたいものがあるんだ。お兄さんに」
「なに?送りたいものって。向こうで買って貰えばいいじゃん」
「いや、そうもいかなくなるから。ドラッグストアで話すよ」
マスクを買いたいなんて言ったらまた止められるに決まっている。ぼくは詳しく話すのはやめておいた。
「うーん。わかった。まあいい。じゃあ、大丸の途中に行こう」
妻は何か言おうとしてためらった。今日のぼくはそっとしておいたほうがいいと判断してくれたのだろう。
こんな荒唐無稽な話。きっと夢かもしれない。
そして妻の言う通り、その夢が事実だとしても、ぼくらが受ける被害は、実際、そんなに大きいものではないのかもしれない。
でも、確実に人生を狂わされる人たちがたくさんいる。
だから、その可能性がある限り、今はぼくが世の中のためにできることをしておこう。そう思った。
テーブルに置かれたiPadの画面には、こんな見出しが踊っていた。
”武漢で新型ウィルス 人から人への感染確認されず”
”専門家 SARSのような事態なし”
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