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痛みと、回復と、コミュニティについて


ハロー。

きょうも、「コミュニティ」についての仮説を述べたい。
テーマは「痛み」と「回復」についてだよ。



サディのコミュニティ本 「We Are Lonrly, But Not Alone」に

コミュニティにおける熱狂とは「成長することか、成長を見守ること」

と書いてあった。
これは、ものすごい好きな仮説で何度も何度も引用している。


じぶんが相似形をみつけられることができる誰かの「成長」の物語は、ものすごいモチベーションになるよね。

で、ぼくは、成長と同じように、じぶんと似た誰かの「回復」の物語は、生きる上での大きなモチベーションを与えてくれるとおもっている。


それをまさに力強く体現しているのが、「soar」だ。


ぼくは、soarのこの思想に人生レベルで共感しているのだけど、去年の参加したsoarのイベントは、まさにこの「回復」をテーマになっていた。


そこで語られていたのは、こんなおはなし。

回復とは、「元の状態にもどること」だけではない。
無くしたものとは別のもので別のかたちで心を満たすこと。
新しい生き方を編み直すこと。
治らなくても、しあわせになることはできる。


この意味合いでの「回復」に、大きな希望を感じている。

イベントにも出演されていた熊谷晋一郎先生の「ひとりで苦しまないための『痛みの哲学』」という本の中で、レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』という概念について紹介している。


大災害のときには、なにかものすごく強いユートピア的と言ってもいいような共同体、ひとのつがなりができあがる。

そこで、ひとは信じられないほどお互いを利他的に助け合って、普通ではありえないようなある種のつながり(「友愛のコミューン」)をつくりだす。

財産や家族を失ったこと自体は、取り返しのつかない悲しみである。
しかし、それと同時に、そのときに経験した「友愛のコミューン」に、人々は喜びの感覚を覚えている、と。

個人としても、共同体としても、「痛み」にまつわる負の記憶のほうが鮮烈に残るものだ。
大きな痛みを感じたときの記憶は、一撃で一生ぶんの影響や学びを与えうる。

「大きな痛みの記憶」によって人生の方向性を変えられたり、決定づけられたひとは多いだろう。ぼくもそのひとりだ。


ここから言えるのは、「物語の共有」、とくに「痛みの物語の共有」はコミュニティのつながりを強くする、ということ。

(ぼくにはもう15年くらい一緒に色んなことをやっている運命共同体的な親友がいるのだけど、彼とは生涯忘れられない痛みの思い出を共有している。)


そして、「痛み」の物語を共有し、さらにそこからの「回復の物語」をも共有し体験しうるようなコミュニティであれば、そこから生まれる「熱狂」はすさまじく、生まれる価値や影響力は計り知れないものになるだろう。

というのが、ぼくの仮説であり、ぼくがつくりたいとおもうコミュニティの理想形だ。

ふとキャリアを振り返ったときに、これまでぼくは、「すでに強いひとチーム」に入る選択を結果としていちども取らなかった。優秀な強いチームで働くことで得られる成長は十分に魅力的に感じていたにもかかわらず。

ぼくはそれを、単なるニッチ志向と、「弱小が奇策を使って強豪に勝つのが『少年ジャンプ』だろ」という少年誌的なメンタリティの仕業だとおもっていたんだけど、どうもそれだけではなかったみたい。
つよい世界で切磋琢磨してゴリゴリ成長する物語よりも、だれかの回復に寄り添う物語のほうに、より強く心惹かれていたからなんだろうと、ちょっと大人になったいまになって気づいた。


ぼくは「青魔道士」志望だから、じぶんが理解できる「痛み」を集めたいとおもってラーニングしているんだけど、もっと知りたいのは、その先にある、いろいろな痛みからの「回復の物語」なんだよね。
あわよくば、じぶんが関わることによってそれをつくってやりたい。


小学生の時に、「ダイの大冒険」というマンガにでてくる

「勇者とは、勇敢なもののことではなく、人に勇気を与える者のことだ」

ということばにであってから、ぼくはいまだにずっと勇者を目指していて、全身装着用の「ロトの鎧」をオーダーメイドで購入するくらいの中二病なのだけど、ぼくの理想の勇者像は、だれかに「生きる勇気」を与えられる存在であること。

それが出来るようになったら、勇者を名乗っていいんじゃないかとおもっている(笑)

本家のドラクエの転職システムでも、最上級職である「勇者」への道は長く険しい。(「プラチナキング」並である。)

それでも、青魔道士として「痛み」と「回復」の修行を積んだ先には、念願の勇者への転職ルートが開けてくるのではないかとおもっているのだ。

(この際、FFとドラクエが混じってることはどうでもいい)


繰り返すけど、「回復の物語」は希望だ。
そして、回復の物語は、強烈に求められている。


それを実感させてくれたのが、この菊川さんのノートだ。

たとえ自慢でもいいから、「ひどい話だ」と言われる環境にいた人が、それでも生きていく姿が見たい。

それが希望になる。

悲しい過去が、悲しいままで終わる姿を見たって、似た境遇の人の希望にはならない。

乗り越えた自慢を聞かせてくれ。


この魂の叫びのような文章を読んだとき、震えがくるような感覚になったのを覚えている。
なんとか、この叫びに応えることはできないだろうか、と。

まだまだ、その「こたえ」になるような物語には到達できていなくて、道半ばであるけれども。


それでも


「悲しいままで終わらせたくなかった」ひとへの想いと、「悲しいままで終わらせてたまるか」とおもって今関わっているひとへの想いが、人生をなかなかいい感じに味わい深くしてくれているな。



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